【122.散髪】
トゥーラ城の食堂では、賄いの朝食を食べ終えた女中たちがその場に残ると、やがてふくよかな身体を揺らしたアンジェがやってきて、カルーガで行うスモレンスクとの停戦交渉の実施が伝えられた。
先遣隊としてライエル将軍が赴いて、交渉役として尚書のラッセルが後を追う。
後者の補佐役として二人の女中が加わって、そのうちの一名はマルマが担う――
簡単な内容は、以上である。
「え? マルマも行くの?」
薄い顔立ちに驚きの表情を浮かべたラッセルが、地階の螺旋階段の手前でマルマに向かって口を開いた。
名目として尚書の補佐役を任じられ、当日持参する物品などを尋ねるべく彼女が足を運んだのだ。
「なんですか? 私が行ったら、マズい事でもあるんですか?」
怪訝な反応がやってきて、マルマは口を尖らせた。
「え? いや、そういうわけじゃないけど…」
「ラッセルさんの考えはお見通しです! リア様と一緒に旅行できるとか、思ってるんでしょ!?」
「う…」
ずいと踏み込んだ彼女の指摘は、貧相な男を見事に貫いた。
「ほらやっぱり! リア様と温泉入れるとか、リア様の残り湯に浸かれるとか、思ってたんでしょ!?」
「そ、そこまでは思ってない!」
存外な言葉が降ってきて、ラッセルは必死に否定した。
「じゃあ、どこまでを思っていたんですか!?」
随分と締まってきた両の腰に手を当てて、マルマは鋭い目つきで威嚇した。
「お、お前が思っている事なんて、想像してない! リア様と温泉…なんて…」
その刹那、ふわっと浮かぶ湯けむりの中で、乳白色の柔肌を露天の湯に浸ける妖艶な姿が浮かんで、ラッセルの動きが止まった。
「ほらやっぱり! いやらしい!」
呆けた表情を浮かべたラッセルに、マルマが右手を前にして軽蔑を放った。
「いやいや、お前が変なこと言うからだろ!」
本当の事である。
想い慕う小さな身体が両腕の中に納まって、上下に揺れる馬上で未来を語り合う…
そんな場景をふたたび過ごせると、高揚した気分に浸っていただけである――
「リア様には、指一本触れさせないんだからね!」
「お、お前にそんな権利があるのかよ! 交渉するのは俺なんだからな! お前なんか外してやる!」
「残念でしたー。私はリア様から直々に指名されたんですぅ」
「く…」
「ふん。どうせあんたなんかが指名されるくらいなんだから、大した役目じゃないでしょ! ライエル様に代わってもらった方が良いんじゃないの? そうだ。私がリア様に提案しちゃおうかな?」
「ちょ…それは待ってくれ…」
完全なる敗北を悟ったラッセルは、縋るように右手を差し出した。
「こんなところでなにやってんのよ。相変わらず、仲が良いわね」
二人の距離感で罵り合っていたところに、螺旋階段を降りてきたアビリが割って入った。
「な、仲良くなんてしてません!」
「そうなの? そんなふうには見えないけど…」
茶化すふうでもなく、アビリはすました表情で感じたままを発した。
「あ、そんな事よりもマルマ。私、立候補するからね」
「え?」
突然の先輩からの発言に、マルマの茶褐色の瞳が固まった。
「もう一人、選ぶんでしょ?」
黒髪のポニーテールを揺らしたアビリが、そばかすの上の黒い瞳を悪戯っぽくマルマにぶつけた。
「あ、はい。でも、私が選ぶわけじゃないんですけど…」
「じゃあ、推薦しといてよ」
「え…」
「あ、アビリ。良いところに居た」
マルマが答えに窮したところで会話に割り込んだのは、食堂から出てきた女中頭のアンジェだった。
「あ、アンジェさ…」
これ幸いと、アビリが許可をもらおうと明るい表情になって声を発した。
「アビリ。マルマが出てる間、頼むわよ!」
「え? あ…はい…」
