【151.キエフの守護者】
1169年 2月末――
ルーシの各地に檄文を送ったスーズダリ大公は、息子を総大将にした軍勢をキエフに送った。
檄文に従った主な諸侯は、夏のポロヴェツ遠征でキエフ大公との間で亀裂を起こしたリューリクとダヴィド。加えてウラジミール・アンドレエヴィチ。
スーズダリに近いムーロムとリャザンの兵士。更にはチェルニゴフやスモレンスクからも軍が派遣され、キエフ大公の敗北は必定な情勢となっていた――
対してキエフ大公は、スーズダリ大公の異母弟、ミハルコに援軍を依頼した――
「リャザンとスモレンスクの兵士が、一緒なんですよね…」
リャザン城の地階の一室で、楕円形のローテーブルを挟んで、上級士官デディレツと向かい合う形でソファに座るトゥーラの王妃が、キエフに派遣される陣容を想って呟いた。
前年の春と夏。トゥーラに赴任したばかりのリアとロイズは、早々にスモレンスクからの襲撃に晒された。
春の襲撃を経て自治権を認められたとはいえ、トゥーラはリャザン領である。
敵の敵は即ち味方――
といった状況が生まれた訳でもなく、スーズダリ大公が送った檄文という名前の脅迫状に、両国揃って膝を屈したのは明らかであった。
「そうですな…」
複雑な事態に直面をして、上級士官は短い相槌を吐き出した。
「グレヴィ様は、無事に戻るでしょうか…」
「実戦の経験は、ワルフもありませんからね。でも、大丈夫だと思いますよ?」
父であるリャザン公の幼少期は戦禍の真っ只中であったが、息子にとっては初陣となる。
泡のような顎髭を拵えた上級士官が不安の声を吐き出すと、テーブルに置かれた木皿に右手を伸ばしたトゥーラの王妃は、つまんだ一片のドライフルーツを口の中へと放り込んだ。
「心配ではないのですか?」
リアの幼馴染。リャザンの重臣となったワルフも、グレヴィの軍師として同行している。
膝の上で両手を組んで、デディレツが口を開いた。
「命の心配は、しておりません。それよりも、彼が何を持ち帰るのか…それを楽しみにしております」
言いながら、赤みの入った髪を垂れ下げて陶器のマグを左手で掴むと、彼女は右手を添えてコクリと喉を潤した。
「無事に帰ってくると?」
「そうですね…キエフに向かう軍勢が、多すぎます。戦いを御存じの大公様なら、どうやっても勝てない争いで、悪戯に兵を削る事はしないでしょう」
「…なるほど」
およそ20年前から、キエフ大公ムスチスラフは父や叔父を助ける形で戦場を駆け回っている。
身体に染み付いた判断力が、欠落している可能性は低いというわけだ。
(ワルフが惚れるのも、無理はないか…)
リャザンに長く仕えるデディレツは、目の前で伏し目になって未来を語る可憐な女性に、改めて敬服を灯すのだった――
「ただ…」
「ただ?」
ぽつりと吐いたリアの呟きに、上級士官が顎を起こした。
「スーズダリ公の弟でしたか…ミハルコという方が、キエフには居ますよね?」
「おりますな。ジミルヴィチ様からは、恨みの声しか聞こえてきませんでしたが…」
十字架に背いた夏の逃避行は、自業自得である。
泡のような顎髭を拵えた男は、酒宴の席でくだを蒔いていた彼を思い出し、目尻を下げて苦笑いを浮かべた。
「それで、ミハルコが、どうかされましたか?」
リャザンの上級士官は続きを促した。
「キエフから聞こえてくる噂話と、ジミルヴィチ様の話を合わせると、ミハルコ様は軍略に長けた方だと思われます。その方がキエフ側に就くとなれば、局地戦に於いては損害を覚悟する必要があるかもしれません」
「……」
「それでも、劣勢のミハルコ様が狙うのは、総大将。スーズダリ公の嫡男だけでしょう。捕らえて停戦に持ち込む以外、キエフの勝利はあり得ません。グレヴィ様もワルフも、主戦に加わるつもりは無いでしょうから、リャザンにとっての危険は殆ど無い…というのが私の考えです」
澄ました表情のまま、トゥーラの王妃は赤みの入った髪の下で最後には楽観の言葉を吐き出した――
その頃、スーズダリ大公を称したアンドレイに反発をしている異母弟は、キエフの北北西、ノヴゴロドの城市に向かっていた――
襲撃を受けたとの一報が入って、キエフ大公の嫡男を助けるために、キエフの南から派遣されたのである。
