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夢で逃げ切れた兎は現実で狼に捕まる

作者: 結音透環子

 最近、立て続けに同じ夢を視る。

 夢の中で私は兎になっていて、狼に追いかけられている。

 最後は何とか逃げ切って、目が覚める。その繰り返し。

 でも、どうしてそんな夢ばかり、毎日視るのだろう――。


 ◇◇◇


「ふぅ~、終わった~」


 パソコンの電源を落とし、椅子の背に凭れ掛かりながら両手を天井に突き出し、大きく伸びをした。


「もう、こんな時間か」


 少し身体が解れたところで腕時計を見やり、時刻を確認すると、夜の8時を過ぎていた。

 フロアには誰も居ない。私だけ。一人ぼっちでの残業。

 節電のために、明かりは身の回りを照らすデスクライトだけ。


「こんなことになると分かっていたら、車に乗ってくるんだったのに」


 今日の夜は女子会の予定が入っていた。

 当然、アルコールを飲むつもりだったから、車はアパートの駐車場に置いてきた。

 出勤してみると、社員の3分の1が風邪でダウンし欠勤していた。

 そのほかのメンバーも具合が悪そうで、数人が早退し、定時で直ぐに退社していった。

 忙しい繁盛期が終わったところだったから、気が抜けて体調が崩れてしまったのだろう。

 ここ最近、気温の寒暖差も激しかったから、余計に。

 皆同じ条件だというのに、私は元気ではあるのだけど……それで残業を買って出てしまった。

 女子会のメンバーも私以外、体調不良や急な用事で流れてしまっていたから、早く帰る必要もなかった。

 残業手当も出るしと、打算で残った。


「どうやって帰ろうかな……まだバスは走ってるよね」


 タクシーという手もあるけど、できるだけ出費を抑えたい。

 最近、結婚式のオンパレードでご祝儀と会費、それに自分のドレスや靴も新調してしまったから、倹約しなくては。

 偶にはバスに揺られて帰るのもいいかもしれない。

 学生時代を思い出して、若返った気分を味わえるかもしれない。


「よし! 帰ろう」


 呟いたはずが思いの外、声が大きかったみたいで、自分の声が壁に反響してしまった。


「おい! 誰かいるのか!?」

「い、います!」


 帰り支度を済ませて明かりを消してしまった後だったから、通りがかった人が吃驚したみたいだ。


「誰かと思えば、松木まつきか。何してるんだ?」

「残業してた。今、終わって帰るところ。結城ゆうきは?」

「俺も残業してた。で、同じく帰るところ」


 松木と呼ばれたのは私。

 結城とは、同期の間柄。配属部署は違うけど、年も主任という役職は同じだったりする。


「そっちの部署も、風邪が流行ってるんだ」

「健康で得しているのか、そうでないのか……」

「確かに。でも、明日明後日は休みだし、元気で良かったとは思うけど」

「そうだな」


 夜間通用口までは行き先は同じということで、歩きながら世間話をしていた。


「じゃあね」

「どこに行くんだ?」


 バス停に向かって歩いて行こうとしたら、結城に呼び止められた。

 お互い車通勤で、駐車場は隣同士だから、疑問を抱いたのだろう。


「バスで帰る」

「車は?」

「置いてきた。飲みに行く予定だったから」

「送ってってやるよ」


 有り難い申し出だったけど、住んでいる場所を訊くと、反対方向だった。


「遠回りになるからいいよ。疲れた顔をしてるよ? 真っ直ぐ家に帰った方がいいよ」


 世間話している時から気になっていたのだけど、結城の目の下には隈ができていた。

 私も人に気遣えるほど元気でもないけど、少なくとも結城よりはマシだと思う。

 腕時計を見ると、バス停の到着時間が迫っていた。

 この時間を逃すと、次の到着まで1時間も待たなくてはならない。

 乗り遅れたら困る。「おやすみ」と言って前に足を一歩踏み出したところで、結城に腕を掴まれた。


「送ってく。一緒に飯も付き合ってくれ。奢ってやるから、来い!」

「あの、ちょっと……結城!?」


 行くとも返事もしていないのに、結城は構わずに腕を掴んだまま私を駐車場まで引っ張って行く。

 腕を振り払おうと思ったけど、乗る予定だったバスが目の前を通り過ぎて行くのが見え、諦めた。

 家に帰って一人寂しく晩ご飯を食べるよりは、誰かと一緒の方が楽しいかもしれない、そんな思いも駆け巡り、おとなしく付いていった。


 ◇◇◇


 駐車場には、ロイヤルブルーのセダンカーが一台あるだけだった。勿論、結城の車だ。

 到着すると、すぐさま結城は助手席のドアを開けてくれた。

 車内からミントの爽やかな香りが流れてきた。


「食べれない物はあるか?」

「ゲテモノ以外なら何でも食べれる」


 私の返答に満足したのか、結城は「分かった」と言って、半ば強引に私を助手席に中に押し込んだ。

 勢いよく助手席のドアを閉めると、素早く運転席に結城自身も乗り込み、シートベルトを装着するとエンジンを掛け、無言のまま車を走らせた。

 私も慌てて、シートベルトを装着した。


 ――何処に連れて行くつもりなんだろう?


