【175.配属】
『城主アンドレエヴィチの逝去を狙ったジミルヴィチのドロゴプージ乗っ取り』
『前大公ムスチスラフによるキエフ侵攻と退却』
1170年に起こった二つの騒動は、ルーシの北方でスーズダリ大公を称したアンドレイの動きと関連していた。
一年前。息子の手によってキエフを灰にしたアンドレイが、続いた混迷を見過ごすことになったのは、自らが別方面に軍を起こしたからである――
「リア様! リャザンからの早馬です!」
「早馬?」
季節は厳寒期。暖炉の前。
お気に入りのテーブルで書物を広げていた王妃の元に、尚書のラッセルが扉を開いてやってきた。
愛娘のアレッタは、猫の親子のようにして、マルマと共に足下で眠っている――
「スーズダリが、ノヴゴロドに攻め込む!?」
届いた文書はワルフから。
真っ先に記された一文に、リアは瞳を見開いた。
「ふぇ? どうされました?」
むっくりと、目尻に指を置いてマルマが起き上がる。
リアが視線を移すと、アレッタの瞳もぱっちりと開いていた――
「ちょっと、席を外してくれる? ついでに、ロイズを呼んできて」
「あ、はい。畏まりました」
「……」
マルマに懐いている愛娘――
母乳は与えているが、このままでは彼女を親だと認識するのでは?
アレッタを抱えて階下へと向かう後ろ姿を眺めながら、王妃は小さな心配を浮かべた。
「……」
ロイズが加わって宗主国の内情が伝えられると、部屋の空気は一層重たいものとなった。
リャザンには、またしても共闘要請が届いたのだ――
「だから、離れるようにって言ったのに…」
リアは後悔を口にした。
ジミルヴィチに襲われた帰路のこと。無策でスーズダリから戻ったワルフに対して、彼女が苦言を呈した一件である。
好戦的な国家に近い宗主国の現状は、安定を望む属国としては見過ごせなかったのだ。
「それでも、狙いはキエフだと思ってた…」
幼馴染はスーズダリ滞在中、ノヴゴロドに外遊したと言っていた――
つまりは、リャザンからの経路と地形を教えるためではなかったのか…
スーズダリの将兵と共に、ノヴゴロドの市中を呑気に歩き回るデブの姿が浮かんで、リアは奥歯を噛み締めた――
「トゥーラには、何か?」
「それは無いみたい。言われたところで、無理だし。突っぱねるけど」
「まあ…そうですよね…」
毅然とした信念に、ラッセルは肩の力を緩くした。
「リャザンは、どうすると思う?」
「キエフを襲った1年前。周囲に声を掛けたのは、脅しでもあったのよ…スーズダリかキエフか、選べってこと」
「……」
「特にリャザンはスーズダリと因縁があるし、派兵しなかったら、先に潰されていたかもね…トゥーラを巡って小競り合いなんて、してる場合じゃなかったのに…」(*)
スモレンスクのトゥーラ侵攻が無かったら、両国はキエフを守る堤となって、良好な関係を築いていたかもしれない――
ロイズからの質問に、赤髪の王妃は小さな亀裂を嘆いた。
「キエフ侵攻に加わったからには、スーズダリの意向は容れるんじゃないかな…」
「避けられない?」
「グレプ様だって、スーズダリに従うのは辛いはず。それでも禍根を生まないように、安寧を願って動いている…」
「……」
何度も席を共にした…
リャザン公を慮って、リアは同情を口にした。
「スーズダリの要請は、警戒の裏返し。リャザンとスモレンスクに背後を討たれないように、編成に組み入れようって話なのよ」
「…それで、リアならどうする?」
ワルフは軍師である。
面子を捨てて文書を送ったのは、リアの見解を伺うためであろう――
「スモレンスク次第だけど、派兵に応じるしか無いでしょうね。去年と同じ。とりあえず従って、やり過ごすしかないかな…」
「まあ、そうでしょうね…」
達した結論に、薄い顔の尚書が相槌を挟んだ。
「スモレンスクの将官から、手紙は無かった?」
「キエフ侵攻の前に、一回来たよ。僕の名前で、返事は送ったけど…」
「そう…」
「まずかった?」
「大丈夫。冬だったし、含める事なんて無かったしね」
商人の途絶える厳冬期。手紙のやり取りは難しくなる。
それでもスモレンスクの動向を、トゥーラの王妃は停戦協定を結んだ日から繋がっているカプスから得ようと考えた――
トゥーラから西へ400キロ。
リアの手紙がスモレンスクに届いたのは、1170年の2月に入った頃だった――
「ブランヒルさん。やはりリャザンにも、派兵の要請が届いたようです」
「まあ、そうだろうな…」
雪の舞い落ちる石畳の大広場。
整然と並んだ槍兵達が、右手に持った槍の穂先を天に向けていた――
