【101.あの日⑦】
薄暗い地下室で、折り畳んだ三枚の麻布を臀部の下に敷いた二人は、息を潜めて固まって、鼓膜だけを頼りに外の様子を窺っていた――
「用意できたか?」
幾頭もの馬がぶるぶると鼻息を鳴らす中、出発を告げる男の声が二人に届いた。
「ネロたちが行っても、僕たちは残るよ…」
「うん…」
軽率な判断は、命を落とす。
少年の意向を年下の少女は素直に受け入れた。
「そろそろ、出るぞ」
「うぃす」
「へい」
前夜の酒が抜け切っていないらしい。
隊を率いる男への返答は、覇気に乏しいものだった。
「隊長、馬車に乗ったら吐きそうなんで、あっしらは、最後に見回ってから戻りたいんですが…」
「なに? お前らか…仕方ないな。後で報告に来いよ」
「勿論です。隊長」
含みのある会話が聞こえてしばらくすると、馬の蹄が重たそうに土を踏み、荷車の車輪がガラガラッと滑り始める音がした。
「さて、寝るか…」
「寝るの?」
「さすがに動けねえよ。昼過ぎに出ればいいだろ。おやすみ」
「…じゃあ、適当に起こすわ」
「頼む」
呑気な二人の会話が聞こえると、一人の足音がリアとロイズの頭上付近にやってきて、やがて消え去った。
「……」
恐らくは、小さな身体が毎晩眠りに就いていたベッドに転がったのだ。
両親に挟まれて過ごした肌のぬくもりが、思い出となる情景たちが一方的に穢されて、膝を抱えた少女は悔し涙を浮かべるのだった――
「おい」
灰白色の壁の向こう。上方から、突然男の声が響いた。
「あ、はい…」
「できたか?」
「はい」
「よし。そいつを一つずつ、音を立てないように、俺に渡せ」
抑えた声で、指示が飛ぶ。
ネロの母親が、相手に合わせるように低い声となって応じると、やがて刀剣の擦れるカチャっとした音色が、リアとロイズの上方を、何度か移動をしていった。
「助かったよ。水とパンくらいしかねえが、食べな」
「あ、ありがとうございます」
明るさの灯った女性の声が、侵略者に対して感謝を告げた。
「もう少しだから、大人しくしていようね」
「うん…」
母子のそんな会話が為されると、壁の向こうは静かになった――
「おい。そろそろ起きろ」
それから、数時間は経っただろうか。
石床の冷気は変わらずも、ぼんやりとした暖気が午後を告げる中、二人の頭上から男の声が届いた。
「うん?」
「もう、残ってるのは俺たちだけだ。そろそろ行くぞ」
「おう…」
「その前に、ちょっと手伝えよ」
増えた足音が移動して、再びの金属音がやってきた。
母子が拵えた、束ねた刀剣を外に繋いである馬の背中へと運ぶらしい。
「これで、全部か?」
「ああ」
「じゃあ、行くか?」
「いや、ちょっと待っててくれ」
そんな会話が届いた後で、やがて男の声が壁の向こう側へと移動した。
「おい、出れるぞ」
「あ、はい…」
まさか案内されるとは思っていなかったのだろう。
疲労の中にも明るさの宿った女性の声が聞こえると、軍靴の音が三つほど下がった。
「いや、待て。先ずはガキだけだ」
「え…」
男の吐いた一声に、戸惑ったネロの声が確かに聞こえた。
「でも…」
「話があるんだよ」
「……」
「行きなさい…」
母親が促して、躊躇う少年の足音が地階へと上っていった――
「お、おい! ガキが出てきたぞ!?」
「好きにしろ!」
当惑した男の声が頭上で響くと、それに対する大声が、灰白色の壁の向こうから発せられた。
「好きにしろって…どうすんだよ…」
煩わしそうな声色が、やがてネロの足音をかき消した――
「物分かりが良くて、助かるぜ」
壁の向こうから、毒気を含んだ声がやってくる。
「助けてやりてえが…期待はするなよ」
「え…」
「お前らだけ、ここまで生かしてやってんだ。その分だけでも、愉しませてくれよ」
「あ…せめて、あの子だけでも…」
「約束は、できねえな」
続いた鈍い音色は、二人が床に倒れ込むような音だった。
「いや…助けて…」
「お前次第だよ」
二本の腕と一つの頭、踵が抵抗する雑音が、低い位置から生まれ出る。
リアは咄嗟に両耳を塞いで、怯えたように立ち上がり、一番遠くへと急いだ。
ロイズは動きに反応できず、彼女の姿を唖然とした表情で見送るしかなかった――
「ごめんなさい…」
両耳は塞いだままで、小さな身体が壁に頭部を接して蹲る。
聞こえてきたのは、消え入るような慙悔の声であった――
「……」
少年は無言で立ち上がり、リアの方へと足を進めた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
ロイズは身体に巻いていた麻布を剥がすと、背中を丸めるリアの首筋から頭を隠すように被せた。
それでも声が漏れ出るのを認めると、二人が臀部に敷いていた麻布までをも持ってきて、更に上から重ねた――
「いや…痛い…」
「我慢しろ」
「これで…助けてくれる?」
「ああ。殺しはしねえよ」
壁の向こうでは、不気味な擦れるような音色と、男と女の息遣い。時折短い呻き声が響いてくる。