 運転する結城の横顔を覗き見る。

 端正な顔。黒縁のメガネが如何にも真面目そう。

 髪も染めていない。地毛だ。短すぎず、長すぎず、適度に切り揃えてある。

 好青年の見本のような髪形だけど、雰囲気は近寄りがたい。

 今も、話しかけてはいけないオーラを出している。

 同期だけど、プライベートではあまり喋ったことはない。

 だから、こんな風に助手席に乗るような間柄でもなかった。

 今日、初めて結城の車に乗った。しかも助手席に。

 一体、何が起きているというのか。

 ゆっくりと考える暇はなかった。

 都会のように広くはない街だから、車を10分くらい走らせると目的の場所に到着したようで、停車した。


 ◇◇◇


「……口に合わなかったか?」

「美味しいよ。ただ、猫舌だから、あまりの熱さに吃驚しただけ」


 結城が連れてきたのは、釜飯屋だった。

 出来立てほやほやの釜飯は、釜の余熱が充分満たされてて、物凄く熱かった。

 釜の蓋を開けた瞬間、美味しそうな匂いが漂ってきた。

 匂いだけでなく、実際に美味しかったのだけど、空腹だったこともあって、勢いよく口の中に入れてしまったのが良くなかった。

 それで舌が火傷して、ピリピリと痛んで顔を顰めているところを結城に見られてしまった。


「そうか。なら、ゆっくり食ってろ。待っててやるから、ちゃんと味わって食え」


 そう言って、結城は余程お腹が空いていたのか、がつがつと食べ始めた。

 がさつさはなく、気味好い食べ方だった。

 好感の持てる食べ方だった。箸の持ち方も綺麗だった。

 料理は得意ではないけど、こんな風に食べてくれる旦那さんだったら、手料理にも精が出るかもしれない。ふとそう思った。

 私が半分ほど食べたところで、結城はもう完食していた。

 手持無沙汰なのか、結城がこちらをじっと見ているような視線を感じた。

 見られていると思うと、食べづらくてしょうがない。

 変な食べ方をしていないだろうか、そればかりが気になってしまう。

 釜の中はまだ3分の1が残っている。

 気まずさもあるけど、私には量が多かったようでお腹いっぱいになってきてしまった。食べるスピードがだんだんゆっくりになってしまった。


 ――このまま残すのは勿体ないし、頑張れば何とか食べれそうな気もするけど……。


 心の葛藤が結城に伝わってしまったのだろうか。


「此処のはボリュームがあるからな、無理しなくていいぞ。もうお腹いっぱいなんだろ?」

「うん、もうお腹いっぱい。ご馳走様でした……って、あの、結城!?」


 箸を置いて、『残してごめんなさい』と心の中で唱えながら釜の蓋を閉めようとしたら、結城が釜ごと持っていってしまった。


「まだ足りないんだわ。残すのも勿体ないだろ、俺が喰う」


 結城はそう言うと、再び箸を持ってさっさと私の残りを食べてしまった。

