式神使い対談
渡来良夫は暇な時、尚且つ周りに誰もいない時、しばしばいつも持ち歩いている瓶詰めの『チップ』を手に取り、眺める。手の中で転がし、変化するはずの無い『チップ』一つ一つをぼんやりと観察する。しかしそれ以上のことはしない。
良夫はいつかこの瓶の蓋を開けねばならないと考えている。思い立てばすぐにでも蓋を開け『チップ』に立ち向かえるよう瓶詰めにして常に手元に置いているのだ。しかし同時に、そんな日はそう簡単には、下手をすれば一生来ないのではないかとも思っている。免罪符なのだ、瓶詰めにして持ち歩くことで「一応毎日努力はしていますよ」と不甲斐ない己を責める声をやり過ごしているのだ。
そしていつも通り、自分を取り巻く何もかもが馬鹿馬鹿しくなり始めてから、「フッ」とニヒルを気取って鼻で小さく笑いながらその瓶を懐に仕舞う。自分が如何に愚かなのかを今更思い返しても仕方がない。良夫は過去から逃げるようにポケットからスマートフォンを取り出し、画面に指を滑らせる。新しい情報を確認するためいつも閲覧しているホームページに飛ぶ。
国際ヴァンパイアハンター共闘ギルドの日本語版ホームページ。一般向けのページには世界のヴァンパイアによる被害が一日毎に更新される(――実際にヴァンパイアによる被害が起こるのは本当に稀だが)。しかし現在の大阪は『警戒レベル3』に突入しているのでほぼ数時間単位で(被害が有ろうが無かろうが)情報が上書きされる。劇的な状況の推移がない事を確認してからBBSも見ておこうかと思った矢先、不意に声を掛けられた。画面から顔を上げると一人の男がすぐ目の前に立っていたので少し驚いた。
「気配を消しながら近付かないで下さいよぉ、吃驚するじゃないですか」
苦笑いしながらその男、『yayata』の顔を見上げるとそれが少し強張っている事に気付いた。遂に『目標』を見つけたのかと勘繰り良夫は身構えたが『yayata』は少し横に移動し、遮っていた良夫の視界を開く。
ここは大阪市の中心地、ビルがひしめく街並みに何故か谷底みたいに存在する安アパートの一部屋程の狭い公園のベンチに腰掛けた良夫が見たものは、街灯に照らされた、大雨が来る直前の空みたいな黒に近い灰色のフード付きマントを羽織った少女だった。フードを被っていて顔は見て取れなかったが、マント越しの華奢な身体のラインと背丈で『少女』と認識するには十分だった。
人物はゆっくり近づきながらフードを取る。その瞬間良夫は思わず息を飲んだ。その人物はやはり少女、年齢的には良夫のひと回り下、十代中盤か後半くらいだろうか、驚くほどの美少女だった。美しいセミロングの黒髪に縁取られた白い肌に、この年頃の少女独特の気高さを宿した少し釣り上がった意志の強そうな瞳。形の良い鼻ときつく結んだ桃色の唇の柔らかな凹凸が見る者を、つまり良夫を魅了した。しかし同時に思う、この娘も少し緊張しているのではないか?
