【20.小さな手】
北側の都市城壁からの帰り道。
収穫を終えた子供たちは、それぞれの家路へ戻ると語った。
残されたところで行くアテも無い。
城内を散策中の王妃は、一緒に市中へと立ち寄ることにした。
「それは、夕食になるの?」
「うん。ピクルスになるの」
鍔の大きな白い帽子を被った王妃が、腰をいくぶん屈めて網籠を持った小さい方の女の子に尋ねると、抑揚の無い明るい声が笑顔を伴った。
三人のうち二人は兄妹で、網籠を持った女の子は、隣に住んでいるという。
リアが訪れる前に収穫をしたのだろうか、籠の中には食べ頃を迎えた鮮やかな緑色の葡萄が一房収まっていた――
城沿いから一本西側を南に向かって歩くと、やがて左手に麻布の天幕が並んだ市場が見えてきた。
「ママ!」
市場に向かうと、網籠を持った女の子がタタッと駆け出した。
どうやら彼女の母親が、屋台を出しているらしい。
城の南から都市城門へと続く大通りは、トゥーラのメインストリート。
ここでは1日置きに午前中、マルシェが行われるのだ。
四方に支柱が立って、上から麻布を被せた簡易な屋台がずらっと連なっている。
垂れた布の部分には刺繍を施して、或いは品物の絵が描いてあったりと、眺めるのも面白い。
「今日は、葡萄も採ってきたよ」
「お帰り。良かったわね。家に帰ったら、冷やしといてね」
「うん!」
微笑ましい母娘の会話が始まったところに、兄妹にお礼を告げて別れたリアが追いついた。
「いらっしゃいませ!」
「ママ、この人は、お客さんじゃないよ?」
高い声がリアを迎えると、抑揚の無い声を発した女の子が、母の衣服の裾を掴んだ。
「え?」
「いやいや……買います! 買いますよ! お客さんです!」
我が子を連れ歩く見知らぬ大人は、たとえ女性であっても怪しく映るに違いない。
衛兵に通報されてはマズいと、王妃は小さな両手を前に出して左右に振った。
「ええっと……」
腰を曲げ、焦りを隠すように改めて商品を見やると、閉店時間が近いからか、野菜や果物が屋台の真ん中付近に集まっていた。
北の城壁で育てられた野菜たちも、ここに並ぶのだろうか……
「トマトください。あと、あれはワインですか?」
「そうだよ。お父さんに、買っていってあげるのかい?」
「あ、はい。夫に……」
悪気もなく訊かれたが、この世にリアの父親は、もういない。
「あら、ごめんね。旦那が羨ましいね。こんな可愛い奥さんで」
商売上手である。
良く通る人並み以上に高らかな声色が、ふっくらとした身体全体から放たれた。
「いえ……ありがとうございます」
「また、お願いね」
「はい」
頬の染まった王妃は、麻布で丁寧に包まれた商品を両手で受け取った。
「お姉ちゃん、またね」
「またね」
大きな瞳。笑顔の隣で紅葉のような手が揺れる。
リアも笑顔で手を振って、上機嫌で屋台を後にした――
この時代、夕食は簡素に済ます事が多かった。
二人の食事は女中が3階に運んでくる日もあれば、リアとロイズが厨房横の食堂に下りる事もある。
この日はリアの強い提案で、前者となった。
「ワインなんて、珍しいね」
身体を清めて戻ったロイズが、ワインの入った陶器に瞳を近付けた。
リアの幼少期。強い酒を飲んでひっくり返った事があり、普段の食卓には並ばない。
テーブルには、木皿に盛ったチーズとトマトが添えてある。
「そうなの! 今日はちょっと、面白いものを見つけてね!」
リアの瞳は大きくなって、嬉々として昼間の出来事を話し始めた――
「……というわけで、また、一仕事お願いね!」
「わかったよ……とりあえず明日、僕も見に行ってくるよ」
「宜しくね」
仮にも王妃である。
頻繁に城下を散策する訳ではない。
こんなことあったよ――
大きな瞳が輝いて、楽しそうに話す姿を眺めるのは、ロイズにとっても新たな視点を得る有意義なものなのだ。
「全員、止まれ!」
翌日。北の城壁に向かう途中。ロイズが練兵場に立ち寄ると、いかつい身体に帷子を纏った四角い顔の将軍が号令を発した。
