【150.肉絶ちの日】
1169年、2月頃。
ルーシの諸公国は、大いなる地殻変動に襲われた――
震源地はスーズダリ。
北方で大公国を築こうとしているアンドレイが、ルーシの中心地、キエフに向かって軍を起こしたのだ――
「グ、グレプ様!」
アンドレイが軍を進める半月前。
リャザン城では泡のような顎髭を拵えた上級士官デディレツが、石畳の地階の廊下を全速力で駆けていた――
「なんだ? 騒々しい」
ザクロに葡萄に無花果。林檎や桃に柑橘類。
ドライフルーツを一つずつ選んでは口に運んでいたリャザン公が、穏やかな時間を破壊した狼藉者に素っ気ない返事を送った。
「ア、アンドレイが、キエフを攻めると伝えてきました!」
「…な、なに!?」
果肉をつまんだまま、リャザン公はガタッと玉座を揺らして立ち上がった。
「つ、伝えてきた? それだけか?」
「いえ、軍を派遣するようにと…」
「軍を? キエフに、弓を引けというのか?」
トゥーラの王妃との会談を経て、アンドレイの動向には注意を払っていた。
しかしながら、共闘を呼び掛けて来るとは思いもしなかったのだ――
「わ、ワルフを呼んで来い! それから、トゥーラの公女も呼べ!」
「か、畏まりました!」
こうして15分と経たぬうちに、玉座の前には太ったリャザンの重臣と、寝起き姿の属国の王妃が立ち並ぶことになったのだ――
「トゥーラの公妃よ。そなたの申した通り、アンドレイはキエフを攻めると言い出した」
「……」
玉座からの発言に、リアの細い両肩がピクと反応をした。
「重ねて要求があった。キエフに軍を向けろと」
「……」
「…そなたは、アンドレイの要求すら、分かっていたのではないか?」
伏し目になって立っている小さな女性を前にして、リャザン公は問い詰めるように吐き出した。
「グレプ様。私に問わずとも、隣に立っているリャザンの重臣は、分かっていたはずです」
「な、なに? そうなのか?」
伏し目のままでリアが答えると、リャザン公の視線がワルフに向かった。
「…予想はしておりました」
顔を上げると、恰幅の良いリャザンの重臣は幼馴染の発言をあっさりと認めた。
「それでは何故、軍の準備が進んでおらんのだ?」
トゥーラの公妃との会談が終わっても、国内の様子に変化は見られなかった――
それゆえに、進軍の知らせに驚きを伴ったのだ。
共闘の要請が届くと察していたならば、準備をしておくべきではなかったのか? というわけだ。
「グレプ様は、キエフに弓を引くおつもりだったのですか?」
「む? いや、そういうわけでは…」
「それでは、キエフを助け、スーズダリの進軍を阻むと申されるのですか?」
「……」
「軍の編成は、後から考えれば良いのです。先ずはどうされるのか、お決めください」
「……」
ワルフの弁舌に、リャザン公は押し黙ってしまった――
時間を置いてから、数日前に集まった地階の一室で、デディレツを加えた4名は改めて会談を行った。
寝起きの格好で参じたリアのくしゃみが鳴り響き、ワルフが1時間後の会談を申し入れたのである――
「それで、私はどうすれば良いと思うか?」
楕円形のテーブルを囲んだ上座から、右側に並んで座るデディレツとワルフ。左に座るリアへと視線を移しながらリャザン公が尋ねた。
「グレプ様のお考え。お気持ちは、どういったものでしょうか?」
重苦しい軍議の場。
仕えて数年のワルフには経験が乏しく、トゥーラの王妃は滞在して一週間も経っていない。
不安を抱えた上座からの問い掛けに、上級士官は自身の存在感を示すべく落ち着いた声を発した。
「気持ち…だけで言うなら、アンドレイに加勢など、絶対にしたくない」
「……」
およそ20年前の逃避行。原因は当時のスーズダリ公ユーリーの命令で、息子のアンドレイがリャザンに攻め込んだから――