緊張を孕んだキツい眼付きで良夫を見据える少女は、やはり緊張した、しかし気品と強い信念を感じさせる口調で良夫に問うた。
「あなたが、先日の献血車襲撃事件の主犯ですか?」
良夫は、心臓を鷲掴みにされる思いがした。不穏な予感に対する緊張ではない、それは逃げようのない現実から自分を脅かしに来た者なのだ。
一瞬言葉を失った良夫に、『yayata』がそっと耳打ちをした。
「『グッドマン』さん、確証は無いですけどその子多分『式神使い』ですよ」
……良夫は最近しばしば考える、どこで逸脱してしまったのかと。吸血鬼に惹かれた時点か、吸血鬼研究をネット上で披露した時点か、他人の眼を気にしなくなった時点か。或いはもっと根源的な時点、イタリア料理の女性料理人に恋をしてしまった時点で自身の人生の破綻が始まっていたのではないのか? それならば、自分の総てが絶望に充ち溢れ過ぎていて逆に諦めが付くと思える。受け入れがたくても、人生は流転するのだ。
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落ち着いた場所で話がしたい、ということで連れ込まれたのが恐ろしく高級そうな料亭である。大通りから横道に入った細道の先、雑居ビルを丸々一つ改装したらしい清潔感がありた気品漂わす外装。純和風の意匠細かな店の中へ堂々と入る少女の後におっかなびっくり付いて行く。通された個室の上座に座るように促され、モダンな黒いテーブルの脇に敷かれた座布団に座る。胡散臭い風体――ゴムで纏める程に無駄に長い天然パーマの髪に落ち窪んだ目に鷲っ鼻という無駄に凹凸の激しい不気味な顔、服装は肩に詰め物が入っているらしい黒のコートに黒のスラックスと異様にフリルの多いYシャツ。ショルダーバッグに加え何故か夜中なのに黒い日傘を持ち歩いている――の三十路直前の男とどう見ても成人していない少女のたった二人にこんな広い部屋を宛がう高級料亭の豪胆さと、座布団のクッションの厚さに少し感動してしまう。
少女は店員が襖を閉めて出て行くなり羽織ったマントを脱ぎ、壁に吊られたハンガーにそれを掛けた。マントの下の服装は長袖の深緑色のポロシャツと黒のジーンズ。飾り気は無いが少女の整ったボディラインを際立たるタイトなファッションであり『未発達な色香』とかそういう下衆な常套句が良夫の頭の中をちらつき困らせた。少女は良夫の逃げ道を塞ぐように良夫の真正面の席に正座し、どこからともなく取り出した一枚のカードをテーブル越しに両手で差し出した。良夫は思わず反射的に両手で受取りそれを見る。
一級魔術師 過去視術専門家 柩野石乃
Ishino Hithugino
名刺らしかった。
「柩野……、石乃さん」
一応名前を読んでみる。物々しい名前である。本名なのだろうか?
「はい、魔術師をさせていただいています。よろしくお願いします」
少女魔術師柩野石乃は謙遜している風は殆んど無く、毅然と答える。
「オレは渡来良夫です。総菜屋の契約社員として働いている。申し訳ないけど名刺は持っていない」
自己紹介し返すと石乃は一瞬訝しむ様な顔をしてから黙って頷いた。多少自虐ネタを盛り込んだつもりだが完全にスルーされたらしい。軽く死にたくなった。
目の前の少女、石乃が魔法使いである事は確認できた。『yayata』も『感知』していたので間違いはないだろう。……しかし今良夫が一番気にしている事、それはこの店の支払いを誰がどうするかだった。まさか全額明らかに年長者である自分が払わねばならないのだろうか? いや、あちらが勝手に連れて来たのだ、おそらく全額この少女が払うのだろう。しかしそれも何か気が引ける。気が引ける反面「なら割り勘なのか?」と問われるとそれも不可能なように思える。一人分の食事代だけでもファミレスで四・五人に奢る位の代金になるのではないだろうか? ……ただでさえ今回の一件で、良夫の自業自得とは言え身を削るような出費を重ねていた。現状、金の事など気にしている場合ではないのだろうけれど、良夫にはそれが気になって仕方がなかった。どうせ高額ならどの程度のものか知って早く覚悟を決めたい。しかしこの部屋にはメニューすら置かれていないのだ。それが余計に良夫の不安を掻き立てる。
