【187.蜂蜜①】
夜の帳が下りた城内で、ベッドで横になったマルマは麻のシーツに包まっていた。
一緒に暮らす。その意味を考える。
二人での生活は、どんなふうになるのだろう――
5歳年上。薄い顔の尚書との生活は、共に城で働いて、リア様とも交流しながら、時には一緒に食事を摂ったりできそうだ。
きっと喧嘩もしながら、その時はリア様に泣きついて、薄い顔が凹む姿を眺めるのだろうな…
同い年の美将軍との生活は、彼の母親が加わって、女中頭のアンジェさんとの交流が増えそうだ。
二人の将軍が見守ってくれるというのは心強い。
城での立場も自然と上がって、将来は目標と定めたアンジェさんの片腕として切り盛りすることになるのでは…
過大評価を含んでいると思いながらも、そんな青写真が浮かんだ。
「……」
いったい何を想像しているのか――
我に返って、乙女の頬は赤に染まった。
朝を迎えてマルマが螺旋階段を上ると、いつもの席は暖炉の前へと移動していて、国王ロイズの背中が覗いた。
「やあ」
気配に気付いて端正な顔立ちが振り返ると、マルマは失礼しますと足を進めた。
「何を、されているのですか?」
寝室の扉は開いていて、東側の採光口からは光が漏れる。穏やかな空気の中で、マルマが尋ねた。
「ん? 眺めていたんだよ」
「……」
ロイズが視線で示すと、寝室のベッドの上で、猫のようにアレッタを見守る形で眠る王妃様の姿がやってきた。
「なんか、入り辛くてね」
「そうですね…」
アレッタの夜泣きに起きては母乳を与えたり、排泄物の処理を行ったり。当然麻布を替えてお湯を用意して…
城で暮らすマルマと共に、時にアンジェからの助言を受けながら、総てを側仕えや乳母に託すのではなく、リアは母として積極的に我が子と関わった。
それはリャザンに滞在中、赤子の世話から遠くなったことによる反動かもしれない。
客人の初子に何かあっては一大事と、リャザン公妃の助言により、アレッタは乳母たちの手厚い保護下に置かれたのだ。
しかしながらこの時代、新生児の死亡率は恐ろしく高い。
出産前から生後の数か月をリャザンで過ごせたアレッタは、幸運と言えるだろう。
「自覚が足りません!」
ある日のこと。
アンジェの怒号が寝室に響き渡った。
何事かとマルマが螺旋階段を駆け上がると、赤子を抱えた女中頭が赤みの入った髪を垂れ下げる王妃を上から睨みつけていた。
原因は、暖炉の上方で天井から吊り下げられた麻布に包まれていたアレッタが、麻布の結び目が緩んで落下したのだ。
幸いにして赤子は無事だったが、暖炉の前の石床で転がっていた。
それをアンジェが発見して悲鳴を上げたという訳だ。
母親は、授乳と清拭が重なって疲労困憊。アレッタが鳴き声を発する事はなく、自身は眠ったままで気付かなかったのだ。
「悪かったとは思います! でも、娘が一歳なら、私は親の一歳です。失敗だってします!」
リアにしては珍しく、諫言に歯向かった。
身に染みているところに畳み込まれては、我慢ができなかったのだ。
「それでも、子供にとっての母親は、あなたしかいないのです」
「……」
しかしながら、頭上からの続いた言葉には押し黙るしかなかった。
後継などという概念は全く無かったが、周りにとっては王太子。
失敗一つも許されない――
確かに自覚が無かったと、以来、リアは積極的に他人の助けを受け容れた。
「マルマには、弟や妹はいたの?」
王妃を叱責した後で、螺旋階段を下りながらアンジェが過去形で尋ねた。
「はい。いました。二人…」
「そう…」
「王妃様を見てると、とても任せる訳にはいかない。手助けはお願いね」
「分かりました」
マルマは答えると、物心がついてから子育てを手伝った、妹のことを思い出した――
寒い冬の夜。8歳のマルマは高熱を出した6つ年下の妹を遠目から見守っていた。
お母さんと叔母さんが暖炉の火を絶やさずに、雪を溶かして水にして、吹き出す汗を麻布で拭いていた。
用意した蜂蜜入りの甘いミルクは、全く減っていなかった――
「もう、この子は駄目だね」
祖母の言葉が耳から離れない。
必死で看病する二人の間に首を伸ばすと、彼女の曲がった背中が淡々と呟いた。
看取った命は幾人か―—
