【106.幕開け】
右手を差し出した伴侶に未来を問われた小さな王妃は、しばらくの時間を置いてから、右手の指先をおもむろに伸ばした。
「あ…」
指先が触れた刹那、ロイズが細くなったリアの手首を捕まえると、力任せに引っ張り上げた。
小さな足裏がぽんと石床に乗っかって、リアの身体がそのまま前のめりとなる。
「おかえり」
ロイズの愛しい胸板に飛び込む形となったところで、逞しくなった彼の両腕が、リアの身体を優しく包み込んだ。
「……」
ロイズの両の手のひらが、細腰と背中を捉えている。
離しはしないという強い信念が、愛情となって彼女の身体に注がれていった――
「うん…」
瞼を閉じて、未来を想った王妃は抱き締められるままに身体を任せた。
前向きな言の葉で、リアの心は窄んでいた胸の内でやわらかに羽を広げると、ようやく乾いた唇を通り抜け、外界へと羽ばたいていくのだった――
「一人で、立てるか?」
幼児に接するような愛情で、ロイズが尋ねる。
抱き締められた腕がふっと緩んだ事により、踵が浮いていたリアの足裏は、約十日ぶりに寝室の固い石床を踏みしめた。
「たぶん…」
「身体、清めに行く?」
「うん」
倒れてからというもの、ベッドの上で着替えと同時に清拭は行っていたが、入浴をする事は無かった。
動かなかった心身の錆を落とすには、願ってもない提案である――
「大丈夫?」
リアの背中を右手で支えたままのロイズが、気遣うように声を発した。
足腰が弱っているのは明らかで、彼女の小さな身体すら支えるのは困難かと思われた。
「うん…思ったよりは、歩けそうかな」
しずしずと、よろめいた時の為に両肩の辺りをロイズに備えてもらいながら、寝室から居住区の方へと足を運んだ。
自らで立っているという現実に、リアの心は随分と和らいだ。
「お嬢様、お手を」
居住区を抜けて螺旋階段の手前まで進むと、ロイズがスッと一歩を踏み出して階段を一段だけ下りると、振り向きざまに右手をそっと差し出して、瞳を伏せて畏まった姿勢となった。
「…はい」
頬が赤くなる。それでもリアは素直に従って、左手をそろりと預けた。
「……」
右手を壁に任せて、左手をロイズに支えてもらいながら、螺旋階段を一段一段と降りていく。
階段を踏みしめる度に膝が折れそうになる感覚が走るも、2階へと足を置いた頃には、右手を離せるまでになっていた。
「マルマを呼んでくるよ」
リアとロイズが使う浴室は、城の2階に設けられている。
地階まで下りる事も無かろうと、ロイズはリアに一言を告げて、支えていた小さな左手を外した。
「うん。待ってるね」
小さな王妃は少しの寂しさを覚えるも、螺旋階段を軽快に下りていく伴侶の後ろ姿を、憂いの瞳で見送るのだった――
「リア様!」
やがて階下からマルマの声がして、螺旋階段を駆け上がってくる足音が聞こえると、笑顔の溢れた丸っこい顔が現れた。
「ひっ」
勢いのまま抱きつかれたら、転倒必至。警戒した王妃だったが、マルマの足は2階に乗った所で立ち止まり、スッと伸びた両手が胸元にあったリアの小さな手指を挟むと、ふくよかな胸の前に引き寄せた――
「…良かった」
「……」
呟かれたひと声に、リアの胸中は陰った。
気苦労をかけ続けたという負い目を抱えては、彼女の安堵は眩しすぎたのだ――
「着替えは、こちらに。お湯加減は、ぬるく張ってあります。ごゆっくりお入りください」
「うん…」
入浴の準備を整えて、リアを浴室へと招いたマルマは、丁寧に一つ一つを説明していった。
自らの足で立っている王妃様を前にして、仕える事ができる喜びを、側仕えの彼女はしみじみと噛み締めた――
「近くにおりますので、何かあったら、お呼びください」
「え? 勝手に出るからいいわよ」
「ダメです。久しぶりのお風呂でのぼせたら、堪ったもんじゃありません!」
「……」
過保護すぎる…
心に灯すも、自身の汚点が原因で、反論できる材料は乏しかった――
およそ二時間。
夏のぬるま湯を勧められた王妃は、お湯を途中で入れ替えるほどに温浴を愉しんだ。
じわっと吹き出る水分を補うように木筒から水を補給して、浴槽のへりに乏しい胸を預けたり、半身浴に切り替えたり…
生まれ変わったような皮膚の感覚を身体の随所で認識しながら、リアは自身の失態を流すべく冷熱の感覚を呼び覚ました――
「あがられますか?」
身体中に水分を摂り込んで、すっかりとふやけた小さな白い肢体が浴槽から上がると、気配を察したマルマの声が扉の向こうからやってきた。
「…うん」
悪気があるのか無いのか…
様子を窺うのを口実に、幾度か扉がそろりと開いては、マルマの瞳がこちらを覗いた。
その度に視線を合わせては、サッと彼女の頭が引っ込んだ。