これから戦場へと向かう彼らを側面から見守るブランヒルに、白い息で丸顔を隠しながら駆けてきたカプスが手にした情報を伝えた。
トゥーラで捕虜となり、停戦協定に赴いたブランヒルは、軍務に於いては練兵の任に就いていて、弟分のカプスは憲兵隊を殺した罪を問われたが、無罪となって憲兵隊を率いる立場になっていた――
「他には?」
「スモレンスクは、スーズダリに従うよりも、リャザンと共に、キエフを守るべきだと…」
「あの女が考えそうな事だな」
「ですが、間違った見解ではありません」
「女に言ってやれ。先ずは、お前らのリャザン公を説得してみせろってな!」
「……」
肯定はする。
しかしながら、状況が許さない。
ブランヒルは身勝手なリアの理想を吐き捨てた――
「リャザンからは、去年と同じくグレヴィ王子が出るそうです」
「まあ、そうだろうな…格を落とす訳にもいかんだろう。しかし――」
「……」
城の方から歓声が沸き起こって、目の前の兵士たちに緊張が走った。
二人が視線を向けると、歓声の向こうから白馬に跨ったスモレンスクを統べるロマン公が姿を現わした――
「こっちは、こうだからな…」
「……」
一年前のキエフ遠征に赴いたのは、二人の将校。デクランとベインズ。
他国に比べて明らかに格が下。
肩身の狭い状況を打開しようと、ベインズが逸って先陣を切ったのだ――
結果は上々であった。
格下であっても一番槍を認められ、他国と同等の金品を持ち帰った――
しかしながら、ロマン公の心は翳った。
スモレンスクは代々キエフと関係が近い。
にも拘らず、スーズダリに従ってキエフを焼いたとなれば、諸侯の目からは謀反と映るだろう。
それは、彼の本意ではなかったのだ。
ルーシの中心は、あくまでもリューリク朝の意志を受け継ぐキエフであるべきだ――
表向きはスーズダリに従うも、多くの諸侯の心持ちは、概ね同様であった――
「アンドレイは隠居しているが、まだ50代だろ? 本当に老いているのか? 総大将が息子で、こっちはロマン様だぞ? 同列なのか?」
スーズダリ「大公」を名乗ったからといって、スモレンスクと同列にはならない――
ブランヒルは自身の思いを弟分にぶつけた。
「でも、年代は同じですからね…」
「ロマン様の方が年長者だ」
「まあ、そうですが…」
比べると、リャザンのグレヴィは二十歳を超えた辺りで、派遣するには適当な年頃であった。
トゥーラとの戦いが終わって停戦協定を結ぶと、白い顎髭を蓄えた老臣フリュヒトの助言もあって、ブランヒルは前線から退いた。
新たな任務は、軍務と政務の間に立って、両者を取り持つ事だった――
「あの女の行く末を、見守りたい」
二人の共通認識であったが、賢臣フリュヒトは、冬を迎える前に亡くなった。
葬儀は盛大に行われ、宰相エリクセンは溢れる涙を止められず、国王ロマンの涙を誘った――
「力を以って事を為すのは、下策です。態度で示しなさい――」
ロマンが訪れた病床で、フリュヒトは最後の忠言を伝えた――
「しかし、ロマン様が自ら出ると仰ったと…」
「ああ。どうやら、不安になったらしい」
「不安?」
「去年と同じ過ちを、しないためにな。これ以上スーズダリに靡くのは、控えるおつもりなのさ」
「……」
「考えてみろ。ロマン様はスーズダリの力を借りずとも、キエフの椅子に座る人物だ。キエフ市民の印象を悪くしてどうなる?」
「そうですね…」
「ベインズが持ち帰ったものは、そのまま保管してある。いつかキエフに戻すためにな」
「……」
名君ウラジーミルⅡ世モノマフの血脈を、彼は濃厚に継いでいる。
父ロスチスラフ。従兄であるムスチスラフ。祖父に叔父…全員がキエフ大公の椅子に座している――
いつかとは、キエフに戻る時――
領主の心の内を、ブランヒルは想った――
やがて先頭に立ったロマン公が大広場を通り過ぎると、整列していた兵士たちが練習通りに後から続いた。
「……」
健闘を祈る。軍務から離れた二人には、寂しさが灯っている。
それでも、槍を持って武力を誇る事には抗いたかった。
「行ってきます」
軍の最後尾。馬上のベインズが二人に声を発した。
「おう」
「無茶すんじゃねえぞ」
それぞれに、将軍となった長身の彼を見上げると、ベインズの口元がニヤリと上がった気がした。
「……」
後衛となった意味――
働きにより階級は上がったが、そういうことである――
「あいつ、分かってないですね…」
「そうだな…」
並んで見送る筋肉質の二人は、誇らし気に揺れる背中に向かって呟いた――




