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小さな国だった物語~  作者: よち


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126/218

【126.美しい時間】

「なんだ、起きてたのか」


カルーガに唯一存在する、温泉宿の二階。

階下に玄関口を望める南側の部屋に足を踏み入れたブランヒルが、湿った髪を麻布で拭いながら、窓の外に視線をやっている弟分に声を渡した。


「あの女が、気になるのか?」

「え?」


悪戯っぽく尋ねた兄貴分の発言に、カプスが振り向いた。

窓の向こうには、トゥーラから派遣された女中たちが宿泊している民家が確認できる。

会談が終わって彼女とすれ違った後、彼はその目で後ろ姿を追い掛けて、家屋を確認したのだ。


「おいおい。なんで俺がお前を誘ったと思ってるんだ?」

「え?」

「まあ、あの女が本当にやってくるとは、聞いてなかったけどな」


それでも彼には確信があった。


都市城壁前での別れ際。

屈強な兵士を相手にナイフを突き付け、涙を流してまで心情を吐露した小娘が、再びの交渉の機会を逃す筈は無い――


「実はな…」


続いてブランヒルは、およそ二ヵ月前に起こった一件を詳しくカプスに伝えた――



「出てきたぞ」


馬の貸出を生業としている者に三頭の馬を詫びとともに引き渡して戻ってくると、偵察を任された兄貴分の声がカプスの耳に届いた。

窓へと小走りに駆け寄って先の方を眺めると、二人の女性の姿が並んでいる。


茶褐色の髪色を備えた女性の隣には、赤みの入った髪を背中にまで伸ばした小柄な姿があった――


「一人で出掛けるみたいだな。薪でも拾いに行くのか?」

「……」

「追い掛けるか?」

「大丈夫ですかね…」

「俺の文官服を貸してやる。身分がはっきりしていれば、向こうの警戒も緩くなるだろう」

「ありがとうございます」


童顔の瞳は輝いて、子どもが一途を迎えに行くような勢いで、カプスはエンジ色の服を抱えて階下へと向かった――



一方で、トゥーラからやってきた小娘は、心配するマルマを説き伏せて、冷たい風が向かってくる西へと向かった。


(大丈夫そうね)


