【104.あの日⑩】
「先ずは、南東を目指すからな」
「……」
冷たい北風がそよぐ中、ルシードの丸太のような顔から発する言の葉に、少年は小さく頷いた。
一方の少女は別れの時を拒む意志を持ったまま、荒らされた家屋を眺めて呆然となっていた――
「分かっているとは思うが、何人もの人が倒れているから…」
「……」
「リアは、目を瞑っていなさい」
垣根の向こう側。ほんの少し立ち直った未熟な心に、凄惨な現実を再び見せる訳にはいかない。
若木のような背中に向かって、ルシードは言い聞かせるように声を発した。
「ロイ君、襲撃してきた奴らは、何か言ってなかったか? 国の名前とか、次はどこへ向かうとか…」
別れの時間を少女に与えるべく、ルシードがロイズに一つを尋ねた。
「えと、明後日には、片付けが来るとか言ってました」
「お。偉いぞ。よく聞いてたな」
「いえ…」
思わぬところで大人に褒められて、少年は頬を赤くした。
「あの…」
「うん?」
「片付けって、なんですか?」
胸の中で騒ぐものを意識して、ロイズは思い切って尋ねた。
「穴を掘って、埋めるんだよ」
「……」
「言っとくが、弔う為に墓を作る訳じゃないからな」
「え?」
しんみりとした少年に、戒めの言葉が掛けられる。
「虐殺行為を、他の公国の仕業だと叫んで、攻め込む口実にするんだ」
「……」
続いてルシードは、聖書に出てくる神に赦しを求める人物のようになって、手振りを交えながら語った。
「スモレンスクの支配下に攻め込んできた奴らが居る。なんと悲しい事だ。敵はどこだ? ヴィテプスクかドルツクの残党か? それともルコームリか? ってな具合だ」
「……」
「どこの国だって、問題はある。だから侵略者の連中は、攻め込む時には必ず『解放する』 って言葉を使うんだ。安定した暮らし、平和な日常を叫びながら人を殺す。覚えておけ」
「……」
やがて二人の養父となる丸顔の男は、鋭い眼光となって最初の教示を語った――
出立の時。
ロイズが馬の首元に跨って、次にリアが鞍の先端に跨ると、華奢な指先がロイズの腰を掴んだ。
「ごめんなさい…」
心が決まったところで、少女は改まって呟いた。
動けなかった…
動くことができなかった…
助けられなかった…
助けなかった――
左脳では分かっていても、後悔の念が消え去る事は無い。
謝罪の言葉を吐きながら、リアの瞳は父の作業場の方へと向いていた――
「……」
それでも、未来を行く――
二つの細腕が、少年の腰を締め付けた。
少女の決心は、確かにロイズの心身を昂らせた――
「さあ、行くぞ」
二人の後ろで鞍に跨ったルシードが、鐙の位置を確認すると、ロイズから手綱が渡された。
「リアは目を瞑って、下を向いていなさい。良いと言うまで、絶対に開けちゃダメだ。分かったね?」
「……」
ルシードからの忠告に、少女は小さく頷いた。
「ロイ君も、見たくなかったら、見なくていいからな」
「いえ…」
「そうか…」
真っすぐに前を向いた少年に、ルシードは短い声で応えた。
「落ちないようにな。先ずは林まで、急ぐからな!」
続けて二人に伝えると、鐙をぽんと揺らして馬を進めた――
「……」
垣根を越えると、幾人もの斃れた人影がロイズの瞳に飛び込んだ。
苦しみに歪んだ表情と、乾いた空気に晒される、開いたままの光を失った瞳たち。
馬上からの景色が流れると、一つの家屋の前では人の姿をしたものが、藁のように積み上がっていた――
逃げ惑ったであろう多くの動かぬ体は、男性は背中を上にした状態で、女性は仰向けになって散乱している。
槍で突かれて噴出した鮮血は、漆黒となって凝固していた――
「……」
ふっと視界に、一緒に遊んだことのある女の子の姿が入った。
衣服は剥ぎ取られ、両腕にはシミのような痣が浮かび上がって、人形のように固まったまま、枯れはじめた草むらに転がっていた――
「く…」
「リア、見るな」
思わず漏れたロイズの声に、少女が反応しまいかとルシードが抑止した。
「……」
ロイズの脇腹が、ぎゅっと少女の腕によって締められる。