「黙って付いて来てもらえたということはわたしの話を聞くつもりがあると考えさせてもらいます。ですが一つ約束してください」
良夫の内情など知ってか知らずか、石乃はおもむろに自身の右手に嵌められたブレスレットを外し、テーブルの真ん中に置いた。
重苦しい空気に満ちた和室にテーブルとそれが接触するこん、という音は厭にはっきり響いた。
「これ……、タリスマン?」
良夫は思わず呟いた。
装飾品のように身体に身に付ける類のタリスマンは魔力版の増幅装置とでも言えばいいだろうか。人間の体内に流れる純度の高過ぎる魔力を、魔法構築に丁度良い濃度まで引き延ばして膨れ上がらせる命令が刻み込まれている魔法の品である。物理学で言われている『増幅』とは少々意味合いが違うが、魔法使いが魔法を使う際意識的に行う『純度の調整』の術法をかなり簡略化できるため魔力を節約でき、結果的に少量の魔力で強力な魔法を使う手助けをしている。
「十分な武装解除とは言えませんがこの部屋に居る間は外しておきます。あなたに敵対する気はないという意思表示のつもりです」
タリスマンには銀製らしい本体に複数のサファイアらしき宝石が複数個散りばめられたかなり凝った細工が施されている。一部の宝石には刻み込まれた術法命令を半永久的に記憶する性質があるとか。恐ろしく高価そうだ。
「ですから隣りの部屋に待機している吸血鬼達にわたしを襲わないように命令して下さい」
初めて生で見るタリスマンに(ミリオタ的な意味で)目を奪われている隙に放たれた石乃の言葉に、良夫は話の意味を十分に理解し切らないまま驚いて顔を上げた。吸血鬼達って『yayata』さん達のことだよな? 隣りの部屋に? 居るの? 付いて来たの? えっ、あの人達お金とか大丈夫なの?
石乃から不意に明かされた事実により良夫は混乱して左右の壁を無意味に見渡しそうになったが寸での所で押し止まった。
「いやあの、ちょっと待って。そもそも隣りの部屋の人達は吸血鬼じゃないから!」
何を馬鹿な事を言っているのか、とでも言いたげな怪訝な表情を石乃が向けてきた、ように良夫には思えた。
「……隣りの三人の『魔力の質』は明らかに吸血鬼特有の物ですが?」
何らかの魔的な力を扱う存在からは指向の無い魔力が漏れ出て、他の魔力を持つ近距離の相手に干渉しようとする現象が起こるらしい。双方お互いを感じ取れる以外の影響を与えあう事は無いがそれを用いてお互いの存在や魔力の性質を認識する事ができる(それをわからなくするテクニックもあるらしいが)。因みに『yayata』が石乃を『式神使い』だと称したのはその『魔力の質』を感じ取ったからだ。つまり同様に石乃も『yayata』や他の仲間達の魔力を知覚した事になる。
「あああ、あの人達は特異体質なんだ。生まれつき吸血鬼と同じ魔力の質を持っているっていうレアな人達で」
「そういう人も存在する可能性があるという学説は聞いた事があります。確か双子でない兄弟が全く同じ遺伝子配列になる可能性よりやや高い程度だとか。その話を本気で信じろと?」
「まぁ、その、事実は小説より奇なりと申しまして……」
良夫は、自分がもし石乃の立場ならその場でぶん殴るだろうと確信できる言葉を用いた。それでも、意地でも認める訳にはいかない。そうでないと、大阪は。
「武装に関して補足するなら、外套の中に聖水も用意しています。そこまで仰るなら一瓶ほどぶちまけて」
「いやいやいや、ちょっと待って!」
物凄く迅速に反応してしまった。
「ええと、それはお店の人に迷惑が掛っちゃうから、止めよう、ね?」
渡来良夫という一匹の道化の顔を石乃は睨みつける様にじっと見据える。
ハッキリ言って隣りの部屋に居る(らしい)ネットで知り合った三人の仲間達は吸血鬼である。それが警戒レベル3の大阪で発見されるという事は重大な意味を持つ。彼ら三人の安全、どころの話ではない。それ以上に、それを発見した『魔法使い』が退治や通報をするでもなく料亭になど連れて来るなどどう考えても普通ではない。何か別の意図がある。しかしそれが何か分からない限り是が非でも仲間が吸血鬼だと認める訳にはいかない。他人に暴かれるならまだ諦めも付くが、すんなりと自分から認めるという選択肢は、無い。