 残りではあるけど、釜の中に直接箸を入れて食べていたわけでもない。

 専用の小さいしゃもじで茶碗によそおって食べているから、間接キスにもならないし、残さずに済んで良かったと納得した。恥ずかしがる必要はなかった。

 最初の宣言通り、結城の奢りになった。「無理矢理、つき合わせた礼だ」と言われてしまっては、実際、その通りだったから素直に応じた。


 ◇◇◇


 見慣れた風景が視界に入ってきた。

 このままスムーズに進めば、自宅のアパートまで後5分程で到着する。

 釜飯屋を出て車を走らせてからは、また無言だった。

 でも、あまり気にならなかった。寧ろ、沈黙が心地好かった。

 車に乗っている時は、お喋りするより、車窓から街並みや長閑な景色を眺める方が好きだ。

 見慣れた風景の中に、季節毎に少しだけ変化している、その違いを見つけるのが密かな楽しみだった。

 信号が赤になり、車が一時停車した。


「あっ!」

「どうかしたか?」

「あそこの看板、『冷やしラーメン始めました』に変わったんだな、って」

「もう夏も始まるんだな。結構、この近辺は季節によって街並みの風景が変わるよな。風流があっていいところだな」


 信号が青になり、車が発進すると再び無言になったけど、一時でも共感できる人と時間を過ごせたのが嬉しかった。

 今まで出逢った人達は、同じような場面でも、「ふ~ん」といった気のない返事ばかりだったから。

 まだまだ心地好い時間を味わっていたいような気もしたけど、予定通りアパートの前に到着した。


「送ってくれてありがとう」

「あのさ。最近、ちょっとだけ悩んでいることがあるんだけど……聞いてもらえないか?」


 車は道路の脇に停車すると直ぐに、結城が唐突に話し始めた。


「何?」

「あのさ……最近、同じ夢ばかり視るんだ」

「どんな夢?」

「夢の中で俺は狼になっていて、兎を追いかけてるんだけど、いつも兎には逃げ切られて目が覚める」


 結城はそう言って、自分のシートベルトを外した。

 上半身を少し捻って、私の方に向けた。


「そうなんだ……それで、何を悩んでいるの?」


 私は平静を装いつつ、シートベルトを外そうとしていたら、結城が私の両手を掴んだ。

 シートベルトは外れないまま、まるで拘束されているかのような状態になっている。

 両手も結城の右手一つに纏められて、握り締められている。

 心拍数が一気に跳ね上がった。


「どうしたら、兎を掴まえられると思う? 逃げ切られる前に掴まえたいんだ」

「夢のことだよね? 夢の中で、どうやって掴まえたらいいか言われても私にはさっぱり分からないって。相談に乗れなくて、ごめんね。結城は疲れすぎてるんだよ。早く帰ってゆっくり眠った方がいいって。今度は掴まえられる夢が見れるかもしれないよ?」