最後に少年は、白樺が林立する美しい森の中で、つま先を上にした赤みを含んだ髪の女性が視界に入って、咄嗟に胸元へと視線を落とした――
カティニの南側。川幅8メートルほどのドニエプル川の対岸に足を置く。
見慣れた緑黄色の草原と、ヤチダモや白樺の木々が視界に入って、二人の緊張は随分と和らいだ。
「今日は、あそこで休もう」
初冬の風を背中に受けながら進んだ先で、ルシードは白樺の林の中で隠れるようにして建っている一軒の廃屋を指差した。
「ちょっと、待ってろよ」
言いながら手綱をロイズに任せると、男はスルッと地面に降り立った。
廃屋の傍らには空井戸らしきものがあり、人の営みが確かにあったという痕跡が見て取れる。
迷うことなく辿り着いたということは、予め一夜を過ごす場所を確認していたという事に他ならない――
「おじゃまします」
「……」
二人が廃屋に入ると、ルシードは暖を取る為に、小さな焚火を土床に起こした。
リアとロイズは身体を寄せ合って、久しぶりに不安の和らいだ夜を過ごした――
「今日は、ブリャンスクって所まで行くからな。着いたら身体を洗おう」
夜空の瞬きが消える頃。三人は既に馬上の人となっていた。
「二人とも、真っ白だからな。特にロイ君は、凄いことになってるからな」
「リアのせいだぞ」
暖炉の中を何度も往復をして、全身が灰まみれ。
揶揄うようにルシードが口を開くと、ロイズが普段通りの声音となって背後のリアを責めてみた。
「ごめん…」
明るい口調の叱責に、少女の心も漸く普段を取り戻してゆくのだった――
追手を警戒する為に、スモレンスク公国を迂回した結果、チェルニゴフ公国領のブリャンスク郊外に着いたのは、夕方の事であった。
馬の負担を考慮して、途中からはルシードが馬を下りて手綱を引いたのも一因である。
「お疲れさん」
オレンジ色の光が瞬く穏やかな水面を認めると、ルシードは真っ先に愛馬の頬を摩った。
「よっと…」
「何をしているんですか?」
湖畔に進んで愛馬に水を与えると、ルシードは近くに生えているオリーブの木に登りはじめた。
「お前たちの着替えをな…隠しておいたんだよ」
「……」
「陽が落ちると、途端に寒くなる。お前たちも、早く身体を洗いなさい」
「はい」
「……」
ロイズが明るく答えて、上着を脱ぎだした。
その様子を突っ立ったまま、リアが静かになって眺めている。
「どうしたの?」
静止しているリアに気が付いて、ロイズが不思議そうに尋ねた。
「なんで、こっち向いてるの?」
「え?」
「向こう向いててよ」
「え? なんで?」
「なんでも!」
少女の恫喝に、少年は思わず背を向けた――
彼女の家に泊まっていると、二人は身体を清めた後で、夏の昼間は裸のままで走り回って、冬は暖炉の前で一緒になって身体を乾かしている――
「なんで?」
理解ができなくて、ロイズは小さく首を傾げるのだった――
「ちょっと大きいけど、いい感じだ」
リアには麻色のワンピース。
ロイズには同じく麻色のチュニックに、革のズボンをあてがった。
よろずやの女主人が薦めるままに購入したが、二人の見栄えにルシードは満足そうな声を発した。
「それから、リアは頭巾を使いなさい」
「……」
「赤い髪は、珍しいからな。狙われる可能性がある」
「…はい」
蹲った地下室で飛び込んできた母に関する発言を、小さな身体は思い起こした。
それでも少女は真摯に向き合って、彼の言葉を受け入れた――
「それからもう一つ。暖炉をそのままにしてきた…追手が来るかもしれない」
ルシードは、一つの失態を口にした。
「君たちは、見てはいけないものを見た。絶対に、他に話しちゃダメだ。分かったね?」
丸太のような顔に浮かんだ真剣な表情に、二人はコクと頷いた。
「こうしよう。俺たちはリャザンに戻る家族という事にして、名前も変えよう。リアの事は、これからアレッタって呼ぶから。分かったね?」
「…はい」
ルシードからの提案に、リアは素直に従った。
「ロイはいいの?」
「ロイ君は、どうしたい?」
リアの発言に、ギョロッとした眼がロイズを覗いた。