そんなやりとりも可笑しくて、リアの心は随分と軽いものになっていた。
「お体、お拭きしましょうか?」
「大丈夫。そのくらい自分でやるから」
「そうですか…」
萎れた声がやってきて、心が揺れる。
ベッドの上では全てを任せていた筈なのに、恥じらう気持ちは何故なのか…
普段通りの胸中に、戻っていると自覚した――
「大丈夫ですか?」
螺旋階段を、地階へと下りてゆく。
足取りがゆっくりな華奢な背中を眺めながら、マルマが心配そうな声を発した。
「階段って、人生と同じね…」
「は?」
眼下の赤い髪。ひょんな言葉がやってきて、マルマが思わず聞き返した。
「上るよりも、下る方がキツイと思う」
「……」
自虐を含んだ発言は、未来を覗くゆえのこと。
「まだまだ、幕が下りる事はありませんよ!」
そんな事には、させません。
明るいマルマの決意がリアの鼓膜に飛び込んだ――
女中の集まる食堂をリアが覗くと、一様に華やかな笑顔が広がった。
アンジェの指示なのか、気を遣ってか、病身明けの王妃に近付こうとする者は皆無で、小さな王妃は注がれる安堵の視線の中で、両手を前にして、ペコリと頭を下げて感謝を示した。
誰かがパチッと両手を合わせると、すぐさまそれが伝播して、拍手となって部屋を温かなものにした――
「……」
胸の中が熱くなって、大きな瞳に涙が滲んでくるのを自覚する。
視線を戻すことが出来なくなって、小さな王妃は赤みの入った髪を垂らしたままの姿勢で固まった。
「リア様。これは、私達の感謝です」
リアの左側。一歩を進んだマルマが高い声になって口を開いた。
「王妃様が、私達を守って下さったこと、みんな知っているんです!」
視界には、涙ぐんでいる女中の姿も窺える。
更に一歩を進み出て、頭を下げたままの王妃に向き直ると、マルマは伏し目になって小さく頭を下げて、仲間の想いを代弁してみせた。
「本当に、ありがとうございました!」
拍手は一段と大きくなり、祝福だけが部屋を満たした――
「さて、やるか」
居住区に戻った小さな王妃は、久しぶりにいつもの席に腰を下ろすと、両手を首の後ろに回して、んっと背筋を伸ばした。
目の前の小さなテーブルには、ロイズが記した戦闘の記録や報告書。加えてラッセルと合議した今後に向けての課題や提案、予定表の類が置かれていた。
日付の若い順に並べられ、傍らにはインクとペン。幾つかの紙片が置いてある。
特に指示したものではなかったが、リアの入浴中に、ラッセルが臨時の執務室から運んだのだ。
居住区の、総ての窓が解放されている――
新鮮な空気が充満する中で、リアの頭脳は自覚できるほどに活性していくのだった――
白い太陽がオレンジ色を帯びる頃、ロイズが居住区に姿を現した。
螺旋階段を上って、いつもの席にリアの姿を認めるも、頭頂部が覗いて発声を控えたのだ。
「おかえり」
それでも気配を察したリアから声が上がった。
「どう?」
「うん。ごめんね…もう大丈夫」
体を起こすと、リアは肩の力を抜いて、目尻が下がって安堵を口にした。
「食事は摂った?」
「うん」
痩せ細ったように映るのは、気のせいではない。
既にベッドの上で、確認済みの事である。
ロイズが気遣うと、リアは普段通りを意識した――
日も暮れて、ロイズが浴室から足を戻すと、小さな身体は寝室へと移動していた。
ベッドの上で胡坐をかいて、ロイズが記した紙片と真剣な眼差しで向き合っている。
「質問あったら、言ってね」
「うん…でも、問題ないかな」
ロイズの穏やかな声質に、感謝を含んでリアが答えた。
「この分なら、任せても大丈夫そうね…」
「え? それはちょっと…」
続いた称賛に対しては、ロイズが思わず抗った。
「ダメなの?」
「だって、リア以上にはできないよ」
「……」
本心からの言葉らしい。
そんなものを感じ取って、彼女は言葉に詰まった。
おだてられた悦びは自覚して、一方で重荷が圧し掛かる…
「意外と、残忍なのね…」
頬を緩めるロイズに向かって、恨めしそうにリアが呟いた。
「だって、僕一人じゃ倒れちゃうからね。そうなったら、リアが泣くでしょ?」
ベッドのへりに腰掛けて、ロイズは大きくなった瞳に投げ掛けた。
「そうね…」
自惚れた発言は、事実だろうなと受け止めた…
「主役が寝てる間に、舞台を造り直しておいたってところだね」
言いながら、腰を上げたロイズは棚に置いてある木筒に手を伸ばした。
「……」
逞しくなった伴侶の背中。小さな王妃は黙ったままである。
「ここからは、リアの出番だよ!」
ロイズはくるっと振り向くと、主役の登場を待ち望む観客のように期待して、リアに出演を促した――
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