【152.キエフ 燃ゆ】
1169年 3月9日
スーズダリ大公の息子は、キエフから15キロ北に位置するヴィシェゴロドの城市で諸侯を集めると、翌日にはキエフの城市を包囲した――
「敵陣の中に、バスチィの姿が見えます!」
「……は?」
従士からの報告は、キエフ大公を奈落の底に突き落とした。
彼の腹心だったミハルコが、敵の手に落ちたのである――
「バスチィが裏切った! もうダメです! 大公様だけでも、お逃げ下さい!」
従士の叫び声は、悲痛なるものであった――
キエフ大公ムスチスラフの曾祖父は『教訓』 を記した名君モノマフで、曾祖父、祖父ともに長男。彼自身もキエフ大公イジャスラフの長男である。
そんな正当なる後継者が、モノマフの七男であったユーリーの子。新たにスーズダリ「大公」を自称したアンドレイの手に堕ちる――
キエフがルーシの中心だと疑わぬ者たちにとっては、驚天動地と形容すべき事態であった――
敵の包囲が進む中、ムスチスラフは従士の助けを借りて夜半に城を抜け出すと、南西方面へと馬を走らせた。
「奴らを捕まえろ!」
逃亡に気付いた遊牧民は、背後に迫って矢羽を放った。
このとき大公の従弟であるダヴィドやリューリクはもちろん、ルーシの諸公を任された者たちは、襲撃に加わることを控えた。
キエフ大公を捕らえるという狼藉は、あくまでも異教徒の仕業だと言い逃れる為である――
夜の助けを借りたキエフ大公は、弟のヤロスラフと合流を果たすと、キエフの西側200キロ。ヴォルニへと少数で逃れた――
一方で、大公の逃亡により取り残された大公妃は、幼い息子と共に捕縛され、従士たちもまた、捕虜という形で多くの者が異教徒の手によって捕らえられた――(*1)
3月10日。キエフが燃えた――
城市の至るところで火の手が上がり、一家は家屋から引き摺り出され、女は引き剥がされて、男は容赦なく殺された。
面積5万㎡に及ぶ聖ソフィア教会をはじめとする殆どの教会が燃やされて、イコンや宝飾品、釣り鐘や聖書。神に仕える司祭の衣服でさえも、狂気に満ちた悪魔たちによって剥ぎ取られた――
「洞窟修道院には、手を出すな!」
遠征軍の総大将が父から授かった指令を叫ぶと、修道院を囲むように近衛兵を配置した。
「他は、良いのか?」
「構わん!」
先頭でキエフの城市に飛び込んで、火を放ったのは異教徒である。
遊牧民の首領がアンドレイの息子に尋ねると、明朗な答えが戻った。
従っていたミハルコを裏切って、彼に引き渡す恩賞は、一番乗りの権利であったのだ――(*2)
「キエフの全ては、我らルーシのものである!」
遊牧民だけに好い目は見せられない。
粉雪が舞う空の下、スモレンスクの長身の大将が馬上から大声で突撃を促すと、スーズダリ、チェルニゴフの従士達も、堰を切ったように略奪に加わった――
ルーシを守っていた者たちが、キエフの大地を根こそぎ荒らす。
暴徒と化した民衆も加わって、キエフの街は怨嗟と嘆き、屈辱の炎に包まれた――
「私たちは、どうしたらよいのだ?」
守るべき場所の筈。キエフが遠くで燃えている――
リャザンから派遣されたグレヴィは、馬上から眼下で佇むワルフの頭頂部に向かって尋ねた。
「馬を、下りて下さい」
姿勢はそのままで、臣下はぽつりと呟いた。
愚かな行いには、決して従わない――
意見を容れたグレヴィは、スッと下馬をして、明確なるメッセージを自国の従士たちに伝えるのだった――
3月12日。
キエフの城市に、スーズダリ大公アンドレイの次男、ムスチスラフ・アンドレエヴィチが新たな支配者として足を踏み入れた――
「しかし、ヒドイな…」
二日間に渡った蹂躙は、キエフの至る所を灰にした。
金色に輝いていた教会は煤と埃に覆われて、装飾品は総てが引き剥がされていた。
女子供の声は無く、男の死体がそこら中に転がっていた――
「どうされますか?」
正直、やりすぎた。
スーズダリ大公の息子に対して、侵略に加わったキエフ大公の従弟であるダヴィドが馬上から尋ねた。
「先ずは、キエフを治める者を決めなければ…しかし、いったい誰がこの後始末をやれるのか…」
