【140.細腰の侍女】
キエフに対して謀反を働いたジミルヴィチは、スーズダリ大公アンドレイの勧めるままに、数人の従士だけを従えてリャザンの地を目指した――
連水陸路を辿ってデスナ川からオカ川に入り、カルーガに立ち寄ると、温泉宿に1泊をした。(*1)
彼らがカルーガに立ち寄ったのは、トゥーラとスモレンスクの停戦協定が結ばれる、少し前の事である。
遊牧民族に備える為に、領地の南側に長大な城壁を築いているリャザンの地を統べるのは、麻色の髪を有する30代半ばの凡庸なる国王グレプであった。
「グレプ様。次期キエフ大公、ジミルヴィチ様が到着されました!」
衛兵からの報告を耳にして、重くなった身体を揺らしながら石畳の廊下をバタバタと駆けるのは、トゥーラの国王夫妻の幼馴染、ワルフであった。
リアとロイズがスモレンスクの侵攻を防いでから三か月。
停戦協定が結ばれて、しばらくの平穏が訪れると一息ついた矢先の出来事に、彼は胸に湧いた興奮を確かに自覚していた。
「本当に来訪されるとは、思いませんでしたな」
駆けるワルフと合流をしたのは、古くからリャザン公グレプに仕える上級士官デディレツであった。
「キエフの西から参られたとか。ジミルヴィチ様から見れば、リャザンは辺境の地。キエフには及ばないにしても、粗相の無いようにはしなければ…」
「そうですな。トゥーラとスモレンスクの争いが治まったところです。トゥーラを支えていた我々としては、改めてキエフとの繋がりを築くのは、悪い話ではありません」
現キエフ大公の前任は、スモレンスク公であった。
罪人とはいえ、次期キエフ大公を保護したとなれば、キエフから見たリャザンの印象は改善されるかもしれない――
続いた上級士官の発言に、ワルフも同意した。
「グレプ様! 馬車を出して出迎えましょう!」
リャザン城の地階の奥。
執務室に足を踏み入れるなり、泡のような顎髭を拵えた上級士官が提案をした。
「歓迎を表す事が大事です。グレヴィ様もお呼びして、お二人が揃って出迎えることが、良策だと考えます」
「そ、そうだな。グレヴィを呼んで来い!」
「はっ」
玉座に座るリャザン公はデディレツの発言を素直に受け取ると、部屋の入口で屹立している従士に命じた。
ルーシの東端。リャザン公国はキエフから北東におよそ700キロの位置に在る。
キエフの役人が姿を見せる事は皆無で、ましてや次期キエフ大公の継承権を持つ者など、誰も見た事が無く、確認のしようがない。
故に遺恨の残るスーズダリ大公からジミルヴィチの来訪が伝えられても、半信半疑、計略ではなかろうかと結論付けられていた――
「急げ!」
リャザンの都市城壁は長大で、約50ヘクタールにも及ぶ城市を囲っている。(*2)
ほぼ中央に位置するリャザン城から都市城門まで進むのに、馬車でも5分ほど掛かってしまうのだ。
2頭の栗毛馬に牽かれた幌馬車の4つの車輪が、短い青草の広がる大地を削っていった――
リャザンに赴く主なルートは、カルーガを通ってリャザンの西側へと緩やかに流れるオカ川を、船で下るというものである。
リャザンの西側には船着場が整備され、川岸から城壁に至る土手の間には、渡船に関わる家屋や交易品の集積場などが幾つも設けられていた。
馬車は大量輸送に適さない。広大な草原が拡がるルーシの大地であるが、長距離移動の主な手段はドニエプル川を筆頭に、ヴォルガ川やデスナ川、オカ川といった水路を使う事が殆どであった――
「やっと着いたか…」
交易船に乗り、船着場からリャザンの地に降り立ったジミルヴィチの深藍の瞳が上を覗くと、澄んだ青空を背景にして、南北に走る赤茶色の城壁を捉えた。
「思ったよりも、立派ではないか…」
第一声は、感嘆を表すものだった。
スーズダリとリャザンの間で諍いがあったのは承知しているが、ルーシを束ねる筈のキエフは傍観を決め込んだ。