祖母は、あの日の襲撃で散り散りになってしまった。
恐らくは、もう会う事は敵わない――
「いいですね…」
「ん?」
しばし過去に耽ったマルマが呟くと、ロイズが視線を預けた。
「いえ…」
なんでもないですと口を開いて、マルマは二人の穏やかな時間に憧れた。
「不思議ですよね…」
「ん?」
「リア様。赤ちゃんが一緒だと、動かないんですよ」
「そうだね」
寝相の悪い王妃様。
時にはイビキもかくけれど、子供のようで見ている分には愉しい。
リャザン滞在中。一緒の就寝時。手首がおでこに、足がお腹に降って来て、何度も起こされた。
そんな情景を思い起こして、マルマの頬は綻んだ—―
「あ。ま、マルマ?」
「ん? なんですか?」
家族の時間を大切に。
茶褐色の髪を揺らしながら地階まで降りたところで、ラッセルから声が掛かった。
「今日の午後、なんか用事…ある?」
「午後? 今日はアビリ先輩と、蜂蜜採りに行くけど? なんで?」
「あ、いや…予定があるなら良いんだ」
慌てるように会話を遮ると、細い背中は離れていった。
「……」
春を迎えて、トゥーラ全体が慌ただしい。
スモレンスクを退けて、停戦の協定までを結んだ弱小国家。
興味を惹くのは当然で、国家の安定と共に他国からの文書が増加して、商人の交易も増えてきた。
手形の承認は尚書の役目。
国王様の方針は、間者の出入りを防ぐため、明確な出自の確認ができない限り、認めないとの事らしい。
当然ながら書類の不備が多くなり、文官と商人の間で揉めることもあると聞く。
「…大丈夫か?」
遠ざかっていく猫背を見つめながら、マルマはため息交じりに呟いた。
しかしながら、次には弟を見守る姉のように、目尻は下がって柔和な表情となっていた――
正午になると、マルマは麻布で頬かむりした上から麦わら帽子を被って都市城門へと向かった。
「マルマ、遅いわよ!」
全力で城下を駆けるのは二年ぶり。
息が上がったところが都市城門。両膝に手を置いて肩で息をしていると、黒髪ポニーテールの先輩が寄ってきて、苦言を呈した。
「すみません…」
部屋を後にしようと立ち上がったところで、アレッタが愚図って後ろ髪を引かれたのだ。
頭上からの声に顔を上げると、同じく頬かむり。麦わら帽子を被っているアビリの顔が覗いた。
「あれ? 一人ですか?」
「外に居るわよ」
マルマの声に、アビリは開いている都市城門を人差し指で示した。
「おう、こんにちは」
「あ、こんにちは]
都市城門を抜けると、レンガ造りの城壁にもたれかかっているウォレンと目が合った。
「おはようございます」
「え?」
ウォレンの向こう側。続いた予想外の声には、マルマの茶色い瞳が開いた。
「なんで? ライエルさんが?」
「いや…二人に呼ばれまして…」
マルマが高い声を発すると、整った顔立ちがはにかんだ。
「特別ゲスト。どう? 嬉しいでしょ」
「嬉しい?」
背中からアビリの声がやってきて、丸い顔が振り向いた。
そばかす交じりの先輩はニコニコと笑っているが、心には「迷惑」 という一言だけが張り付いた。
「俺が頼んだんだよ。力仕事だからな」
「そうなんですね…」
「余計な事だったか?」
「いえいえ、とんでもない!」
口を開くも、困惑は隠せない。
それでも続いた言葉には、本人の手前もあって慌てて首を左右に振った。
「さ、行くよ!」
じれったい。
青空の下、麦わら帽子から黒髪を垂らしたアビリがマルマの右手を掴むと、東へと足を進めた。
「リャザンでは、一緒にデートしてたんでしょ? こっちでも、遠慮しなくていいんだよ!」
「……」
情報は、ウォレンを通して筒抜けとなっている。
この人は、恐らく愉しんでいる…
それでも先輩なりに、楽しい時間を演出してくれたのだ。
「わかりましたよ…」
だったら乗ってみよう。
広がる青い空の下。右手を引かれたマルマは腕をほどいて先輩の右へと足を進めた。
「……」
都市城門の向こうへと、4人が消えていく。
城の二階から、痩身の尚書は心に暗澹を起こす中、憂いを帯びた瞳で彼らを眺めるのだった――
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