【154.ボゴリュービィ】
生誕の地であるスーズダリから追放されて8年後。
敗軍の将となったミハルコは、キエフを焼いた首謀者。腹違いの兄であるスーズダリ大公と顔を合わせる事となった――
クリャージマ川に沿って馬を東に走らせると、やがてスーズダリを守る土塁の上に、生神女就寝大聖堂の荘厳な白い姿が飛び込んできた。
1158年。大公を称したアンドレイの指揮の下、帝都コンスタンティノポリスから多くの職人がやってきて、キエフに建立するソフィア大聖堂を手本に建てられたものである。
敷地は1000㎡を優に超え、5つの黄金のドームを戴いて、石灰岩を使用した美しい外観は、木造の教会ばかりだったルーシの大地に衝撃を与えた。
この大聖堂の完成以降、技術はルーシの奥地に継承され、白亜の大聖堂が次々と建てられていく――
「こうして見ると、立派ですね…」
初春の薄い曇り空を背景にして、大理石で造られた白亜の外壁が聳え立っている。
川を進むにつれて大きくなる大聖堂の姿に、ミハルコは改めて感嘆を表した。
スーズダリを離れている間に黄金の門が建てられて、付随する新たな建物や土塁が次々と築かれていったのだ。
それこそは、大公を称した兄の治世が、順調であることの何よりの証左であった――
「ムスチスラフ様!」
雪解けを迎えて水かさの増したクリャージマ川の向こう側。
小さく揺れ動く馬の羅列を確認したのだろうか。土塁の上から数人の男が滑り降りてきて、一行を出迎えた。
「ボリス! 出迎えご苦労!」
手綱を引いたスーズダリ大公の息子が、従士に向かって労いの声を発した。
「キエフが、燃えたとか…」
一人の従士がムスチスラフの元まで足を進めると、神妙な面持ちで口を開いた。
「ボリス、その話は後だ。大公は今、どこにいる?」
「ボゴリュービィに…」
「分かった。至急の要件があると、取り次いでくれ」
「はっ」
焦りを含んだ指令。ボリスは小さく一礼をして踵を返すと、岸壁のように聳える土塁に向かって足を進めた。
ずんぐりとした男の進む先には登坂を補助する為だろうか、数本の太い麻縄が土塁の上から垂れ下がっていた。
「私たちは、迂回しますか」
「そうですね…」
長旅の疲れは誰もが感じるところだ。
ボリスの後ろ姿を眺めるムスチスラフの発言に、ミハルコは素直に同意した――
ボゴリュービィ。
ウラジーミルからクリャージマ川を11キロほど下った辺りに建てられた、アンドレイが住まう付属の城市である。
支流であるネルリ川との合流地点が目の前で、眺めるに美しい。
大公の公称ボゴリュブスキーは、住居として選んだ土地に因んだものであり、存命中から使われていた。
土塁に建てられた2階建ての白亜の住居。
足元ではほんの小さな緑が姿を現している。
自由に動き回る鳥たちを眺めていた大公に一報を寄せたのは、スーズダリの軍司令官ボリスであった。
「ミハルコが来た?」
報告を受けたスーズダリ大公は、ひし形の顔の表皮に驚きの表情を浮かべた。
「はい。御子息様と共に、謁見を願い出ております」
「……それは、通すしか無かろう」
遠征の報告は当然としても、異母弟を連れてくるのは想定外。
追い返すわけにはいかないと、アンドレイは息子の要請を受け入れた――
「……」
約8年前。アンドレイは肉食を巡る宗教的対立を利用して、父親の側近と後妻、後妻の子供たちをスーズダリから追い出した。(*)
当然ながら、これには別の理由があった。
父であるユーリー・ドルゴルーキーは、後妻の子であるミハルコを、スーズダリの後継者として望んでいたのである――
また、当時の市民たちもスーズダリの実質的な支配者であり、キエフ大公の地位に就いていた父親の意向を認識していたのだ――
成長したミハルコは、必ずや政敵となるに違いなかった――
「……」
父の怒りの根源を、アンドレイは認識している。
