毛利老夫妻
まるで空の様に青く、透き通る場所にいた。見下ろせば、何処までも広がる青い海、見上げれば、やはり青い海。一匹の大きな白い魚が、悠然と宙を泳いでいくのが見えた。まるで三日月の様に見えた。
―もう 大丈夫よ
突然声をかけられた。驚いて振り向くと、何処までも白く美しい衣を纏った女性が一人。表情は、よくわからない。笑っている様で、悲しそうで。
―娘を よろしくね
はっと目を覚ました。
木目の天井が視界に飛び込む。平らな天井だ。岩をくりぬいたままの洞穴の天井とは違う、酷く懐かしい文明の天井が見えた。ここはどこだろう。何かに包まれている様で、非常に体が温かい。頭を少し動かしてみれば、驚いたことに、布団の上で寝ていた。布団なんて、もう何年も触っていない。
突然の状況の変化について行けず、混乱する。俺は、何をしていたんだっけ…。体を起こそうとするも、上手く力が入らず、起き上がることもできない。痛みも酷い。酷く衰弱している。
コッコッコッとなる壁掛けの時計が正確に時を刻む音だけが、響く。もうじき午の正刻だ。
暫くぼうっとしていると、嵐の日の出来事が、徐々に鮮明に思い出されてきた。そうだ、俺はあの日、次々に死んでいく仲間を見捨てて、ギュウキに跨がって海へと………。気がつけば、無意識にギリッと歯を食いしばっていた。
全員見捨てた。俺だけが生き残ってしまった。ただ、エンマの息子と言うだけで、生かされた。俺に何の価値があろうというのか。体一つまともに起こすこともできないゴミ屑が、何の為に生きろというのだ。ボロボロと、堪えきれない涙が零れる。やはり、あの日、皆と一緒に死ねば良かった。
アシュラはあの傷だ、助からない。ギュウキも、海に出てすぐに、攻撃された。何で、何で俺なんかだけが生きてるんだよ!
「おぉ、おぉ。目ぇ覚めたんかい。心配したけんのぉ」
ふすまがガラッと開くと、白髪の老人男性が入ってきた。額に角は………ない。人間っ!
「そんな怯えなさんな。ちーっと点滴外すだけじゃけぇ」
怯える俺にその男性は優しげな顔で語りかけると、布団から俺の腕を取り出す。腕には管が刺さっていて、空になった袋に接続していた。慣れた手つきで管についている部品を操作して、外すと中途半端な長さの管だけが腕に残される。
「しばらくは絶対安静じゃけの。別に取って食やぁせん。ここ居りゃぁ安心じゃけん、養生しぃ」
男性はしわくちゃの手で俺の頭を撫でると、涙を拭き取る。ガサガサしてるけど、暖かい。
「…あ………お゛、おれ………」
「三日前じゃっけな?お前さんが海岸で倒れとん、散歩中の母さんが見つけたんよ」
「こっこご………」
「お前さん、島のモンじゃなかろ?江田島って島じゃけ。どっから来たか知らんけど、よぉ生きとったのぉ。頑張ったのぉ」
ヒックヒックと上手く声と言葉にならないのに、男性は頭を撫でながら会話を続けてくれた。
江田島、という島に流れ着いたらしいが、聞いたこともない。子供の頃に瀬戸海の主要な島ぐらいは覚えさせられた物だが、どの辺りなのだろう。
まぁ、それを知ったところで、俺に何ができるわけでもないが
「わしゃ往診あるけんの、ちょっと出るけど、後ですぐ母ちゃん来るけん、安心せぇ」
男性は布団をかけ直して、部屋を後にすると、壁掛けの時計の音だけが響く。人間がいなくなって安心する、はずなのに、胸の辺りが痛くて心細くなる。そう言えば、名前すら聞けなかった。
ここ何年も、いつ人間に殴られるか、殺されるか恐怖に怯えて過ごしてきた。こんなにゆっくり横になれることなんて無かった。一人になれることなんて無かった。なのに、怖い。何がこんなにも怖いというのだろう。みぞおちの辺りが不快なほどに痛くて苦しい。
「…父上……アシュラ……みん…あ……」
必死に堪えようと思うのに、そう思えばそう思うほど、目頭が熱くなる。もう応えてくれない人を想ってしまう。
得体の知れない耐えがたい恐怖に一人で暫く震えていると、男性の言うとおり、一人の背中の曲がった老婆が、お盆を手に持って部屋に入ってきた。人間が怖いと思うのに、不思議と安心する自分がいる。
「心配したんよ。目が覚めて良かったわぁ。気分はどう?」
女性は布団のすぐ横に座ると、左手で手を握って、右手で湿ったタオルで顔や首回りを拭いてくれる。
人間が触るな、と拒絶する気にはなれなかった。不思議と気持ちが落ち着く。心がザワザワと波だって、一人ではもう、どうにもならないかったのだ。何にでも良いから、縋りたかった。
「あの…」
「うん?」
「名前…」
嵐の様に頭の中はグルグル回ってるのに、口からは何故か一言二言しか出てこない。こんなに俺は口下手だっただろうか。
「あぁ、私は毛利 妙子よ。あなたは?」
「…ガルバ…。あの、妙子さん、男の人は………?」
「妙子さんなんて余所余所しいわ。たあちゃんって呼んでくれれば良いのよ。じいちゃんは重治ね。じいちゃんって呼んであげれば良いわ」
「たあちゃん?」
「ウチの孫娘がね、赤ちゃんの頃、妙子おばあちゃんって言えなくて、たあちゃんになったのよぉ。じいちゃんは何か最初からじいちゃんだったんだけどねぇ」
と、ニコニコと優しい笑顔で妙子―たぁちゃんが懐かしい日を思い出す様に目を細めて語る。
「点滴だけじゃあれだから、おかゆ作ってきたからね。起きれる?」
お盆に茶碗が乗っているのが見える。あれが粥なんだろう。粥は食べ慣れた物だ。鬼ヶ島では、ドロドロの薄い米か、豆か、腐りかけの芋なんかを与えられていた。満足な食事なんて無かった。
ぐぐっと力を入れて体を起こそうとしても、やっぱり上手く起きられない。その様子に気がついたのか、たあちゃんは腰に手を回して起きるのを支えてくれると、ようやっと体を起こすことができた。それだけでもうフラフラする。
「いきなり食べるとおなかびっくりしちゃうからね。ゆっくり食べるんよ」
たあちゃんは匙で粥をすくうと少し冷ましてから、口に運んでくれた。病人食だからだろう、味は薄かった。
でも、ちゃんと塩見があって、…美味かった。べちゃべちゃで、そのくせ糊っぽくて、味のない粥ではなかった。暖かくて、米の形が残ってて、美味しかった。本当に美味しかった。美味かったんだ。どうしようもない程に、美味くて…
「う、うぁ、あああぁ………っ!」
二口、三口と食べれば、もう涙も嗚咽も止められなかった。一度決壊してしまえば、際限なく溢れてくる。美味い、安心、辛い、怖い、死にたい。色んな思いがごちゃ混ぜになって、もう、何も分からない。
「ガルバ、よぉ、頑張ったんね。辛かったんね。苦しかったんね、もう大丈夫よ」
泣いて泣いて、泣き崩れて、疲れて眠ってしまうまで、俺は泣いていた。