「ミハルコ様! キエフより急報です!」
雪の大地を馬橇で移動。
キエフの北北西を200キロも進んだところで幕舎を構えると、二つの松明が真っ直ぐにやってきて、血相を変えた伝令兵が厚い麻布を捲って飛び込んできた。
「なんだなんだ!?」
酒でも飲もうかとマグを傾けたところで思わず声を上げたのは、ミハルコに従軍していた遊牧民の軍司令官バスチィであった。
キエフの南側で遊牧生活を送っていた彼らは、キエフから80キロほど南に在るトルチェスクの公座に就いていたミハルコの要請に応じて、はるばる北方にまで足を延ばしていたのだ――
「スーズダリの軍勢が、キエフに迫っています!」
「な、なに!?」
「……」
バスチィが思わず立ち上がってミハルコの方へと顔を向けると、さすがのミハルコも青ざめているかと思いきや、丸太の椅子に腰を下ろした状態で、次には膨らんだ目袋の上、奥目の瞳を静かに閉じるだけであった――
翌朝、キエフに忠誠を誓うミハルコは、ルーシの中心へと軍を戻す事にした。
「ミハルコの旦那。これからどうするつもりだ?」
人馬の休憩時間。一旦進軍を止めたところで、厚手の麻の衣服を纏ったバスチィがミハルコに近付いた。
「他に情報がありません。届いた伝令は、ヴワディスワフからのものでした。キエフに危険が迫っている以上、戻るしかないでしょう」
「相手は、兄貴だろ? 兄貴と戦うのか?」
スーズダリ大公の隆盛は、キエフを跨いで南側にまで轟いている――
厳しい表情を覗かせるミハルコに、口から泡を飛ばしたバスチィは覚悟を尋ねた。
「キエフとノヴゴロドの動きは、連動したものに違いありません。兄の本命は、ノヴゴロドの筈です」
「……」
東西で隣接しているスーズダリとノヴゴロド。
先ずはルーシの北方を固めるという兄の戦略を、年の離れた弟は見透かしていた――
「兄が問題ではありません。キエフ大公の従弟であるダヴィドやリューリクが、心からスーズダリに従っているのか。他の諸侯はどうなのか…それを確認したいのです」
「……」
雪の舞い散る向こう側、南側に広がる地平線――
緑を含んだ奥目の瞳がキエフを想うと、彼は希望を吐き出した――
来た道を引き返し、約60キロを進んだ夜のこと。
敗色濃厚となった遠征に落胆と苛立ちを覚えていたバスチィの元へ、ダヴィドとリューリクが送り込んだ密使が現れた――
「バスチィ殿。あなたは一体いつまで、従順でいるつもりなのか?」
「……」
遊牧民である彼の目的は、目先の利益。すなわち略奪によって得られる宝飾や、凌辱に値する女たちである。
キエフの南から300キロ以上も一族を従えて、手ぶらで帰るという訳にはいかないのだ――
「あなたが従うミハルコは、遠征軍を率いるスーズダリ大公の御子息、ムスチスラフ様とは懇意である。加えて、大公様の弟なのだ。彼の命を助けると思って、彼を捕縛してくれんか」
「……」
密使の発言に、バスチィは報酬について話し合うと、最後には握手をして別れた――
朝日が昇って数時間。
キエフに向かってひたすらに橇を駆っていたミハルコは、雪原の左側に現れた黒い集団の姿を認めると、右手をスッと掲げて人馬の脚を止めた。
やがてお互いの軍勢から馬橇が一つ飛び出すと、両者が中間地点で交わった。
「ミハルコ様! ダヴィドとリューリクの軍勢です!」
馬橇が戻って来ると、新たな情報が齎された――
「どうされますか?」
ミハルコの元にバスチィがやってきて、指揮官の思惑を尋ねた。
「キエフに戻ることは、難しそうですね…」
馬橇の上から静かに東側を眺めていた奥目の瞳は、おもむろに南側へと視線を移した。
「失礼する」
その時だ。
冷たい粉雪にバスチィの低い声が交じると、ミハルコの身体に太い麻縄が巻き付いた。
「……」
「悪く思うなよ。あんたの命も、惜しいんだ」
背後からミハルコの前へと移動して、広い肩幅で威圧をした遊牧民の首領は、言い含めるように観念を促した。
「…こうなっては、神の御心に委ねるしかないですね」
八方塞がりの状況は、自覚をするところだ。
雪の舞いしきる曇天の下、キエフを想う忠臣は、ひたすらに時世の流れを悔やむのだった――
 