「そのままでいいです。だいたい、本当はロイズなのに…」
親でさえも、普段から略して自分を呼んでいた――
二人の視線を受け取ると、少年は改めて呼び名を考えて、不満そうな声を吐き出した。
「じゃあ、これからはロイズって呼ぶ」
「え?」
明るく言い放った幼馴染の発言に、思わず少年が眼を向ける。
「ね。ロイズ」
「……」
突然飛び込んできた大きな瞳の微笑みに、ロイズは冷え切った頬を思わず赤へと染めるのだった――
「他には、何が入ってるんだ?」
小さな宿に入って落ち着いたところで、ルシードがリアに尋ねた。
肩からたすきに掛けて持ってきた巾着袋の中から、少女が乾いた丸パンを取り出したのだ。
「これは、お父さんに貰ったナイフで、後は…お母さんの櫛かな」
「そうか…」
ルシードは、少女が左手で取り出した木箱を確認すると、安堵の息を吐き出した。
「アレッタ…君は、これからもずっと、生きていくんだ」
「…うん」
諭すようなルシードの言の葉に、アレッタと呼ばれた少女は小さな声で応じた。
人間は太古の昔から、己の生命と守るもの。
二つを天秤にかけて、未来を選択している――
「……」
重たい価値が、果たして自分にあるというのか…
それでも両親にとっては、命に代えても守りたい存在だったらしい…
「……」
想いに応える為にも、生きなければならない… 後悔しないように…
漠然としたものではあったが、少女は一つの心を確かに宿した――
「ルシードさん…」
就寝前、小さなランプが灯る部屋の中。既にベッドで寝息を立てているロイズを背中にして、リアが小声で呟いた。
「うん?」
備え付けのソファに座り、白湯をお供に一息ついていたルシードが、何事かとギョロ眼を向ける。
「えと、お願いがあるの…」
「どんな?」
黒い瞳が続けて尋ねると、ベッドに座る少女は持参した巾着袋の中から、何かを包んだ一片の麻布を取り出した。
「これをね。お父さんに届けてほしいの」
「……」
女の子の無邪気な言の葉に、一瞬の静寂が訪れる…
「…中身は、なんだい?」
それでもルシードは、平穏を保って言葉を発した。
「手紙なの。初めて書いたときに、渡せなくて…」
「……」
「文字を使ったら、遠いところにも届くんだよね?」
「……」
ほんの一瞬だけ、時間を止めた――
哀しげな瞳に、なってはいないだろうか?
「ああ、そうだな…」
男は努めて冷静に、気丈になって右腕を伸ばした。
『おとうさんへ』
麻布の表には、薄いインクが滲んで、ありきたりの表題が記されていた――
「お願いします」
安心したように、ペコリと小さな赤みを帯びた頭が下げられた。
「ああ。分かった…」
ルシードは、受け取ったままの姿勢となって、短く言葉を返すしかなかった――
「……」
リアがベッドに潜り込んだのを認めると、養父となる男はしみじみと手紙を見つめた。
包んでいる麻布は、丁寧に折り畳まれていて、少女の想いが見て取れる…
「……」
逡巡の末、男は閉じられた麻布をゆっくりと剥がしていった…
中から覗いたのは、四つ折りとなった、一つの紙片であった。
「……」
これを書いたのは、いつだったのだろうか…
幼子にしては、綺麗な文字――
ルシードは、自身のギョロッとした二つの眼が、久しぶりに涙で濡れるのを感じた――
ありがとう だいすき
残された少女の、真っ直ぐな感謝が綴られていた――
約800年後、1940年。
このカティニの森では、第二次世界大戦中、ソビエト軍によるポーランド人捕虜への大量虐殺事件が起こります。
3年後、大量虐殺の現場を発見したナチスドイツがこれを糾弾すると、ソ連側はドイツの仕業だと反論をして、有耶無耶にします。
(真相は1990年、共産党書記長に就任したゴルバチョフ氏が、ソ連側の非を認めた。参考:映画「カティンの森」)
事件から82年後、ロシア軍はウクライナの各地で虐殺を働いたにも関わらず、ウクライナの仕業だと喧伝をしている――
お読みいただきありがとうございました。
感想等、ぜひお寄せください(o*。_。)o
次話より、元の時代に戻ります。