「しかしながら、スーズダリからの要請を断るというのは、賛成できません」
背筋をすっと伸ばすと、ワルフが否定の見解を口にした。
「な、何故だ?」
「恐らくは、キエフを助けることはできません。アンドレイに手を貸さなければ、後の禍根を生みましょう」
「……」
グレプが問い質すと、ワルフは簡潔に理由を並べた。
「嘆かわしいことですが、諸侯の心はキエフから離れております。キエフ討伐の檄文は、各地に撒かれておりましょう。ここは冷静になって、動きに倣うのが賢明だと考えます」
「……」
「リャザンはキエフから遠く、スーズダリからは近い。アンドレイに協力をしなければ、キエフを落としたのちに、キエフ大公となって我々に向かってくるやもしれません。そうなれば、我々はキエフの敵になりましょう」
「……」
グレプは固まった――
奥底の心情を伝えたにも拘らず、否定の見解だけが降ってきた――
だったら聞くなよ…
悦に入った弁舌を繰り出す臣下に瞳を向けると、彼は困惑だけでなく怒りの感情までをも胸に灯した――
「トゥーラの公妃も、同じ考えか?」
視界の左側。
両手で掴んだ丸パンをリスのように頬張る小さな身体に向かって、上座に座る男が問い掛けた。
「えと…今は軍議の時間ですので、軍属ではない私が意見を述べるのは、控えた方が宜しいかと…」
責任は負えない。
今後の事を考えて、宗主国の状況や世情といったものには触っても、一国の指針には関わるべきではない。
丸パンをテーブルに戻したトゥーラの王妃は、膝を揃えて上座に身体を向けると、赤みの入った髪をペコリと落とした。
「トゥーラを思えば、彼女も同じ意見だと思います」
「……」
すると頭上から幼馴染の声が注がれて、リアの薄情は免れた。
「グレプ様。軍の編成をしなかったのは、アンドレイを欺く為なのです」
「欺く?」
領主を安心させるべく、恰幅の良い身体が得意気になって口を開くと、上座の男は怪訝な顔となって真意を訪ねた。
「スーズダリに靡くのは、市民も納得しないでしょう。反発を抑えるためにも、少数で急いで向かうのです。リャザンの力を削がずに、この件はやり過ごせましょう」
「……」
「誠意を見せる訳ですな。私も、賛成いたします」
ワルフの見解に、上級士官も支持に回った――
「…して、誰を派遣するのだ?」
灯った複雑な心に蓋をして、リャザン公グレプは信頼する臣下に尋ねた。
「是非とも、グレヴィ様を」
「……」
淀みのない返答がやってきて、グレプの表情は固まった。
「寡兵であるが故に、長男であるグレヴィ様を派遣するのです。他の者であれば、不信感が生まれましょう」
「……」
臣下にしてみれば、ここまでのやりとりは想定内。
前後に並ぶ重臣から瞳を向けられて、両膝に手を当てたリャザン公は認めるほか無かった――
「また、戦争が始まるんですね…」
リャザン城の浴室で、マルマは上着を肌から外しながら、白い肢体を蒸気で隠す憧れの女性に対して呟いた。
前回の入浴に味を占め、ご相伴に預かろうと赤みの入った髪の毛を追い掛けた――
「戦争になんて、なるのかしらね…」
「え? ならないんですか?」
リアの口から疑問が飛び出すと、マルマは蒸気の中で腰を下ろして、白い素肌に接した。
「分からないけどね」
高くなったマルマの声に、瞼を閉じたリアは理由を答えるでもなく呟いた。
「でも、エフェミアから聞きました。兵糧の準備を命じられたそうです。どうして、そんなことに…」
「スーズダリ公の檄文には、『洞窟修道院を守るため』 って記してあったらしいけどね。まあ、信じる人は居ないわよね」
「……」
王妃の側仕えになってから、マルマは政治の内情を初めて耳にした。
任務として伝えられるのは結論で、過程については知りようがない。
