【176.弔い①】
1170年2月。
北方の安定を図るため、スーズダリ大公アンドレイはノヴゴロドへの派兵を企てた。
軍議の結果、要請に抗えず、戦列に加わる事になったリャザンの軍勢は、氷結したオカ川を上る一方で、一部は西進してトゥーラを経由する事にした――
「グレヴィ王子と、ワルフだけだからね!」
立ち寄るとの一報は、二日前に届いた。
厳冬期で魚は獲れず、糧食も乏しい。
突然の訪問が告げられて、寝室のベッドで寛いでいた王妃は飛び起きて、胡坐をかいて話を聞くと語気を強くした。
「そんなに、怒らなくても…」
「そうじゃないの。トゥーラはあくまでも中立を貫くの。リャザンの軍勢を招いたら、スーズダリに協力したことになる!」
「……」
厳格な姿勢が示されて、戸惑いと感心がロイズの心に灯った――
「でも、ワルフが連れてきたって事は無いの?」
「……」
続いたロイズの言葉には、リアの動きが止まった。
リャザンがどうあるべきか。お前の口から言ってくれ――
そんな意図だとすれば、合点がいく。
「……自分で言いなさいよ!」
それでもリアは傍らの枕を手に取ると、肩まで掲げてからベッドに叩きつけた――
宗主国の王子の訪問は、トゥーラの城内を騒然とさせるに十分だった。
高貴な身分の来城は、築城以来初めてのこと。
何しろ客間が無い。調度品もない。もてなすような食材も無い――
家屋を回ったアビリが冬眠中の女中たちを集めると、二階の中広間を客間に替えるべく、大掃除と模様替えが始まった。
「前の城主の調度品が、倉庫に眠ってる筈。運んできて!」
アンジェの指示が飛ぶ。
リアとロイズが赴任して、日に当たる事は無くなった。
まさか使う日が訪れるとは――
荷車で雪を運んで鍋に入れ、焚火で溶かして水にする。
調度品を洗いつつ状態を確かめながら、女中たちは粉雪の舞う中で作業を熟した――
「お久しぶりです」
「突然の訪問、申し訳ない」
太陽が頂に上るころ。都市城門でリャザンの一行を出迎えたのは、国王ロイズと尚書のラッセルであった。
ロイズが一歩を進み出て右手を差し出すと、小柄なリャザンの王子と握手を交わした。
「西に向かうならと、ワルフが訪問を勧めてくれたのだ」
「……」
どうやら見立ての通りらしい。
嘆息する伴侶の姿がロイズの脳裏に浮かんだ。
「狭い所です。大したもてなしはできませんが…」
「いやいや、分かってます。寝られるだけで十分です。明日の昼には出ますので、宴なども必要ありません」
「助かります」
二人は同年代。友の家に訪問するような気遣いに、ロイズの頬は綻んだ。
「失礼します」
客間として二階の中広間を案内されたグレヴィが、急拵えの調度品の数々を眺めていると、扉をノックする音と共に女性の声が届いた。
「どうぞ」
身体を翻したグレヴィは、緊張を灯して促した。
「お初にお目に掛かります。リアと申します」
扉が開いて姿を見せたのは、淡い桃色のドレスで着飾った小柄な女性。赤みの入った癖のある髪の毛が、肩の先まで垂れている。
扉をパタンと閉めたあと、ペコリと頭を下げた容姿は、舞台の閉幕を告げる姫役のようであった――
「そなたが…」
思わず声を漏らした。
尚書の初恋の相手。募る恋慕は幾人かの女性を袖にしたらしい。
人物像を描いた事もあったが、想像以上に可愛らしい少女のような女性であった――
「ワルフから、いろいろ耳にされていますか?」
「そうですね。しかし、あなたにお会いするべきだと申したのは、父上です」
「グレプ様…」
「はい。スーズダリにおりましたので、あなたのリャザン滞在中、私は会えませんでした。帰国して父と話をする中で、あなたの名前が何度も出たのです。キエフ遠征の陣容も、あなたの意見を参考にしたと…」
「いえいえ、言い過ぎです。私は、尚書の意見に頷いただけですから」
見通しは語ったが、軍事行動に口を挟んではいない――
当時の状況を思い起こして、トゥーラの王妃は広げた両手を前にした。
「あなたのお話を伺いたいのですが…どうでしょうか?」
「お話?」
「はい。ウチの尚書も父上も、あなたの話を殆どしてくれないのです。先入観を植えない為だと言われまして…」
「……私の事は、どこまで御存じなのですか?」
改めて訊いてみた。
自分がどのように紹介されているか、気になるところである。
