【155.土塁にて】
クリャージマ河畔。
スーズダリ大公アンドレイが定めた居住の地、ボゴリュービィ。
彼の息子のムスチスラフと異母弟は、30メートル四方に築かれた土塁の上に招かれていた。
「今はこんな様子でも、一ヶ月も経てば素晴らしいものになる」
召使によって並べられた椅子のうち、最も手前に置かれた骨太の椅子にゆったりと腰を下ろしたスーズダリ大公は、視線を前にして口を開いた。
「……」
土塁の周囲に迫っている雪解けの水たちは、そろそろ引くだろうか。
目の前には彼らに浸食された、泥水の大地が広がっている――
「5月になれば、ここは戻るでしょうが、キエフは戻りません!」
歳の近い叔父と並び立った両足はそのままで、ムスチスラフは訴えた。
「それほどに、酷いのか?」
「…申し訳ありません」
瞳の向きはそのままで、アンドレイが問い質すと、伏し目になった息子は力不足であったことを素直に認めた。
「グレープでは、難しいのか?」
続いてアンドレイは、新たなキエフ大公となった弟の見通しを尋ねた。
「はい。ここへ来る直前でも 『さっさと代われ』 と…」
「そうか…」
「はい」
「欲に眩んでいないところは、適任かもしれんな」
「……」
私欲に走る奴ではない――
アンドレイは弟を満足そうに評価した。
「それでも、あの人はやりたくないと言っています! 私の信用が無くなります!」
「……」
約束は守りたい。
未来に於ける自身の評価を憂慮して、ムスチスラフは訴えた。
「お前の意見は分かった。それでは、ミハルコの意見を聞こうか」
姿勢はそのままで、男は顔の周囲に拵えた黒褐色の髭を冷たい春風に遊ばせた。
「失礼します」
ミハルコが一歩を踏み出すと、ムスチスラフも同じく足を前に進めた。
しかしながら、歳の近い叔父が椅子の前に身体を置いたのに対して、彼は簡素な丸椅子を右手で掴んで元の位置へと戻った――
「お前は、俺を恨んでいるのか?」
肘掛けの左右に腕を乗せ、アンドレイは視線を前にしたままで尋ねた。
「…キエフに着いて数年は、そんな思いもありました」
左に座る男は、キエフ大公であった父を見捨てた上に、自身を生誕の地から追放したのだ――
ミハルコはしばらくの時間を置いてから、正直な思いを吐き出した。
「今は、どうだ?」
「……」
「俺のやっていることが、少しは解るんじゃないのか?」
「……そうですね」
左からの発言は、胸中に届いた――
ミハルコは膨らんだ目袋を下にして、キエフが辿った経緯を想った—―
「それで、お前は何を言いに来たんだ?」
改めて、首都を灰にした男が問い掛けた。
「…キエフは、残すべきだと考えます」
最悪な結果は回避したい。語気を抑えたミハルコは、それでも顔を向け、全霊を籠めて訴えた。
「そこまでは考えてない。無理だろ」
「……」
あっさりと、否定の見解が下された――
安心を灯して一息を吐き出すと、ミハルコの両肩は柔らかなものとなっていた。
「忘れるなよ? 俺だってな。親父と一緒になって、キエフからルーシの大地を良きものにしようとしてたんだ」
「……」
歳の離れた弟に、スーズダリ大公となった兄貴は含めるように想いを伝えた。
「折角の機会だ。親父の話をしてやる。お前が小さいときに、親父は一回目のキエフ大公に就いたんだ。覚えているか?」(*1)
「朧げですが、覚えています。5歳の頃だったかと…」
幼少だったミハルコの瞳には、歓びに沸いたスーズダリの城市が映った――
「俺は、キエフに一番近いヴィシェゴロドを与えられた。親父は、期待してくれたんだろうな…」
「……」
「それでもな、キエフを統べるのは大変だった。親父は傲慢だったんだ。キエフから追い出したイジャスラフが、ポーランドとハンガリーを頼ってキエフにやってきた。知ってるか?」
「話には、聞いています」
キエフを通り過ぎた歴史については、司祭や多くの市民から学んでいる。
父ユーリーの治世に対して懐疑的な者は幾らか居たが、同情を寄せる者が多数であった――
「その時は、遠征軍の背後に敵が現れて、向こうから和解の申し出があったんだ。でもな、親父はそれを受け容れず、俺と兄貴に、討ってこいと命じたんだよ」(*2)
「……」
「忘れもしない。俺は死にかけた。ジミルヴィチの奴、親父の旗を用意して、俺達を騙したんだ」
「……」
偽旗作戦を敢行した男は、現在リャザンに滞在中。
