序章 目覚め
自分が自分で在ることに気づいたのは、つい最近だったかもしれない・・・。
じゃあ、いつだったんだろう?
人生の1/4がきた今、桜を目の前にふと考える。
僕の記憶で一番古いのは、大体3歳くらい。
その頃、決して貧乏でも不幸でもなかった。
むしろ、父方は小さいながらもこの小さな町では有名な会社を経営している会長の孫として、
母方は小さな総菜屋だが、3店舗を経営していた店主の孫として生まれて、生活には不自由ではなかったはずだ。
私立の幼稚園に通っていた頃の記憶はわずかながらも鮮明に残っている。
そこで、普通に通園し、普通の生活を送っていた。
小学校に入学する前の冬、人生最初の転機が訪れる・・・
寒い朝だった。
リビングから声がする。
父親のドスの聞いた怒鳴り声と母親のヒステリックな声が聞こえる。
しばらくは寝ぼけていたが、自分が自分で起きたことに気づくと、「いつものように夫婦喧嘩しているんだ」と
判断して止めに入ろうと、リビングに行った。
そして二人はいつものように「ごめんね、起こした?もう1回寝てきなさい。」と、ムチャクチャなことを言うのだろうと思っていた。
その日は違った・・・。
二人は僕を見て、無理やり落ち着かせた声で問いかけてきた。
母が「お父さんとお母さんのどっちと住みたい?」と、いつもに増してムチャクチャなことを言ってきた。
意味が解らない僕に、さらに母が続ける「もう、お父さんとお母さんは別々に暮らすことにしたから」
「何で!?」幼心に疑問が頭をよぎった。今考えても素直で子供らしい意見だ。
そこで妹も起きて来て、母は同じ質問を投げかけた。
妹は当時3歳だった。
いや、わかるはずないだろう!と、さすがの5歳児もツッコミたかったが、母の目は潤んでいる。
妹は何のことかわからないまま、兄である僕と同じ意見を選択した。
その時の僕は、兄として妹の出す答えが一番怖かった・・・。
いつも親は家を留守にしていた。
いつも兄弟で留守番をしていた。
そんな僕たちでも、なんとなくもう父とは会えなくなると察知したので
寂しかった。
もう会えないんだと思った・・・。
今でこそバツ1は珍しい話ではないが、少なくとも当時の自分の中では親と住めないことを
理解できずにいた。
結局、僕は母を選んだ。
妹も同じ意見で母を選んだ。
僕はパジャマのまま、ランドセル1つだけを持って家を出た。
家を出ると同時に1つの家庭からも出る破目になった。
そして、『親を選ぶ』という選択肢がこの世の中に存在することを
初めて知った。
そして、母方の祖母の家で暮らすことになった。
叔母と妹と祖母の4人と母親で暮らすことになんた。
小学校の生活も慣れ、色んな悪さも小学校の生活の中で覚えた。
母はスナックを経営し始めたので週に何回か寝顔を見る程度で、
ご飯や家の中での生活は叔母や祖母がしてくれていた。
小学生のクセにゲームセンター、たばこ、万引き、スリなど窃盗・火遊び・イタズラを繰り返し、
小遣いには、盗ってきたアダルトビデオを販売したりして、調達していたから金には困らなかった。
そんな毎日で、イタズラが日常茶飯事でケンカもしばしばだった。
でも公園でサッカーしたり家でゲームしたりと、わりと普通の遊びの方が多かった。
公園で遊ぶのは好きで、兄弟で学校から帰ると夜の8時までやっていた。
「8時」が祖母とさゆり叔母ちゃんが店を閉めて帰宅する時間で、ご飯はそれからだった。
年下やおとなしい子をいじめたりすることは無かったし友達は多い方だった。
だから弱い者を見ると気になるし、逆に強い者に対し嫌悪感を抱いていた。
そんな中、毎日が楽しかった。
「今日は何をしてやろう!」、「何を潰してやろう!」、「ご飯は何を食べよう?」
そんな毎日。
悪いことであれ、良いことであれ、「したいことをする!」という、
大人にとってはただの悪ガキたちの一人、日ごろの悪事を知らない同級生からしてみればクラスの人気者的存在でいた。
親の目も無く、給食が無い日の昼ごはんは決まって、祖母にお金を貰って外食。
『家庭』とは縁遠い生活の中、荒れていた。
実際、小学4年生までの内申書には悪い生徒として「悪評でいっぱいだった」と、