縁のなかった会話が始まって、国王様や尚書の代役なのだと彼女の心は改めて引き締まった。
「洞窟修道院って、キエフの…ですよね?」
「そうね。スーズダリ公は、慣習主義なのよね」
「……」
「精進の日って、知ってる?」
「一応は…『キリスト教徒は水曜日と金曜日、肉を食べちゃダメ』 ってやつですよね……」
トゥーラの女中の間でも、敬虔なキリスト教徒は存在している。
中でもライラは筆頭格。長身に映える金髪を肩に置き、両手を組んで神に祈りを捧げる姿を何度も視界に入れている――
「それを厳格に守っている人たちと、祝いの日は例外って考えの人たちが居るの。修道院は、緩い側」
「はあ…」
「降誕祭の日って、水曜日だったでしょ? 肉食を許した洞窟修道院の司祭を、厳格主義者が破門にしたらしいのね。それを知ったスーズダリ公が、怒ったってわけ」(*1)
「……それで、戦争に?」
わけがわからないよ。
別世界の出来事に、マルマは困惑の声を吐き出した――
「そういえば、トゥーラでは精進の日って聞かないですよね?」
顔の表皮に流れるほどの汗を浮かべた小さな王妃に、マルマは宗教観を訊いてみた。
トゥーラにも教会は存在するが、祈りを強要された記憶は無い。
「好きにすればいいのよ」
リアの素朴な感情が、立ち昇る蒸気と共にマルマに届いた。
「元々は、水曜日と金曜日、肉食はダメって筈だったんだからね? それじゃあ辛いから、司祭の許し。つまりは神の赦しが戴けたら、祭日は食べても良いって事になったの。そしたら祭日を増やそうって話になって、どんどん増やしていった… 精進って話はどこにいったのよ… 怠惰を神が赦した訳じゃないの! 信徒が怠惰に負けたってことでしょ!?」
立ち昇る蒸気の中で、小さな王妃は広げた両の手指を肩にまで掲げた――
「だいたい宗教なんて、支配の手段なんだからね。ウラジーミル大公が『イスラム教は礼拝が面倒で、大好きなお酒は勿論、肉もダメだから、キリスト教を広めよう』 って事になったのよ? 最初から教えなんて、どうでも良いんだから!」(*2)
「……」
リアのまくし立てるような弁舌を、マルマは苦笑いを浮かべながら聞いていた。
トゥーラの最上階。
国王様や尚書は、自身が螺旋階段を下りた後、こうした王妃様の明るい振る舞いを、いつも眺めていたのだろう。
初めての体験を果たした側仕えの心中は、悔しいではなく、羨ましい。
何よりも、微笑ましく思った――
*1 キリスト教徒の精進を巡る慣習。容認主義と、原則主義の対立である。
水曜日と金曜日である理由は、水曜日はユダヤ人がキリストに対して謀を為した日。金曜日は磔となって刑が処された日であるから。
洞窟修道院の典院(上級司祭)を破門にしたのは力関係が上位の厳格派。
*2 986年。生贄を捧げたり、悪魔的遊戯を繰り返す土着の信仰を嘆いたウラジーミル大公が、イスラム教徒との謁見を切っ掛けに、ルーシの大地に統一した信仰を広めようと考えた。
イスラム教とキリスト教。二つに絞った末に祖母であるオリガ大后妃と同じ宗教を選ぶと、988年。キリスト教の洗礼を受けることにした。
因みにウラジーミル大公は、1000人近い妾を囲い、家臣の妻とも姦淫を繰り返す女好きであった。
(資料の中では信仰と共にそうした記述は無くなるが、そんなわけないよね…
洗礼を受けた一因は、クリミア半島に侵攻した際、ピザンツ皇帝ロマノス二世の娘アンナを娶るため。
「異教徒に嫁がせる訳にはいかない。アンナを娶りたいなら洗礼を受けてくれ」と言われて従った。
アンナは「死んだほうがまし」 と嫌がったが、皇帝たちによって説得された…)
お読みいただきありがとうございました。
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