強い覇権を掲げるスーズダリの勢いは侮れず、遠方の争いに介入してはキエフの更なる弱体化を招くと判断したのだ――
一度は敗れたリャザン公国であったが、1151年に領地を取り戻した事により、キエフ側も大きな安堵を宿したのである。
「スーズダリを破っただけの事はある。ということか…」
長大な都市城壁は、人的資源の豊富を現わしている。
人口=国力だとするならば、キエフの知らない間にリャザン公国もまた、強国へと姿を変えていったのだ――
次期キエフ大公の継承権を持つ男は、スーズダリ大公の勧めに応じて足を運んだ甲斐は、確かにあったと感じ入るのだった――
船着き場で揺れる漁師の小舟を後にして、金銀の宝飾を上着にあしらった高貴な姿が城門へと続く坂道を上っていく。
投網や積み上がった麻袋が転がる間を進んでいくと、斜面に沿って板を敷き、隙間の見えぬほどに魚が干されている場景が飛び込んできた――
大量の飼料を必要とする家畜を扱うよりも、タンパク源を目の前に流れるオカ川に求めるのは当然の流れである。
リャザン公国が西側から流れてくる移民を受け入れることができるのも、大自然の恵みを甘受できるからなのだ――
「お着きになりました!」
城壁の外側に立つ衛兵が人を払った状態でジミルヴィチの到着を伝えると、都市城門の上に配置された衛兵が城内へと視線を移した。
「開門!」
リャザン公グレプと長男グレヴィを乗せた幌馬車が滑り込む。
二人が後方から幌馬車を急いで降りると、御者となっていた上級士官デディレツが叫ぶように指示をした。
赤茶色。レンガ造りの城門の高さはおよそ10メートル。閂が外されると、ギギッと重たい音が立ち昇る。
父子は胸の中心に右腕を添えると、スッと頭を落とした――
「おお! 出迎えていただけるとは!」
城門が内側に開いて恭しい二人の姿が視界に飛び込むと、思わず手のひらを前にして、ジミルヴィチは感激を表した。
キエフに背を向けてからというもの、彼の立場に見合った歓待を受ける事は無かったのだ。
「ジミルヴィチ様、リャザンへようこそ。長い船旅は、さぞ退屈だったことでしょう」
「いやほんとに、実を言うと、まだ地面が揺れております」
三半規管が戻らない。
気を良くしたジミルヴィチは、本来の明るい華のある表皮に戻って苦笑いを浮かべた。
「我々でさえ、船を下りた後には大地が揺れているように感じます。キエフに長く住んでおられたジミルヴィチ様におかれましては、仕方の無いことかと」
リャザン公グレプは言いながら、右手を差し出して握手を交わすと、ジミルヴィチを馬車へと勧めた――
「うう…」
数分後、キエフからの逃亡者の顔は青くなっていた。
「お疲れでしたら、今日はしっかりと休んで下さい。明日にはきっと、良くなっていることでしょう」
「ご配慮いただき…感謝致します。お言葉に、甘えようと思います…」
幌馬車の中で語るリャザン公の気遣いを、憔悴したジミルヴィチは素直に受け取った。
幌馬車に乗り込むまでは良かったが、城までの時間が思った以上に掛かって、軽い船酔いの症状を覚えたところに、馬車の揺れにも襲われたのだ。
「ワルフ! 板を持ってこい! 従士も呼んで来い! 部屋にお運びする!」
「は、はい!」
幌馬車の御者を務めるデディレツは、リャザン城の手前で一行を出迎えようと屹立しているワルフを認めると、強い口調で指示をした。
先輩である上級士官の面相にただならぬ気配を感じた後輩は、脱兎のごとく城の奥へと姿を隠した。
「到着早々、申し訳ない…」
板の担架に乗せられて、リャザン城の地階の一室に運ばれたジミルヴィチが瞼を開いた頃には、すっかりと夜の帳が下りていた。
「いかがですか? 眩暈は、治まりましたか?」
麻布を3枚重ねた藁のベッド。仰向けに転がる男に声を掛けたのは、側付きを命じられた一人の侍女であった。