「……」
短く要件だけを伝えて風のように去っていった上司の背中を、二人は見送る事しかできなかった――
「く…温泉…入りたかった…」
「ま、またチャンスはありますよ! 落ち込まないで下さい!」
あからさまに肩を落とすアビリを励まそうと、マルマが必死になって慰める。
「ありがと…でも…アンタが羨ましい…」
最後に妬みを吐き出すと、アビリは亡霊のように、すうっとマルマの元から離れていった――
「あなたが選んで良いからね」
昼下がり。トゥーラ城の地階の廊下にて、マルマはアンジェから同行者の人選を任された。
「……」
王妃様の意向も含まれている。
そんなものを感じ取ったマルマは、上司の背中を見送った後で、憧憬の念を抱く王妃の元へと向かった。
「私だけじゃない理由は、何故ですか?」
マルマもまた、二人きりの行程を楽しみにしていたのだ。
寝室のベッドに腰掛けて、赤みの入った髪を愛用の櫛で梳いている小さな身体に問い掛けた。
「久しぶりに羽を伸ばそうと思っているの。元気になったのは、あなたのおかげだしね」
優しい手つきで髪を梳きながら、王妃は感謝を口にした。
「いえ。私だけでは…」
「もちろん、全部じゃないけどね」
「……」
希望の回答が戻ることはなく、マルマはしばし言葉を逸した。
「私は…リア様と二人が良かったです…」
拗ねたような表情になって、マルマの口元から思わず本音が零れた。
「え? ああ…そういうこと?」
どうやら慕われている。そんな感情を理解したうえで、小さな王妃は諭すように理由を口にした。
「ロイズから頼まれたの。スモレンスクとの会談は宿屋を使うんだけど、ちょっと大きな普通の民家って感じなの。それでもね、秘匿性は高くしたいってことで、給仕は私がやることになったの」
「……」
「その間、あなたは独りになるわ。だったら誰か居た方が良いかなって思ったの」
「……」
「余計なお世話だった?」
「いえ…」
信用しているとはいえ、会談の内容を女中に知られるわけにはいかない――
王妃の言わんとしているところを理解したマルマは、渋々ながらも通達を受け入れた。
寒風の中に放り出される姿を想像したことも、素直となった理由である。
かくしてマルマの人選は、無難なところで落ち着いた――
「なに!? スモレンスクとの停戦交渉に同行する?」
「うん…」
驚きの声を上げたのは、暖炉の前のソファに座り、夕食後のくつろぎの時間を過ごしていたライラの父親であった――
夏の初め。
お城で働きたいと申し出た箱入り娘に、勤まるわけが無かろうと高を括って、鼻で笑いながら承諾をした――
いよいよ初出勤となった朝、高い身長の全部で緊張を表しながら家を出た娘は、夕刻になると憔悴した姿で戻ってきた。
「わたし、なんにもできなかったの…」
「……」
羽毛のベッドで丸くなった上半身を麻のシーツで覆って、悔しさに肩を震わせる娘に、父は掛ける言葉を失った。
「どうする? お断りの連絡を入れる?」
ベッドの脇で膝を落とした母親が、心配そうに娘を探った――
「…ううん。やめない」
「……」
娘の声には、確かな意志が宿っていた。
侮った父親を見返してやろうと意地になったのか、己の無力が恨めしかったのか…
甘やかして育ててしまったと少なからず自覚をしていた父親は、娘が示した予想外の気骨に驚いた――
「ライラ、あなたには、荷が重すぎるのではなくて?」
「……」
麻のシーツでは隠せない、白くて細い下腿を覗かせる娘に、鮮やかな金髪を背中にまで伸ばした母親が、思い止まることを勧めた。
「あなたのそんな姿を見るの、おかあさん辛いわ…」
「母さん、ライラを信じよう」