隊列の入れ替え訓練中。
兵は野太い声に動きを止めると、やがて国王の姿に気が付いて、その場で直立をした。
普段着の者は皆無であったが、初夏を迎える陽射しの中で、上半身裸の者も居た。
「ああ、続けて下さい」
「再開!」
思わぬ視線に晒されて、ロイズが気遣った。
察したグレンが再び令を発すると、ザザッと練兵場に砂煙が巻き上がり、再び隊列が動き出した。
「わざわざ、視察ですかな?」
「なんだか、北の城壁に、面白いものがあるって聞いてね。見に行く途中です」
「北に?」
言いながら、グレンは北の方に視線を預けた。
「私も……後で行ってみます」
「よろしくお願いします。恐らくですが、一仕事、頼むことになります」
「わかりました。ところで……」
グレンは快く応じると、別件で何やらロイズに話を持ち掛けた――
正午を回ったころ、視察を終えたロイズが居住区に戻ると、寝室に続く扉に、横幅は同じで、高さが半分くらいの板を立て掛けて、リアがナイフと戯れていた。
「……」
体勢の崩れた状況を想定。左手を床につき、右手首を左腋から目標へと向かって強く振ったかと思えば、次にふわっと優しく斜め上方へと躍らせる。
刃渡り10センチ程の二本のナイフは、それぞれカッ、カ、と音を立て、板の中心と上部にそれぞれ突き刺さった。
「お見事だね」
螺旋階段を上ったところから、鮮やかなナイフ捌きを見届けて、ロイズが感嘆の声を発した。
「どうだった?」
背後の気配は察したらしい。
立ち上がった王妃は赤みの入った髪を揺らして振り向くと、肩で息を吐きながら、普段より高くなった声で尋ねた。
「行けそうだね」
「そうよね! じゃあ、指示は任せたからね!」
「了解」
額に吹き出した汗をリアが右手で拭うと、一つの作業が決した――
「ところで今日の夜、グレンさんの家に呼ばれたんだけど、行く?」
小さなテーブルに置かれた水差しを手に取ると、手のひらサイズのマグに水を注ぎながら、ロイズが口を開いた。
「今日?」
「うん。『釣った魚をいかがですか?』 って。僕が釣ったのも、ある筈なんだけどな……」
ロイズが心外だと口を開くと、手にしたマグを傾けて、喉へと水を流し込んだ。
同盟締結の帰りに興じた釣り大会。
ロイズ自身が釣った魚は、監視役を担って参加しなかった者へ与えるようにと、グレンに託されていたのだ。
「それは、食べに行かないとね」
ロイズの分は、きっと残しておいたのだ。
将軍の気遣いを悟った王妃は、微笑んで快諾をした――
夕方。二人は南の城門から歩いて3分ほどにある、グレンの住まいを訪れた。
先にロイズが護衛付きで。
それから10分ほど経ってから、リアが城で働く女中を供にしてやってきた。
勿論、これはリアの素性を隠すため。
傍から見れば、仕事帰りの母親と、一緒に帰る娘としか映らない――
「おじゃまします」
付き添ってくれた女中を労うと、リアは大きな門構えの前で到着を告げたのち、一歩を踏み出した。
「王妃様でいらっしゃいますか? グレンの宅へようこそ。妻の、アンジェと申します」
一人のふっくらとした女性が、玄関扉の前で頭を下げていた。
アンジェと名乗った声の高い女性は、姿勢はそのままで、簡単な自己紹介を並べた。
「あ、はい。今日はお招き頂いて、ありがとうございます」
被っていた鍔の広い麦わら帽子を右手で外すと、リアはペコリと頭を下げた。
「いえ。出過ぎた真似を致しますが……日々の、感謝の意と思って頂ければ幸いです」
「そんな、頭を上げてください……」
身分の違いはあっても、明らかに年上の相手に深々と頭を下げられるのは面映ゆい。
恐縮を口にして、小さな王妃は両手を前に出しながら近づいた。
「あれ?」
「え?」
二人が、殆ど同時に声を出す――
頭を上げたその人は、マルシェで出会った屋台の女主人であった――
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