良夫は落ち着きを装い「皆が吸血鬼かどうかはともかく、取り敢えず停戦には応じる」と白々しさに溢れる言葉を添えつつ、コートの懐からスマートフォンを取り出し、電話する。
「もしもし、yayataさん? ――あ、はい大丈夫です。今皆さん隣りの部屋に居ますよね、料亭の。――はは、ええ、まぁ。――ああ、どうもその辺はよくわからないんです。どうも他に考えがあるらしいというか。――その、式神使いの方はどうも話し合いがしたいだけなのでよっぽどのことがない限り手出しをしないようにして欲しいんですが……。――いやいやいやいや、そうなんですけどね、話し合いのルールみたいなものがあるじゃないですか。あっちが手を出さない代わりにこっちも約束する、みたいな。――はいはい、そうですね。――いや、そんな大したもんじゃないですよ。――はい、よろしくお願いします。
あっ、ところで『煩ホル』さんもそこに居ますかね? ――えっ、居ない? ――ええ、そういう手筈でしたけど。――でもそれは不味いですよ。今フォローできないですし深追いしちゃうと……。――はい、合流するように伝えといてもらえませんかね? ――はい、よろしくお願いします。ではー」
電話を切った。
「あのー、一応誤解しない様に言っとくけれどその……、隣りの人達はただネットで知り合った、まぁ友達であって、別に部下とかそういう関係じゃないから」
良夫は先程石乃が言った『命令して下さい』という言い回しが今頃になって気になり、注釈を入れた。誤解を解いておかないと自分のせいで巻き込まれたと言っても過言でもないSNS仲間達に後ろめたい気がした。
「……でも『煩ホル』って本名じゃないですよね?」
石乃は凛とした眼差しを猜疑心で鋭く尖らせ良夫に突き付けている様に見える。
「ああ、まぁ……」
「名前で縛っているじゃないですか」
「いや、それはハンドルネームで」
……ていうかこの娘、自分が『煩ホル』さんを式神にしていると思っているのか!? 良夫は一級魔術師を名乗る少女の壮大な勘違いに驚愕した。
『名前で縛る』という行為は古い呪術の一種で、名前の無い存在、あるいは別の名前がある存在に新しい名前を付けることによってその在り様や役割を固定化して強要する手助けにする、という物。魔物や霊的な存在を式神として使役する場合にしばしば手綱のような役割で利用される手段の一つだ。式神としての新たな名前を与えれば、式神としての役割が固定化されるのだ。
無論、良夫はマニアの予備知識程度にしか知識を持っておらずそのための命令がどうのとか術式がどうのという専門的な話は全く理解できないし隣りに居るネット上で知り合った三人を式神として使役しているなんてこともあり得ない。良夫はすぐさまそれを石乃に説明したが、少女の表情からは過剰な猜疑心は消え去らなかった。まぁ、吸血鬼だと疑っている所までは正解なのでややこしいのだが。
取り敢えずタリスマンはテーブルから離れた場所、右側の壁際に置かれた。「あなたも何か武器はありませんか」と石乃に訊かれた時、良夫は常備している日傘を渡そうかと思ったが、また変な風に思われそうなので止めておいた。実際武器と呼べるのかも微妙だし。
「……あなたは本当にただの人間なんですね?」
良夫への疑いが消えないらしい石乃は改めて確認するように訊ねる。良夫は「ただの人間じゃなきゃオレは一体何者なんだ」と言ってやりたかったが、そんなヤケクソみたいな事を言っても事態は好転しないように思えた。
「では、何か特殊なお香や薬草みたいなものを使用してはいませんか?」
「いいや、使ってない。どうして?」
「微かにですが、一種の魔法薬に似た、薫る様な魔力を感じたので」
「いや……、一応風呂にはちゃんと入ってるつもりだけどね」
「いえ、そういう事言っている訳ではありません」
良夫の軽口はきっぱりと撃墜される。相手が軽口かどうか判別できているかは不明だが。しかし薫る様な魔力? 良夫は勿論魔法使いではないし魔法薬など持ってはいない。全く見当が付かなかった。そもそも魔力というのは薫るモノなのか? 汗の匂いか何かじゃないだろうか?
