毒素を含んだプランクトン
毒素を含んだプランクトンがいる。
プランクトン自体に毒があるわけではない。どこかで毒を摂取して、毒持ちになっている。
さすがに、その毒で他の生き物が死ぬことはない。彼らの体が小さすぎて、あまりにも些細な毒だからだ。
プランクトンを食べる小魚がいる。それはプランクトン一つだけではない。まるでご飯をあおって食べるように、多量のプランクトンを食べる。
些細な毒は小魚の体を殺さない。殺せるほどの量ではないからだ。
殺しはしないけれど、侵食はする。蝕んでいく。
小魚を食べる中ぐらいの魚がいる。
些細な毒に蝕まれた魚を食べる魚がいる。
もちろん、一匹では物足りないだろうから、何匹か食べる。
毒に侵食された小魚を食べても、彼らは死なない。
小魚に比べて、彼らの体は大きいからだ。
腹をくだすことはあるかもしれない。魚が腹をくだしたりするのだろうか。知らないけど。
中ぐらいの魚は小魚を食べる度に、些細な毒におかされていく。
中ぐらいの魚を食べる大きな魚がいる。
毒に蝕まれた中ぐらいの魚を大量に食べる大きな魚がいる。
それを次に食べるのは人間だ。
その頃には、些細な毒は人の体調を崩すぐらいの毒に成長している。
まあ、なんというか。
蠱毒に近い発想である喩え話ではある。公害発生のメカニズムとして習った話だったかな。
さしずめうちの一族は、魚なのだろう。
些細な毒という、呪いに体を蝕まれていく魚。
代を重ねる度に毒は強くなり、更に体を蝕む。
この喩え話と違うところがあるとすれば、この喩え話だと人は死ぬのだけれども、今の状況だと人は――この世のものではないものは、それを知った上で喜々として食らうのだ。
謂わば、熟成みたいなものだ。
おいしくおいしく育って実って、それを頂く。
滅んだりしないように、適度に交配して、繁殖させる。
なんだよ。
なんだよ、まるで品種改良されている養殖魚みたいじゃあないか。
「ただいまー」
僕の家には、僕以外誰も住んでいない。だからこそ、ただいまーなんて言葉を聞く機会はここ数年なかった。だからこそ、その声を聞いた時は、少しだけ懐かしくなった。
家の中はお茶の匂いであふれていた。
部屋の角という角に、まるで盛り塩でもするかのようにお茶っ葉の山が置かれている。
こうすれば、この世のものではないものは家の中に侵入してくることはなくなるらしい。最初からこうしておけばよかったんじゃあないか、先祖もこうして匿っておけばよかったのではないかと考えたりしたのだが、これでも、不運であることは変わらないらしい。呪いの効果で、ずっと安全地帯にいることはできない。とのことだ。
「まあ、別に問題ないよ。やしーを狙いに来た一部を倒し続ければ、いつか本体がやってくる。それを退治すれば、もう匿う必要性すらなくなるからね」
姉さんは木製の剣を僕に見せびらかしながら言った。この剣は、この世のものではないものを殺すために、ずっとずっと研究し続けてきたものらしい。
ただいまの声が聞こえてきて、僕は手に持っていたペンを机の上に置いて、自分の部屋からでた。長い長い廊下を歩いて、玄関に向かった。玄関には、引き戸を閉じている姉さんの姿があった。
「おかえり」
「いやあ、中々しっぽをださないね。一部しか姿を見せないよ」
僕が声をかけると、姉さんは振り返っていつものように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
その額からは血が流れていて、よくよく見てみると、服も砂ぼこりだらけでところどころ破れている。
「姉さん」
「なんだい、破れてる服の隙間からみえる腰回りがエロいとでも言うつもり? やしーも男の子だねー」
「座れ」
僕は言った。姉さんは悪戯っぽい笑みを崩さなかったけれど、少しだけ震えたように見えた。
「ええー。なにやしー。年上の姉さんを跪かせたい趣味にでも目覚めたの?」
「別にいいんだぞ。僕の方が背が高いんだ。それに場所的にも、頭には手が届く」
姉さんがいるのは玄関の土間だ。もちろん、土間と玄関口の間には高さが存在する。