その後を受け持った先生が話してくれた。
2度目の転機が訪れた。
小学校も高学年になれば、クラブに入らなければならない。
友達と相談した結果、「楽なとこにいこう!」ということに決まった。
その当時、好きだったサッカーはなく友達も少年野球をしていたから、
お遊びのクラブに興味はなかった。
「あった、オセロ・将棋部!」
適当に選んだクラブがこのあと、人生の転機をもたらすとはこの時、予想もしていなかった。
部員4人。
日ごろ、明るく、元気いっぱいで悪いことをする自分達にとって、こんな陰気な空気は初めてだった。
僕ら2人と女子2人。
おまけに先生は教育指導の先生。
今までに何度か捕まっては怒られた、苦手で嫌いな先生だった。
(といっても好きな先生などいない)
そういった意味では、学校の先生や生徒から一目置かれる存在だった。
そして、運悪く、先生と将棋をすることとなった。
「ゲームだったら勝てるかもしれない!」
何の根拠も無しに、心の中ではアツい期待が膨らんだ。
「他に勝てる要素はないが、ゲームなら勝てる!」と決心した。
その結果、勿論 『ボロ負け』。
でも、ケンカで負けた時同様、本気で悔しかった・・・。
しかも嫌いな大人に・・嫌いなあいつに負けたのが・・。
それから、クラブに行く度に先生と勝負した。
「今日はオセロです」なんか言われた日には、「また1週間待つのか!」と思うほど待ち遠しかった。
ある時、先生に言われた。
「何回やっても同じや。違う手を考えろ!」と。
一瞬、頭の中に衝撃が走ったと同時に、「違う手だぁ!?覚えとけよ!!」と
はっきり、自分にだけ聞こえる声で叫んだ。
そして、その衝撃が本気で勝ちたくなるスイッチを押した。
それからは友達と2人、毎日練習した。
没頭した。
短い人生で初めて、何かに夢中になることを覚えた。
その時小学5年生。担任は生涯でも数少ない尊敬できる母親のような存在で
心から慕っていた先生だった。
叱る時も、男女関係なくビンタされたり、全員残され放課後を使ってまで説教されたりと、熱血教師さながらではあるけど、
まるで自分の子供を叱っているかの様な距離で接してくれた。
時には、授業の進み具合、テストの結果、運動会など、クラスの頑張りを評価してイベントもしてくれた。
例えば、映画を借りてきてくれて、他のクラスには内緒でコッソリとみんなで視聴覚室で鑑賞会などしてくれた。
子供の意見にも耳を貸してくれる人で、女子生徒自作の劇なんかも授業中に、発表会としてさせてくれた。
(大抵、そんな出し物は女子の一部がノリノリだったわけだが)
それでも、『楽しんで取り組む』とどんなことも辛くないことを教えてくれた。
情熱的というよりは「愛情的」な先生でこんな擦れた生徒でも叱られることに「情けない、恥ずかしい」と
意識を持ち、みんなの前で褒められることで自信が付いた。
『モチベーションをあげること』や『一人ひとりの個性を引き出すこと』に長けていた人だった。
全員の生徒、一人ひとりの性格に合わせてキャラ付けして、『良いとこ』と『悪いとこ』を明確にした。
本人や周りの人間もそのキャラや癖を知っているため、良い所は、自信が付き率先してするようになり、
悪い所は「本人の自覚と周囲の指摘」で悪い癖が直っていった。
ある時、先生に頼んで休み時間に将棋をさせて欲しいと願い出た。
先生はまだ悪ガキのレッテルが張られた僕らの頼みを「学校の勉強や行事に影響しないなら」と
快く受け入れてくれた。
熱意が伝わったのかは、わからないが「受け入れてくれたこと」に対して感謝した。
とにかく、自分の可能性が開けた気がした。
良い先生と巡り合えたこと自体、自分の人生の転機だったが、
将棋少年はそれどころじゃない・・・。
先生に迷惑をかけない様に5分の休み時間も将棋に打ち込んだ。
挙句の果てには、プロの経営する道場にまで行った。
貧乏な我が家もバス賃と月謝だけは母親が出してくれることになり、隣町まで通っていた。
道場で練習した帰りは、決まって腹が減っていた。
今までカネに困ったことの無い僕にとっては辛かったが悪さをする暇もなくなって、