1155年。キリスト教の信奉者であるアンドレイは、聖都より父へと贈られた聖母のイコンを奪ってスーズダリに戻った。
その後自らで建立した生神女就寝大聖堂にイコンを掲げたが、父は既に天に昇っていた――
聖母を守る。キリスト教徒としては正しい行いであったかもしれないが、父の脳裏から、聖なるイコンを奪われた記憶は消えなかった筈である――
「父さん、ミハルコを連れてきました!」
白亜の居住区を出たところ。緑の若芽が乏しい土塁の上に立っていた父親に、スーズダリ大公の次男は駆ける馬上から、敢えて家族としての一声を送った。
雪解けの水を抱えた二つの河川は、起伏の乏しい大地を自由に侵している。
やがて水が引いて本格的な春を迎えると、一斉に新緑が吹き出して、大地をあっという間に覆うのだ――
「上手く、やれたか?」
馬から滑り降りた息子に対して、面長を黒褐色の髭で囲ったアンドレイは静かに口を開いた。
「その事で、お話が…」
「あれが、ミハルコか?」
息子の向こうから、ぬかるんだ大地の上を並足で近づいてくる人馬の姿が覗いて、スーズダリ大公は被せるように尋ねた。
「あ、はい…」
「では、待つとしよう」
キエフの状況は耳に入っても、ミハルコを連れてきた理由が分からない。
先ずは、話を聞くべきだ――
冷静に心を開いたアンドレイは、息子と弟が並び立つのを待つことにした――
「お久しぶりです」
高台の手前で下馬をしたミハルコは、ぬかるんだ大地に降り立った。
ピチャっと泥が跳ね跳んで、彼の足元を汚した――
「大きくなったな」
ぬかるんだ大地に足を置いたまま。あくまで虜囚の身であろうする弟に、アンドレイは穏やかな声を送った。
「大公様も、お元気そうで」
「……」
右手を胸にあてがうと、ミハルコは緑を含んだ奥目の瞳をスッと下にした。
恨みの感情は多大でも、今となっては従うより他にない。
空気の締まる発言は、キエフを支えてきた人物の、覚悟の表明でもあった――
「よく来たな。上がってこい」
「はい」
兄の言葉に従って、ミハルコは膝から下を包んでいた麻布を丁寧に剥いでから、土塁の上に足裏を重ねた。
「……」
赦しが出るまでは、捕虜として。
足を並べるなら、使者として。
賢者の振る舞いに感じ入ったスーズダリ大公は、8年という時を経て、彼の才能が順調に開花していることを悟るのだった――
「用件は、何だ?」
「ミハルコに、キエフを与えてください」
蕾が幾らか膨らむも、黒褐色のままの木々の間を冷たい春風が撫で去った。
右膝を地面に接した二人の血縁に向かってアンドレイが尋ねると、頭を下げたまま、息子は真っ直ぐに願いを申し出た。
「理由を述べてみろ」
「キエフを戻すには…ミハルコの力が必要だと考えます」
「……」
追い出した異母弟の行く末を、父は北から見守っていた筈だ――
姿勢はそのままで、ムスチスラフは両者の和解を促した。
「プロコビィ」
左手をスッと掲げると、アンドレイは彼に仕える召使の名前を口にした。
「お呼びでしょうか?」
敷地内に建てられた、白壁の家屋。中から一人の若者がひょこっと姿を現した。
歳は10代後半。細身で気が弱そうな。しかしながら従順であろうことは一目で解る青年であった。
「椅子は、3つあるか?」
「はい。ございます。ですが、同じ形ではございません」
「構わん。持ってこい」
「畏まりました」
プロコビィは一礼をしてから、先ずはアンドレイの家屋へと足を進めると、背もたれの大きな骨太の椅子を一脚。
もう一度戻って木枠の椅子を一脚。更には小屋に足を戻して、背もたれのない簡素な丸椅子を一脚。土塁の上に並べた。
「下がれ」
「はい」
最初に運んできた骨太の椅子は白亜の家屋の2階から運んできたようで、どすんと落とした時には息が上がっていた。
「失礼します」
舞台を整えてぺこりと頭を下げると、プロコビィは身体を翻して、木造小屋へと早足となって戻っていった――