僕の首ほどの背丈である姉さんの頭が胸よりも下になっている。それぐらいなら、立ったままでも包帯を巻ける。
姉さんは口を尖らせると、段差に座った。僕は倉庫から救急箱を持ってくると、それを脇に置いて姉さんの頭にある傷口に消毒液をかける。
「いたっ」
「わざと沁みるようにしたからな」
「性格悪いねえ」
「動くなよ。布がズレるから」
不織布を傷口につけて、包帯を頭に強く巻く。姉さんは動くことなく、それを受け入れる。
「なんか言われると思ってたんだけどなー」
包帯の端を結んでいると、姉さんが不意に口にした。その口調はどこか牧歌的だった。僕は返さずに端を両結びで結ぶ。
「怪我するぐらいならやめてくれーとか、僕は姉さんの血なんて見たくないーとかさ、なんだか見捨てられてるみたいで悲しいなー」
「別にやめてくれとは思ってないからな。僕だって死にたくない」
「あ、聞きましたみなさん。この子、男子にあるまじき発言しましたよ。女の子犠牲にしてまで生き延びたいとか言っちゃいましたよこの子」
「僕が聞きたいのはどっちかと言えば、どうして、そこまで頑張るのかって方だな」
「どうして頑張るか?」
「別に、僕ら一族は滅ぶわけではないんだろ。衰退はするけれど、先細りはするけれど、消滅はしない」
衰退するだけだ。
相手だって、安定した食料供給を自分自身で消してしまったりはしないだろう。
姉さんはうちの一族ではない。ただの、座敷童子だ。
戦う理由も、抗う理由も、姉さんにはないはずなのだ。
「それはなんだか、暗に逃げろって言ってるような気がするねえ」
「言ってねえよ」
「んふふー」
「キモい笑い方をするな」
「やっぱりツンデレはいいねえ。不器用なデレっていうのがたまらないって言うか」
「終わったぞ」
「いったぁ!」
スパーン。と減らず口をたたく姉さんの頭を叩いた。
もちろん、傷口がある場所を狙った。手当をした後の母さんのように。
まあ、僕の場合そんなことをして貰ったりする前に母さんは死んでしまったのだけれど。物心がつく前に、死んでしまったのだけれど。
「怪我人は大事に扱うべきだよ。まったくもー……」
頭をさすりながら、姉さんは立ち上がる。振り返って僕の顔を見る。
「どうして頑張るのかって言ったら、そりゃあ私が座敷童子だからだよ」
「座敷童子だから?」
「私は、座敷童子。憑いている家を、一族に、富を与える。幸福にしないといけない。そういう妖怪。だから、やしー達みたいな一族相手は、結構大変だけど、座敷童子冥利に尽きるって話なのさ」
不慮な不遇で不幸な出来事にばかり遭遇して、巻き込まれていく一族。
それを幸せにすることが出来たらば、どれだけ幸せだろうか。
だから、私はやるのさ。
姉さんは姉さんらしく、年上ぶってそう言うのだった。
僕はなにかを言い返したりはしなかった。できなかった。
「いやはやしかし、座敷童子に出ていけっていう人は久しぶりに見たねえ。そんなことを言うの、私が座敷童子だと気づいていない人ぐらいだよ」
「まあ、十七歳の座敷童子なんて信じられないもんな、童子じゃあないもんな」
「そう、私はもう大人の女性なのよ!」
「十二歳以上はババア」
「やしーがロリコンみたいなことを言ってる……」
「もう何百年も存在しているのなら、もうババアだろ」
「私は十七歳。例え何百年存在し続けていたとしても、十七歳」
「見苦しいぞ。それに、僕は出ていけとも逃げろとは言ってない。戦うなら戦えとは言っただけだ。その理由がよく分からなかったから尋ねただけで」
「言い訳する不器用男子。ごちそうさま」
「いてえいてえ、なんで引っ張るんだよ!」
姉さんはおかしそうに笑いながら、僕の耳たぶを指で挟んでぐりぐり引っ張った。
その表情はどこか愛おしいものに触れているようにも見えて、いつもはただ痛いだけのそれも、妙に柔らかな印象があった。
***
引きこもり生活も二週間も過ぎれば慣れてしまうもので、学校に行かない生活にも違和感を覚えなくなってきた。
食事は外に買いに行くことも許されていないから、食料の調達も姉さんがしていて、いつの間にかつくることも姉さんがするようになっていた。