 早口で捲し立てながら、握られている手を離そうとぶんぶんと振ってみたけど、ビクともしない。

 心臓の音が煩くらいに、バクバクしている。


「俺、気づいたんだよ。夢だから逃げられるんだって。現実なら、掴まえられるって分かった」

「手、離して――痛っ!?」


 物凄い握力が加わった。指の骨が軋んだような気がした。

 痛いと叫んだのに、更に握力が増した。


「……離さなくていいから、少しだけ力を緩めてくれない?」

「……」


 振り解くことは諦め、身体の力を抜いて無抵抗を示すことで、ようやく力は緩まった。

 試しに少しだけ手に力を入れてみたら、その分、結城の右手の握力が強まった。

 どうあっても手を離す気はない、その意志は伝わった。

 でも、結城が何をしたいのか、さっぱり分からない。

 手を掴んでいるだけ。それ以上、何かをしようとする素振りは見られない。

 一定距離で、私を凝視している。逐一動作を監視するかのように。


「ところで……結城の悩みって、何なの?」

「それなら、もう解決した」

「そう。それは良かった、ね?」

「あぁ」

「じゃあ、もう離し……っ!?」


 結城にとって、「離す」が禁句ワードだということだけは理解できた。

 やっぱり、離す気はないらしい。また握力が増した。

 無抵抗のままなのに、力は緩まらない。


「なぁ」

「何?」

「俺の手……何が何でも解きたいと思うくらい、嫌悪感があるか?」


 結城に訊ねられて、握られている手に意識を向けた。

 改めて見ると、大きな手だなと思った。

 私は手が小さい。片手ひとつで余裕で両手を掴まえられた理由が分かった。

 嫌悪感は……無い。冷え性だから、結城の手が温かくて、気持ちが良い。

 だから、「無い」と答えて首を横に振った。

 すると、「そうか、良かった」と呟くと、結城は安堵の溜息を零した。

 それから、少し沈黙した後、結城は口を開いた。


「ここ1週間、兎を追いかける夢を視てて、何でこんな夢ばかり視るんだろうなって、ずっと疑問に思っていた」


 私も結城と同じように、この1週間、狼に追いかられる夢を視てた。

 そのことに疑問を持っていたけど、結城はまだ続きを言いたそうな感じだったから、敢えて口には出さなかった。


「同じ夢を視るようになった前日に、俺の前を松木が走っていく姿を見かけた。それから、よく松木が俺の前を走っていたり、歩いている姿を見かけて、夢の兎とダブって見えるようになった」


 私は結城が後ろに居ることに全く気付いていなかったけど、結城は私の姿が兎に見えるようになり始め、頭がおかしくなったと悩んでいたらしい。

 逆の立場であれば私も同じように悩んでいたかもしれない。そう思うと、結城が気の毒に思えた。

 でも、私の心臓もおかしなくらいに高鳴り続けていて、気の毒なことになっている。


「その度に、追いかけたくなる衝動に駆られて、これはもう観念するしかないと思った」

「観念?」

「そう。だから、自分の気持ちに正直になろうと決めた」

「何を……決めた、の?」

「掴まえようと、決めた」


 結城の左手も加わった。両手で包み込まれた。

 私の両手は結城の両手に覆われ、逃げる隙間は完全になくなった。

 視線でも捕らわれてしまっていた。結城の瞳は得物を狙うハンターのようだった。

 これは逃げられそうもないなと直感した。


「おとなしく、俺に捕らわれてくれない?」


 今日初めて二人きりで過ごしたけど、一緒に居る時間が心地好かったことを思い出した。

 食べる姿に好感を持てたことも思いだして、綺麗に食べてくれそうかなと、ふと思った。

 手以外の他の場所ににも触れてみたいなと思った。

 きっと、しっかりと抱きしめてくれる。安心できそうな気がする。

 夢の中の兎の私は狼にさっさと掴まえて欲しかった、そう想っていたような気がした。

 多分、最初に出逢った、あの日からずっと――。


 私はゆっくりと首を縦に振って、肯いた。


 ◇◇◇


 ――○○前、4月某日


「全員、クジは引いたか?」

「はい」

「それじゃ、同じ番号同志でペアを組んで、接遇の練習に励め」


 入社式の翌日から、挨拶や敬語、謙譲語の使い方、社会人としての一般常識を学ぶ新人研修が行われた。


「初めまして、結城狼偉ゆうき ろいと申します」

「初めまして、松木美兎まつき みとと申します」


 そこでペアを組んだのが、結城だった。

 きっと、その時からわたしゆうきにロックオンされていたのかもしれない……。

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