「うーん、もしかしてオレを式神使いか何かだと疑っている理由って、その薬草っぽい匂いのせい?」
「違います」
その一言で石乃は、改めて張りつめた表情を作った。
「先ず、一つ確認したいことがあります。あなた方が現状の大阪に居る理由をお聞かせ下さい? 何をなさっているのですか?」
「それを訊くって事は、君の目的はオレの仲間の退治ではないってことだね? いや、勿論隣りの部屋の人達は吸血鬼じゃないんだけれど」
「あなたの返答に依ります」
「でも今は停戦中でしょ?」
お互いに睨み合う二人。狭い和室は非常に重苦しい空気に支配されている。良夫は奥歯の震えを見破られないようにするために気持ちの悪い引きつり笑顔を作っていた。謎めいた不敵キャラを演じているつもりだったが、震えを抑える為に物凄い強張ったものになっているのが自分でもわかった。
……今の大阪は大変な非常事態の真っただ中だ。そして自分達がその渦中の災厄の種であることは良夫も十分承知している。府やヴァンパイアハンターギルド、そして魔法使い達がどういう思考で動いているのか正確に予想できない。最悪、自分達だけで大阪から脱出するという酷いケースまで想定している。
「……近年の献血車は吸血鬼による襲撃を懸念して日没後には一切移動・活動をしないことになっています」
石乃は良夫との睨み合いから眼を逸らして棄権して、ちょっと諦めたように話を始める。
「しかし先日の襲撃事件が発生したのは日中、大阪府内の高速道路と交差する公道です。その場所は交通量も少なく高速道路によって丁度影になっている場所で犯人達全員肌を見せない黒ずくめ。献血車に吸血鬼を賛美する文言が書かれた紙を複数枚貼り付けつつ車内の血液を強奪、その後窓ガラスを黒い布か何かで覆ったナンバープレートを隠したバンで逃亡」
「それって吸血鬼狂信者のテロだとかニュースで言っていた気がするけど? オレ達に繋
がる理由が分からない」
「手際が良過ぎます」
良夫は心の中で絶句した。なるほど、それが彼女を自分達に結びつけた切っ掛けか。しかし、それは色々と、凄く不味くないのか?
「道の真ん中で倒れた振りをして献血車を止めて、隠れていた一人と倒れていた一人が銃で、――と言ってもそれはモデルガンでしたが、それで運転手を脅し裏のドアを開けさせ、更に隠れていた二人の内一人は車に乗り込み血液を奪いもう一人が紙を張る。それから釘でタイヤに穴を開けてからバンで逃げるまで二分掛っていません。これはただ騒ぎを起こして悦に浸るような手合いの犯行とは違う。絶対に失敗できないという意思を感じます。
更に決定的なのが身体の動きの速さです。献血車に備え付けられていた監視カメラを見ると身のこなしがそれほど洗練されている訳ではないのにスピードは眼で追うのがやっとと思えるくらい。まるで人間では無いかのようでした」
「ちょっと待って」
良夫の背中には今とめどなく冷や汗が流れていた。どうしてもハッキリさせなければならない大問題が浮上した。
「それってつまり、あの献血車襲撃事件の犯人は吸血鬼だ、って言いたいんだよね?」
「そうです」
「それは、君独自の結論?」
「いいえ」
「……というと、他に誰が?」
「府警および府庁の一部、それから日本魔術協会大阪支部の」
「ちょま……!」
良夫は思わず叫びそうになったが寸前で押し止めた。そして今度はトーンを落として話をしようとするが、どうしても声の震えは止められなかった。
「それは明らかに『幾重もの悪手』の手口じゃない。『警戒レベル3』の地域でそんな事件が起これば間違いなく『警戒レベル4』に突入するよね?」