語りかける母の右手が、麻のシーツで隠れる娘の背中へ伸びると、動きを止めるべく、細い右肩に背後から手を置いて、父が短く語りかけた。
「……はい」
重くなった右肩に動きの止まった母親は、心配の表情を残しながらも伴侶の言葉を受け入れることにした――
「ライエルさんに、告白した女が居るんですってよ?」
「え? なにそれ。ありえないんだけど」
夏の日差しを感じ始めた頃。トゥーラのメインストリートで行われる朝市に出掛けたライラの母親は、目の前を歩く二人の女性が高い声で話す、一つの噂話を耳にした。
「誰が?」
「さあ? 背の高い金髪女って話だけど…」
「どっちにしろ、身の程知らずよね。ライエルさんには、貴族のお嬢様って感じのお相手であって欲しいもの」
「そうね…でも、トゥーラには貴族なんて居ないけど?」
「そんなの時間の問題よ。どこからか噂を聞きつけて、縁談が舞い込むに決まってるわよ」
「そんなものかな…」
「そんなものよ!」
「なんだかそれも寂しいなあ。ライエル様には、ずっとトゥーラの王子様で居てほしい」
「そんな訳にはいかないでしょ…」
うっとりと理想を口にする女性に対して、友人が冷静にツッコんだ――
「……」
ライラの母親が、顔の表皮を青くした――
数日前の昼下がり、娘は小さな顔を両手で覆ったまま家に戻ってきて、そのまま自室に引きこもったのだ。
何事かと駆け寄って尋ねるも、答えが返って来ることは無かった――
ようやく姿を現すと、一張羅の乳白色のワンピースを着たままで、背中まで伸ばしていた自慢の金髪は、無造作に断ち切られていた――
「わたし、変わらなきゃ…」
さすがに体裁が悪いと椅子に座らせて、娘の散髪を静かの中で執り行った…
トゥーラの誇る若き美将軍。
憧れの対象としてその名を普段から発していた娘であったが、まさかガチ恋だったとは――
噂の張本人が娘であると悟った母親は、絶句のあとに少しだけ頬を緩めると、買い物を済ませて自宅に戻り、ライラの元へと向かった――
「あなたは間違いなく、私の娘ね…」
ベッドの上で膝を抱えて、身体全部を麻のシーツで隠していた娘に対して、母は膝を床に落とすと、優しく口を開いた。
「お母さんもね、お父さんを追いかけたのよ。貴方も知ってる通り、材木屋の息子さんでね。お店に頼んで働かせてもらって、トゥーラにもお店を構えるってお話が上がった時に、付いてきちゃったの」
「……」
「あなたに、神のご加護があらんことを」
彼女なりの励ましを伝えると、母は膝を伸ばして部屋を後にして、音をたてぬようにと扉を閉めた――
「カルーガには、ライエル将軍も行かれるんですって!?」
「あ、うん…別行動になると思うけど…」
ソファで寛ぐ父親を前にして、立ったままでカルーガ行きを告げたライラは、背後からの母の質問に、振り返って答えた。
「さすがは俺の娘だな! 外遊に帯同する3名に選ばれるなんて、凄いじゃないか! なぁ母さん!」
「……」
手のひら返し。上機嫌の父親をよそにして、ライラの表情は浮かないものであった。
何かが決するには理由がある。
決して実力で選ばれたわけではない――
むしろ最も劣っているから…普段の業務には差し障りがないからこそ、声が掛かったのだ――
「楽しんできてね…」
どんよりとした風貌になったアビリ先輩が、恨めしそうな笑顔を作ってくれた…
相当行きたかったらしい…
そんな想いを受け取っては、心から愉しめる筈も無かった――
「……」
自身の働き始めた頃を思い起こした母親は、沈んだ表情を浮かべる一人娘の心の内を、黙って汲み取ってみせるのだった――
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