「まだ、天井が回っている…美しいであろう君の顔も、くらりと回っているよ…」
茶褐色の混じる金髪を有した気品のある顔立ちが、心配そうに覗き込む、まだ幼さの残る10代の侍女へと深藍の瞳を注いだ。
「あ、ありがとうございます…」
突然に容姿を褒められて、気恥ずかしくなった侍女は曲げていた細腰を思わず伸ばした。
「お、お水をお持ちしましょうか?」
「ああ、頼もうかな」
くるっと折れそうな背中を向けると、スカートの裾がふわりと広がって、同時に微かな花弁の香りが漂った。
「どうぞ」
「ありがとう」
上半身を起こしても、くらくらと視界が揺れている。
ジミルヴィチは侍女から差し出された陶器のマグを受け取ると、こくりと喉を潤した。
「キエフと比べると、やはり冷えるね」
緯度にしておよそ5度。季節は晩秋に向かっている。
キエフも大陸性の寒帯に属しているが、リャザンの夜の冷え込みは桁違いである。
レンガ造りの室内は暖炉も有しているが、キエフの南に領地を持っていた彼にとっては、想像以上の寒さであった。
「毛布を、お持ちいたします」
ジミルヴィチが飲み干したマグを左手で受け取ると、伏し目になった侍女が次の対応を口にした。
「ありがとう。でも、貴女が温めてくれると嬉しいな」
「え?」
侍女が伏し目を開くと、深藍の澄んだ瞳が彼女を貫くように見上げていた――
「あっ」
両腕を伸ばしたジミルヴィチは、薄い麻の衣服に包まれた細腰を捉えると、背中から倒れるようにして彼女をベッドに引き込んだ。
「こ、困ります…」
「僕は、何も困らないよ?」
二つの幼い膨らみの間から、続きを求める男が同意を促した。
「め、目を覚まされたことを、お伝えしなければなりません。それに、私はその…お相手が務まるような者では…」
「問題ない。私が求めているのだ。貴女は冷たい水を、暖炉に翳して温めてから注いでくれた。そんな優しい心遣いに、私は打たれたのだ」
花弁の香りに包まれて、ジミルヴィチは彼女を逃がすまいと両腕を絞った。
「いえ、それでも…」
「……そうか、無理強いは良くないな」
意外にもあっさりと、ジミルヴィチは腕の力を緩めた――
眩暈というものは、気合でなんとかなるようなものではない。
事を為すのは難しいと悟った男は、咄嗟に平静を演じてみることにした。
「あ、ありがとうございます…」
転がるようにジミルヴィチから離れると、どすんと石床に身体を落とした。
素早く立ち上がった細身の身体が見下ろすと、男の口元は歪んでいて、骨ばった右手が両の目尻を抑えていた。
「だいじょうぶですか?」
マグは左手に持ったままである。
逃れる事が出来たと安堵を灯した娘は、それでもキエフから来たという高貴な身分に対して、恐る恐る声を発した。
「ああ…君は、本当に優しいね」
「いえ…」
「一人になって、寂しさが募るんだ…」
「……」
「悪いことをした。それでもね、僕は君の世話になりたい。戻ってきてくれるかな?」
長い手指の間から、深藍の瞳が覗いた――
「…わかりません」
上司が配置を決めるのだ。
答える事はできないが、拒否する感情が湧くこともなかった――
「お目覚めになられたこと、報告してまいります」
「ああ…」
ぺこりと頭を下げると、幼さを残した女は初めて振りかけた香水の香りを部屋に残して、地階の廊下へと戻るのだった――
*1 連水陸路
河川あるいは湖を繋ぐ陸路のこと。船を引き摺ったり担いだりしての運搬が行われた。
945年、オリガ大公妃によるデレヴリャーネ族への復讐劇に於いても、船でキエフに来るよう促して、そのまま落とし穴で生き埋めにしたという描写がある。
*2 50ヘクタール = 500㎡
お読みいただきありがとうございました。
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