「……」
ロイズもまた、リアに倣って両耳を塞ぐと、膝を屈して壁に背中を押し当てて、次に両膝を抱えて蹲るのだった――
少女の涙は、枯れ果てた。
それでも尚、幾重にも重なった麻布は細かい震えを起こして、くぐもった低い声色が漏れていた。
「……」
耳を塞いでは、リアの声まで消えてしまう。
ロイズは右手の指先を伸ばすと、背中を覆った麻布へと触れてみた。
続いて反応が無いのを確認すると、無言のままで手のひら全部を当ててみた。
「うあ…お願い…助けてね…」
「ああ…」
灰白色の壁の向こうでは、引き続き無力な悲嘆の声が漏れている。
救いを求める女性の声は、二人の願いと等しくて、ロイズの胸中は猛烈に騒いだ――
少年には何がなされているのか分からなかったが、それが本能でおぞましいものである事は自覚した――
恐らくは、隣で震える少女も…
「ご…なさい」
リアの後悔は、ますます深いところに沈んでいく――
危険を察していたにも関わらず、伝える事をしなかった…
実際に踏み出す一歩は重くとも、行為だけなら声帯を震わすだけである――
だからこそ、罪の意識は深いものとなった…
「お前も、行って来いよ」
「お前の後じゃ、気乗りしねえな…」
コトの済んだ男の足音が地階へ戻ると、屋外から会話がやってきて、次なる足音が灰白色の壁の向こう側へと移った。
「ひ…」
やがて、女性の引き攣った声色が、低い位置から届いた。
「安心しろ、楽にしてやる」
「あが…」
金属の高い音が微かに鳴った。短い女性の呻き声。何かが床に崩れる重たい音色が、一回だけ響いた――
「……」
ロイズの感覚も、既に麻痺をしている。
恐らくは、隣で震えるリアの背中には、今の気配は届いていない…
幾らかの安堵を、彼は沈んだ空気の中で、冷静になって灯すのだった――
「なんだ、早かったな」
「もっと、若けりゃあな」
「……」
「昨日の夜に、四人ヤッたしな。お前の後だし、あんなので俺のを汚すこともねえや」
「四人? そういやお前、夜には居なかったな。眠いのは、そのせいかよ」
「まあな。三日後には片付けが来るからな。女は縛って飯だけ置いて、隠しとくんだよ」
「そんなの、逃げるんじゃないのか?」
「歳いってると、どうなるか解ってるからな。逃げるなって言っても、逃げようとするんだ」
「……」
「そんで、見つかって殺されるんだ。アホだぜ。そういや、もう一人いるぜ? やってくか?」
「歳は?」
「11くらいかな」
「ちょっと、若いな」
「そうか? 女にしてやるのがいいんじゃねえか。俺は夜に、もう一回来るぜ」
「…そういや、子供はどうした?」
「殺したに決まってんだろ。どうすんだよ」
「まあ、そりゃそうか…」
「優しいなあ、お前は。あの女は、知らずに死んだだけ、マシだな」
「……」
二人の会話が遠くなると、やがて馬の蹄の足音が、ゆっくりと離れていった――
「……」
久しぶりの、静寂が訪れた。
リアの懺悔は声が掠れるほどに続いていたが、やがて背中の震えも収まった…
心を置き去りにしたまま復調しようとする自身の身体。
彼女の心は深い自己嫌悪に陥った――
「行ったみたいだよ」
「……」
小さな背中に手を触れて、ロイズが優しく声をかけてみる。
ゆっくりと頭が上がって、ダンゴムシのように丸まった背筋を伸ばすと、リアはそのままごろんと床に転がった。
「水…飲む?」
「……」
ロイズの問いかけに、答えは返ってこなかった。
憔悴しきった表情で、琥珀色の瞳だけは空しく天井を見上げている…
乾いた地面で足を閉じる、軽くなったセミの屍のようであった――
「どうしようか…」
「……」
返ってこないと理解しながらも、それでも少年は自身の平静を保つ為に小さな声を発した――
二人きりの夜が過ぎ去って、地下室での三度目の朝を迎えた。
部屋の隅。リアは無言のままで、相変わらず膝を抱えて蹲っていた。
足元には木筒が置いてあったが、乾いているであろう唇に、水分を充てている様子は窺えなかった――
「……」
誰も いなくなった…
昨夜はたった一度だけ、遠くから男の恫喝するような声が耳へと届いた――
咄嗟に少年は、両方の鼓膜を塞いだ――
「……」
風に揺らぐ草木の音と、時折り鳥獣から生まれる不気味な音色が鼓膜に触れる。
きっと野犬の類が血肉の匂いに誘われて、物色しているのだと思考した――
感覚が、鋭くなっている――
迎えが来ると確かに告げられた状況下。
その者を待つと同時に、警戒を怠るわけにもいかない…
徒歩でやってくるのか。馬に乗ってくるのか。
そもそも、本当に迎えは来るのか…
発芽した不安の種が育つ中、外から届く違和感だけは決して逃すまいと、少年は神経を尖らせた――
同時に、地下室にいつまでも留まる訳にはいかないと、呆けたままの少女を眺めながら、ロイズは二人だけでの逃避行を心に宿すのだった――
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