20メートル以上の川幅を誇るオカ川は、子どもの頃の遊び場である。

当時と同じ風景の向こう側で、槍を手にして監視に当たっているライエルたちの姿を認めた王妃は、満足そうな表情を浮かべた。


続いて童心に帰った小さな身体は、灰白色に茶色の混じる土砂が堆積している浅瀬に足を進めると、膝を屈して目の前を流れる澄んだ水面(みなも)にスッと右手を差し出した。


「冷たいな…」


足だけでも水に浸けて子どもの頃を呼び覚まそうと思ったが、晩秋に流れる水は予想以上に冷たくて、小さな身体は寂しそうに呟いた。


「あの…」


その時である。背後から男性の声がやってきて、リアが咄嗟に振り向いた。

立ち上がって左肩から半身になって、小さな右手は太腿に備えた護身用のナイフに触れている――


「あ、怪しいものではありません!」

「……」


エンジ色の文官服が視界に入って、相手がスモレンスクの者だと認識をする。

西からやってくる冷たい風が、背後の気配を消したのだ――


「何でしょう?」


半身になったまま、小さな王妃は冷静を装って問い掛けた。


「覚えておられないでしょうか?」


不安そうな表情を覗かせて、カプスは真っ直ぐに尋ねた。


「え?」


男は動揺を隠せない様子で、敵意などは窺えない。

睨むような瞳が怪訝なものを含むと、リアの表情が少し和らいだ。


「私が子供のころ、一緒に遊んで頂いたのです。覚えていませんか?」


なんとか警戒を解こうと、丸顔の男は両手を腰の前で広げながら尋ねた。


「子供のころ…あなたの家にも、連れて行ってもらいました」

「あ…」


カプスの発言に、彼女は一つの記憶を呼び起こした。

村が一時賑やかになった頃、身なりの整った男の子を自宅に招いて、ロイズと一緒に丸パンを焼いた事があったような…


「思い出していただけましたか?」

「あ…はい」


安堵を浮かべたカプスが口を開くと、子供の頃の面影を残した二人はしばらくの間、姿勢はそのままで瞳を合わせた――


「今は、トゥーラにおられるのですか?」

「はい…」


穏やかな口調でカプスが尋ねると、透き通った白い肌に一点だけ備わった魅惑的な紅色が震えた。


「私は、貴方を探していたのです」

「え?」

「あ、いや。私自身が探したわけでは無いのですが…」


唐突に吐いた言葉を改めて、カプスは右手の指先を耳の裏側へと移した。


「私は、その…あなたが好きなのです!」

「……」


ここで傍観者となったなら、一生の慙悔を抱くことになる――


後悔はしたくない。

心が感じているならば、動いた方が正しい。


右手を胸にして、迷いを払った男の発言は、真っ直ぐとなってリアの鼓膜に飛び込んだ――


「あ…ありがとうございます」


思わず瞳が開いて時間を止めると、次には肯定された嬉しさと、恐縮が心を揺らした。


「その…心に決めた方は、おられるのですか?」


穏やかを装って、カプスはどうしても訊かなければならない問いを口にした。


長い間温もりとなっていた心の奥を、壊すことになったとしても――


「はい」

「……」


たとえ場所は同じでも、あの時とは違った冷たい空気がカプスの頬に触れている。


それでも澄んだ川辺を背景にして、初冬の陽射しに照らされた可憐な姿は、カプスの記憶に新たなものとして刻まれた――


「……」


無念な思いが支配する。

それでも自らが想い続けた女性は、他の誰かからも慕われる存在なのだと知ったことにより、晴れ間が覗いた――


「あ、水辺はお寒いでしょう?」


愛しい身体が冷気に晒されている事に気が付いて、カプスは一歩を引いてみた。


「あ、はい…」


紳士的な態度に恐縮を表すと、小さな体は一歩を進み出た。


「……」


しかしながら、二人の間合いは縮まらない。

一定の距離を保とうとしている。駆け寄った当時とは違うという彼女の心情を汲んだカプスは、さらに数歩を後ろに刻んだ。


「失礼しました」

「え?」


緑が残る川べりまで戻ると、カプスの童顔に清々しい表情が浮かんだ。


「会いたいと思ったのは、あなたと一緒にいた時間が、美しいものだったからです」

「……」


赤みの入った髪の毛が水面にそよいで、カプスはあの瞬間をふたたび思い出す――


「ありがとう。お礼を言うことができました」


向かい合った相手の心情を慮りつつ、彼女はしっかりと自分の意志を表している――

心に宿った初恋の少女が、思い描いていた以上に素敵な女性に成長していた――


そんな事実が、本当に嬉しかったのだ――


「お元気で」


カプスは言いながら、おもむろに右手を差し出した。

再び出会えた事への感謝を捧げると同時に、彼女との決別を表す為に――


「……」


しかしながら、小さな王妃が右手を差し出すことは無かった。


一定の距離を保ったままで、瞳はふっと翳って、それでも微笑んでみせようと、僅かに口角を上げたのだ――


「あ、失礼しました」


戸惑いの表情を受け止めて、カプスはサッと右手を戻した。


「スモレンスク公国で将官をしております。カプスと申します。突然の失礼な振る舞いにお付き合いいただき、ありがとうございました!」


続いてスッと姿勢を正すと、大国の武官らしく綺麗な滑舌を披露して、くるっと背中を翻して足を進めた――


「……」


エンジ色の寂しそうな、それでいて毅然とした背中を見つめたままで、小さな王妃は冷たい空気の中でしばらくの時間を過ごすのだった――




「あ、リア様!」


心苦しい気持ちと、どこか浮ついた心を宿しながら足を戻すと、マルマの急かすような声がやってきた。


「スモレンスクの方々、そろそろ出発するみたいですよ?」

「え、そうなの? 随分と早いわね」


今しがた、相手方の一人と会ったばかりである。

恐らくは入村しているスモレンスクの人数は三名で、残りはオカ川を渡ることなく待機をしているのだ。

警備を続ける小国への配慮が窺えて、リアの心に明るいものが灯った。



3人の女中が宿屋の前へと急ぐと、スモレンスク側の3名と、ラッセルとメルクの姿が視界に入った。

別れの挨拶に加わる事も経験だからと、王妃は二人の女中を伴って、宿屋の入り口から少し離れた西側に立って様子を窺う事にした。


「立ってるだけなのに、なんか緊張しますね…」


並んだ3人のうち、宿屋から一番離れた場所に立っているライラが呟いた。

やがて目の前を、スモレンスクからやってきた使者たちが通り過ぎるのだ。

たったそれだけの事ではあるが、公式の場に足を置いた事の無いライラの身体は、冷えた空気も手伝って小さな震えを発していた。


「顎を引いて、目を伏せるだけでいいからね」


やがてスモレンスクの一行がこちらに足を進めると、マルマがライラに助言した。

先頭で杖を用いる老臣の歩みは遅いもので、しばらくは同じ姿勢で固まることになりそうだ。


「カプスさん」


瞳を伏せたマルマの右側から、突然の声がした。

マルマが思わず瞼を開くと、赤みの入った髪を背中に靡かせる身体が一歩を踏み出した。


「お元気で」


明るい澄んだ声色が、一行の一番後ろを歩む丸顔の男に対して発せられた。


「え…」


思いもしない出来事に、カプスの足は勿論、スモレンスクの一行も歩みを止めた。

驚きを浮かべる童顔の男の眼下には、左手に持った一枚の紙片と、あの日よりは大きくなった、それでも小さな乳白色の右手があった――


「あ、はい」


あの日と同じ、上目遣い。

抱き締めたら壊れてしまいそうな上品な儚さと、吸い込まれそうな琥珀色の大きな瞳――


カプスは左手で紙片を受け取ったあと、改めて右手を差し出すと、彼女の優しさ全部を取り掬うように、小さな右手を包んだ。


あの日とは違って、初恋を捧げた相手の手指は冷たいものだった。


それでもカプスの心には、あの時とは違った温もりが確かに灯っていた――

お読みいただきありがとうございました。

感想等、ぜひお寄せください(o*。_。)o

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