逡巡する脳裏には、友と信じるミハルコの姿が浮かんでいた。
侵略を謀った首謀者の弟であるにもかかわらず、キエフの城市を純粋に守ろうとした姿勢には、多くの市民が従うに違いない。
「……」
しかしながら、敗軍の将となった彼に、どの面を下げて頼めるというのか――
苦悩の末。彼は父の弟であり、ミハルコの兄。古くからルーシの重要拠点であったペレヤスラヴリの公を務める、叔父を頼ることにした――
「あれだけの事をして、キエフの市民が俺らを許すと思うのか?」
「……」
キエフを蹂躙した首謀者の弟は、血族による優先順位を理解しながらも、甥の話を耳に入れるや、拒絶の姿勢を表した。
「だいたい、なんで俺なんだよ。お前がやれ」
「……」
スーズダリ大公の命を受け、攻め込んだのは息子である。
新たな支配者として君臨するには、おあつらえ向きの状況ではないか――
薄情にも突き放す、倍ほども年の違う叔父の姿に、首謀者の息子は絶句した。
「……叔父さん、キエフを治めるなんて、僕には無理だよ」
「……」
それでも立場を弁えて、スーズダリ大公の次男は瞳を向けて訴えた。
檄文に応えた諸侯は殆どが年長者。ベレンディ人のバスチィに至っては異教の遊牧民。
父の指令で軍を率いたが、彼自身は20歳そこらの若輩者。
経験豊富な猛者たちが、大人しく従うわけが無い。
「叔父さんは、ペレヤスラヴリからキエフを見守ってきたじゃないですか。大公とも親交があって、僕に比べたら、キエフの市民に慕われている。親父はスーズダリ大公を名乗って動かない。叔父さんがキエフの椅子に座ったら、兄弟でルーシの大地を統べる事ができるんですよ?」
「……」
キエフ攻略を、若い息子に託した理由の一つが述べられた。
しかしながら、キエフを襲った連中と馬を並べてしまった事実は、隠しようがない。
「できることなら、俺だってキエフを立て直したい。しかしなあ…どう考えたって、恨まれるだけだろ?」
「……」
グレープは、改めて困惑を表した。
「ルーシを兄弟で統べるなんて話は、俺は聞いていない。そんな話があるんなら、軍を起こす前に伝えておくべきだ。そうであれば、俺はペレヤスラヴリから動かずにいたのに…」
引き起こした騒動は、兄でさえも想像以上だったかもしれない。
しかしながら、兄の後悔を思うと同時に、彼はもう一方の結論へと辿り着いていた。
1155年。父に贈られた聖母のイコンを奪ってスーズダリに戻った兄ならば、キエフが灰燼と化しても構わなかったのだ――
「ミハルコは…あいつなら…引き受けてくれるでしょうか?」
軍を率いた首謀者の息子は、兄のように慕う叔父の名前を口にした――
「ミハルコか。確かにアイツなら、今のキエフでも、なんとかするかもしれないな…」
年の離れた異母弟の名前が飛び出して、グレープは思いを馳せながら呟いた。
「そうですよね?」
スーズダリ大公の次男は、色よい返事に思わず瞳を見開いた――
「それでもな…アイツに任せて駄目だったら、俺達の手札は本当に無くなるぞ?」
「そうですよね…」
続いて冷静な見解が耳に届くと、ふたたび瞳は伏せて、頭もカクッと垂れ下がった。
キエフを信奉した父親に反発をした三男よりも、後妻の子であるミハルコの方が父を敬愛し、従うのは負い目から来るものだろうか…
人懐っこい性格で、聡明な息子を父は愛したが、ミハルコがルーシに羽ばたく直前に、逝去してしまった――
1157年5月15日。
キエフ大公であった父親が、急な病により没したとの連絡を受けたとき、兄弟の中で一番の慟哭を表したのは、10歳を過ぎた頃のミハルコであったのだ――
「俺達だけで考えても、どうにもならん。キエフを一番知っているのはアイツだ。お前、訊いてこい」
「……」
起こした事態を詫びたあと、それでも彼は助けてくれるだろうか…
結局最後に頼るのは、キエフを一番に慕う者。
適材適所
キエフの城市を統べるのは、キエフに愛される者であるべきだ――
後悔を抱えた首謀者の次男は、疎まれることは承知の上で、自軍で捕縛されているミハルコを訪ねることにした――