当然ながら、悪印象に対しては徹底的に幼馴染を糾弾するつもりで――
「私が知っているのは、あなたがウチの尚書の初恋の相手だということくらいです」
「……」
予想外の発言に、トゥーラの王妃は固まった。
いったいアイツは、なんの話をしているのか――
「会ってみて分かりました。母上のような方を想像していたのですが、あなたには違った魅力がある」
「それは……ありがとうございます」
グレヴィの母親。リャザン公妃エフロシニア。
元キエフ大公ユーリー・ドルゴルーキーの孫娘。スーズダリ大公アンドレイの姪である――(*)
高貴な身分と比較され、リアは反応に困った。
「聡明であり、可愛らしい。ワルフが見染めるのも、無理はない」
「……」
「あなたには、迷惑な話でしょうがね」
「はあ…まあ…」
伴侶が居る。娘も産んだ。
それでも慕われるのは光栄なこと――
しかしながら、そろそろ呪縛は解くべき――
親離れのできない子供を憂うような…
自惚れだろうか。複雑な感情をリアは宿した。
30分後、トゥーラの王妃は真冬の外気に晒されていた。
「トゥーラを案内して頂くというのは、どうでしょう?」
そんなグレヴィの発言が発端である。
「寒い…」
「おい」
ぼそっとした呟きを、恰幅の良い男が窘めた。
宗主国の王子と足を並べても、相変わらず自由な奴だ――
「ちょっと! 西側を歩きなさいよ!」
「お前、俺を風除けにしようとしてるだろ…」
「当たり前でしょ!」
「寒いのは、苦手でしたか?」
一歩を進んだ石橋の上。背後の声に振り向いて、グレヴィが眉尻を下げて尋ねた。
「あはは。こいつは昔から、冬になると動かないんですよ」
「それは申し訳ない」
「いやいや、大丈夫です。こいつに気遣いなんて無用ですから」
「……」
大丈夫じゃない…
幼馴染の代弁に、ロイズの青いマントに包まった王妃は心の中で呟いた――
「ご覧の通り、トゥーラは小さな城市ですので…」
「それでも、スモレンスクを退けた」
「……」
案内するような場所は無い。暖炉の前での雑談がお互いにとって有益だろうと口を開くと、リアの歩幅に合わせて足を進めるワルフから、一つの案が示された。
「リャザンの防衛に役立つかもしれない。当時の戦況を、詳しく教えてくれ」
「……わかりました」
尚書としての発言に、リアはしぶしぶ同意した――
「なるほどな…」
西に歩いて都市城壁を視界に入れると、ワルフが感嘆を表した。細い城壁を補う形で、木材の足場が設けられている。
しかしながら、トゥーラはヴァティチの森の中。リャザンで同じ試みは、無理そうである。
「赴任して最初の戦いは、誰も斃れなかったと聞きました。それで、二度目の襲撃は……」
「38名の方が、亡くなりました」
「そうですか…」
都市城壁は勿論のこと。家屋の壁にも、至る所に補修の跡がある。
戦闘の激しさを思ったグレヴィの質問に、王妃は壁の上方を見やって答えた。
「戦いに散った者たちを、弔わせてくれないか? 彼らは、リャザンを救ってくれた」
「わかりました」
頭を覆っていた青いマントを外すと、赤みの入った髪の毛が寒空に泳いだ。
「こちらへどうぞ。話すよりも、良いかもしれません…」
二人を従える形で足を進めると、王妃は含めて口を開いた。
足を向けたのは南側。重い都市城門を開いた衛兵にお礼を述べると、リアは吹き込んでくる粉雪交じりの寒風に、頬を背けることなく歩き出した。
目の前は一面の雪景色。大地に数十歩の足跡を刻んだところで、王妃の足が止まった。
「ここで…多くの者が命を落としました…」
「……」
小さな背中を前にして、リャザンの二人は左右に設けられた石積みの防御壁に視線を移した。
防御壁の内側には、茶褐色の地面が覗いている。
戦闘の終結から一年半。トゥーラを守る気概は保ったままであった――
「……」
右手を胸にして、リアがスッと顎を引く。
足の止まった一行は、墓標のように佇んだ。
雪の中。
神聖な姿を前にして、宗主国の二人も倣うようにして祈りを捧げた――
*元キエフ大公ユーリー・ドルゴルーキー
手長公。モスクワの創設者。1157年逝去。リャザン公グレプにとっては義祖父。
エフロシニアはユーリーの長男ロスチスラフの娘。(アンドレイはユーリーの三男)
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