起きて、姉さんがつくった飯を食べて、暇を持て余して、姉さんがつくった飯を食べて、寝る。
なんだか凄くヒモみたいな生活だ。それか自称ミュージシャンみたいな。
どうしようか、アコースティックギターなら倉庫にあったはずだから、取り出してこようかな。
「やめて。なんか私がバカな女みたいに見えるからやめて」
「事実だろ」
「ちょっとお茶っ葉捨ててこようかな。ところで、その指、どうしたの?」
「ギターとってみたら、弦が切れて指を切った」
夜になると姉さんは家に帰ってくる。夜になると『この世のものではないものの一部』の力が増すから逃げることにしているらしいのだ。
昼の、まだ弱い方の頃に倒す。けれども、それは夜と比べたらまだ弱い。というだけであって、別に弱いわけではない。帰ってくる度に姉さんのケガは増えていた。その度に僕は、玄関で救急処置を行う。もちろん僕はその手のプロではない。完璧に治療することなんて不可能で、姉さんの体には日を重ねる度にダメージが蓄積されていった。
「ねえねえやしー。血塗れの美少女っていいと思わない?」
「最高」
「まさか肯定の言葉が出てくるとは思ってなかったよ。まさかやしーにそんな趣味があったなんて、姉さん心配……」
「現実ではゴメンだけどな。毎日毎日玄関を汚されても困る」
「遠回しに私の身を案じてる?」
「直接的に文句言ってるんだよ」
「もー、やしーは本当に素直じゃあないなあ。不器用ツンデレキャラは好きだけど、そろそろ素直に言ってもらいたいなあ」
「僕ピーマン嫌いだから夕飯では抜いといて貰えると助かる」
「今日はピーマンの炒めものにしようかな」
「素直に言えって言ったくせに」
「その意見を受け入れるとは一言も言ってない」
よっと、と姉さんは掛け声をかけて立ち上がる。
包帯はもう結び終えていたから、座れと言ったりはしなかった。
振り返って、僕の顔を見据えるとにかっと姉さんは笑った。その目にうつった僕の顔は、ぶすーっとしているというか、不機嫌そうな顔だった。
「だから、やしーのツンデレな意見も受け入れない。大丈夫、もうちょっとで終わるから。そろそろ、本体の尻尾が掴めそうなんだ」
「……だから、素直に、直接的に文句を言っただけだって」
***
ガリガリガリ、とペンがはしる音がする。
暇をもてあまして描いている絵は、そろそろ六枚目に差しかかろうとしていた。
昔から手先は器用な方で、絵の模写は得意な方だった。最初から構図を決めて描く絵と違って、元からある構図をそのまま写し取る模写は頭を使わなくていい分、気楽でいい。
まあ、今は記憶を頼りに模写を続けているから頭を使っているのだけれど。
六枚目が完成して、僕はそれを机の端に寄せながら、壁にかけてあるアナログ時計を見た。
時刻は夜の十一時。
いつもならば、すでに玄関から姉さんの「ただいまー」という気の抜けた声が聞こえてくるはずなのだが、それは全然聞こえてこなかった。
机の横に置いてある救急箱に手を伸ばすも、相手がいないのだからとその手を引っ込める。
…………。
なんだか、変な感じだ。変な気分だ。
体の中を虫が這い回っているような、そんなイヤな予感。
虫の知らせ。とでも言えばいいのだろうか。いや、多分この使い方は間違っているのだろうけれど。
「ちょっと、見てこようかな」
自分に言い聞かせるように独りごちて、僕は机の前から立ち上がった。
その時、調子がおかしかったことは否定しない。姉さんの姿が見えないことに少しだけ、動揺していたことは認めよう。だから、僕は足元にあった茶葉の山をうっかり崩してしまった。
「あ」
と口にするよりもはやく。
その気配は僕の体を包み込んだ。とても冷たく、冷酷で、おどろおどろしい雰囲気である。そこに存在しないはずなのに黒いもやのようなものが見えたような気さえした。
「っ……!」
僕はそれを振り払って、机の上に置いていたモノを掴むと家の外へと飛び出した。
外は真っ暗だった。
それは多分、夜だからという理由だけではないだろう。