最低限のカネしか無かったからジュース1本買えば手持ちのカネは尽きてしまう。
ある時はコンビニにある唐揚げを買って、バス代に手を付けたため、
友達の乗るバスの横を走って帰ったこともあった。
友達に言えば、あと100円で足りるということもあって、借りれない額ではない。
けど、それができなかった。
それに、そんな事を「バスと俺ではどっちが早く着くのか?」とも思えた。
そんな 『ポジティブ将棋バカ』は走り続けた。
それでも良かった。それでも楽しかった。
先生から既に『愉しんでやれば苦にならない!』ということを教わっていたからかもしれない。
1年経った・・・。
当然、学年もクラブも変わっている。
しかし、そのころになると他のクラスや先生から「あのクラスはオカシイ!」と囁かれるようになった。
気づけば女子まで将棋をしていた。
そうなると、「このクラスにいて、将棋を指してない子の方がおかしい・・」と、いうぐらいになっていた。
将棋がここまでの現象になると将棋を知らない他のクラスにしてみれば、『カルト的ゲーム』に、
なっていたのだろう。
そのブームを聞きつけて、教育指導の先生が教室を見に来た。
この前会った時は、将棋を教室に持ち込んでいる姿を見られて呼び出された。
将棋は取り上げられ、廊下に立たされていた。
「またお前らか!」と怒鳴られた。
その時も、担任の先生はこの先生を説得してくれた。
「私のクラスでは許可しています。規則の範囲内ですのでこの子達を帰してください。」
先生の意見を鼻で笑って、嫌々ながら釈放された。
その後も「お前らはいつか規則を破る!」と、言い放った。
今回もケチをつけに来たと思ったが、“あの時とは違う”というとこを
見せ付けようと、堂々と笑顔で構えた。
僕を見て、「少しは強くなったのか?勝負するか!」と言ってきた。
それはこちらも望むところ、勝負を受けた。
クラスは凍りついた。
そして、この少年にとっては「名誉を掛けた戦い」でもあった。
クラスのみんなも見守る中、
結果は勿論 『勝ち』。
その時はもう道場から正式に初段と認定されていた。
勝って当たり前ぐらいに思っていたが、勝った瞬間、ホッとしたことを覚えている。
そして、その一戦で『教室内での将棋』を生活指導の先生が公認した瞬間でもあった。
やっと市民権を得た気がした。
それからは他のクラスも、クラスや担任の先生の悪口を言うことも無くなった。
言ったとしても、負け惜しみにしか聞こえなかった。
そして当時、世間は「ふたりっ子」、「羽生善治7冠王」のおかげで将棋ブーム到来。
年下に負ける悔しさも覚えた。
打ち込むことを覚えて、毎日が充実していた。
大人たちも勝負の世界では子供であれ、1人の将棋指しとして接してくれる。
健康ランドに行って将棋をしようものなら、オッサンの人だかりができていた。
母親が探しに来て連れ去ってくれるまで相手をしていた。
そんなとこのゲームセンターよりは安くて楽しいからよくオッサンを捕まえていた。
社会に受け入れられ、悪さを忘れて、良い担任のもと、次第に成績も上がり、
充実した毎日を過ごしていたが、いつの間にか小学校生活とも終わりに近づいた。
「将棋はもうできひんのかな?」
「・・・わからん。やればいいやん!!」
励ましあったのか、お互いの気持ちを確認したかったのかは分からないがごく当たり前の会話をしながら
友達と小学校生活最後の一局の将棋と同時に修了課程を終えた。
満開の桜の如く、期待と憧れを胸にその時一番の笑顔で卒業式を迎え、
散りゆく桜の花びらさえ美しいと思っていた。
舞う桜の花びらも自分達の卒業を祝ってくれているかのようにさえ思っていた。
でもそれが、桜の短い命を表していることとは気づかずにいた。
思い出を一つ一つ確かめながら桜の花びらを踏んで歩いた。
そして、門を抜ける瞬間に迎えてくれたのは、今までに見たことの無い世界だった・・・。
今日までの人生は完全に否定されたかのような毎日が来ることも知らずに・・・。
同時に、自分の人生の『始まり』でもあった。
ここからすべてが始まったのだから・・・。
読んでいただき、ありがとうございました。
これは、あくまでも序章、あらすじです。