キエフを追われ、スーズダリにやってくるという報せが入って、アンドレイが退けた—―
因縁の相手であろうとも、易々と頼ろうとする厚顔無恥は、鼻につく。
それでも潔い。手段を選ばない姿勢は、見習うべきかもしれないと認める部分でもあった――
「その時の傷が、これだ」
20年前。勇者だったスーズダリ大公は、言いながら前に屈すると、衣服をまくって右側の脹脛に負った傷痕を覗かせた。
決して大きなものでは無かったが、黒ずんで変色したままである――
「それから一ヶ月かな。ジミルヴィチを包囲していたところに、背後からイジャスラフが攻めてきてな。そこでもう一度、和睦の話が持ち上がったんだ」
「……」
「兄貴は反対したんだが、俺は説得をした。キエフの人心を、俺達は掴んでいなかった。キエフを離れて一月半。潮時だと思ったんだ」
「……」
緑を含んだ奥目の瞳が左を覗くと、面長の周囲に拵えた黒褐色の髭先が揺れていた――
兄弟の逸話を耳に入れるのは、初めての事である。
歳の離れた弟は、心地よい春の空気の中に身体を浸すと同時に、この会談が有意義なものになる事を予見した――
「親父は、お前を可愛がっていたからな」
弟の視線に気付いたか、頬の張った面長を右へと向けながら、アンドレイは羨むように口を開いた。
「そう…かもしれません」
戦場での立ち姿。キエフ大公としての現地での振る舞いは、覗いた事が無い。
彼の記憶の中のユーリー・ドルゴルーキーは、いつだって柔和な笑顔の人であったのだ――
「親父を説得するのは、大変だったんだぞ? 爺さんの名前まで引っ張り出したんだ。 『偉大なるモノマフ大公が必死で守ったルーシの大地を、滅ぼすつもりか?』 ってな」
「……」
「他にもな 『戦いまでは平和。平和までは戦い。戦いは、短い方が良いだろ?』 『兄弟が仲睦まじいこと。善なるかな。美しいかな』 聖書の文言を並べたりな」
身体の中心を右へと寄せて、頬を緩めたアンドレイは友との語らいを楽しむように言葉を弾ませた。
「それは…兄さんも、苦労してたんですね」
具体的な内情を耳にして、ミハルコの頬も思わず綻んだ。
「……」
二人の背中を見守っているアンドレイの息子も、父の武勇伝を聞くのは初めての事。
一族の絡んだ争いを、面白可笑しく聞いていた—―
「でも、それで説得したんですよね?」
キエフ大公を巡る知識を浮かべながら、冷たい春風を縮れた金髪で受け止めるミハルコは、膨らんだ目袋を兄貴に向けて訊き返した。
「いや、簡単じゃ無かったな。それからは他の奴が仲介に入ったり、親父の腹違いの兄貴も加わってな。やっと認めたんだよ…」(*3)
「へえ…」
「でもな、親父はイジャスラフと和解して、奪ったものは返すと言って宴も開いたくせに、返すことを渋った…」
「……」
どうしようもねえ。
目を伏せて、首を小さく横に振った兄貴を眺めると、ミハルコは思わず苦笑いを浮かべた。
「で、結局物別れ。そりゃそうだろ」
続いてスーズダリ大公は、両肩をだらんと下げて嘆きの声を吐き出した――
「腹違いの兄というのは、ヴェチェスラフ大公ですよね?」
「ああ。あの人は、親父に比べたらまともだったな。求心力って言うか、カリスマ性は無かったけどな。キエフの連中からは『大公の器じゃない』 って言われていたんだが、親父がキエフから逃げた後、争った筈のイジャスラフをキエフに呼んで、二人での統治を始めたんだ」
「……」
「俺の記憶する限りでは、『裏切らない』 っていう十字架の誓いを最期まで守ったのは、あの叔父さんだけだな」
「……」
リューリク朝の流れを汲む幾多の者を代表する形で、スーズダリ大公は自虐した。
「誓いを守ろうとしたあの人の胆力に、結局はイジャスラフの野心も萎れて、キエフの連中も認めたんだ…」
「……」
「それにあの人は、引き際も良かった。イジャスラフが先に亡くなって、直ぐにスモレンスクのロスチスラフを呼んだんだ。『自分は老いたから』 ってな」
「……」
「俺も、見習うべきだな」
「……」
大公の地位に居るならば、後継の問題は避けて通れない。
幾多の者が頭を抱える禍根の種を憂慮して、アンドレイは一つの答えを口にした。
「そういえば、叔父さんとお前は、顔立ちが似ているぞ?」
歳の離れた弟に、スーズダリ大公は尊敬する叔父の姿を映し出すのだった――
 