「対吸血鬼における警戒レベルの設定は飽くまでVハン(国際ヴァンパイアハンター共闘ギルドの略称。ヴァンパイアハンターそのものを指す場合もある)が行うものです。そして地元での情報収集能力は府や管理機構(こちらは日本魔術管理機構)に若干のアドバンテージがあります」
「うわ」
良夫は思わず喘いだ。
「それって、揉み消したってこと?」
石乃はその美しい唇を強く結んで頷いた。
現状の大阪に関する補足説明が必要だろう。
この二ヶ月の間に、大阪市内において五人の人間が吸血鬼によって『捕食』された。最初の二人は民間人。後の三人は返り討ちにあったヴァンパイアハンターだ。
人類と吸血鬼が『共存』の道を進み始めた近代以降、吸血鬼達は表立って人類を襲う事は激減し、有力な吸血鬼達を中心に国・個人単位と協定を結び献血によって定期的に血液を供給させるシステムを作り出していった(誇り高い種族と言われていた吸血鬼達がここまで人類に対して歩み寄りを見せた理由には諸説あるが、最大の理由は人類総体の戦闘能力の大幅な向上にあると言われている。具体的には工業の近代化による兵器の発達と、西洋と東洋、更には当時の欧米の植民地地域における土着の呪術を合成した『近代魔法』の発達がそれである)。それでも生きた人間を直接捕食する吸血鬼はゼロにはならなかったがそういう連中の大部分は自制の利かない格下で、古い時代から脈々と技術を受け継いできたヴァンパイアハンター達の手で速やかに退治されるシステムも強固になりつつあった。
吸血鬼というのは上下関係が人間よりハッキリしているという。自身が直接吸血鬼や食人鬼に変えた相手に対しては絶大な支配力(前者は師弟に近く後者は操り人形に近い、と言われている)を持っているし、魔力や戦闘能力の差も人間の場合よりも遥かに重要視される。何らかの理由で『親の吸血鬼』の支配を逃れた下流吸血鬼達でさえ、強力な他の吸血鬼達を恐れ、人間を襲うにしても彼らの顔色を見ながら本気で自分達に制裁を加えようとするギリギリを見定めながら暴れるしかないのだ。吸血鬼による吸血鬼に対する制裁が行われる基準、実はそれは実に曖昧だが(高位の吸血鬼の気分次第としか言いようがない)、一つだけハッキリとした境界線がある。それはヴァンパイア・ハザードの警戒レバルだ。一定地域における警戒レベルを4――即ち、特定地域に於いて一人以上の人間が吸血鬼もしくは食人鬼に変質させられた場合――に突入させた吸血鬼には確実に同族からの制裁が加えられる(ことになっている)。それは東西の冷戦終結直後に国連と有力な吸血鬼達との間で結ばれた『ノヴォシビルクス異種族間友好条約』に明記されている。高位吸血鬼達がこの条約を実際本当に守る気があるのかどうかは専門家の間でも意見が分かれているが、高位吸血鬼達が公式の場で人間と交わした約束、調子に乗ってポコポコ下僕こしらえている馬鹿にはお灸を据えるぞという宣言は人間が思うよりも強力な抑止力となるらしい。
蜜月時代、とさえ呼ばれている人類と吸血鬼が表面上友好関係を結んでいる現代だが、これには一つ大きな落とし穴がある。それは、他の吸血鬼を恐れる必要がない程の強力でかつ恐れる自制心が無い吸血鬼が無差別に人間を襲い始める事態を予防出来ないという事だ。今、大阪で起こっている事が正にこれである。
人類に害をなす吸血鬼を退治するための組織、国際ヴァンパイアハンター共闘ギルドの役割、というか自らに課した使命は勿論『有害な吸血鬼の早期駆逐』と『ヴァンパイアハンターの地位向上』にあるが、もう一つ重大な役割を持っている。各地域における吸血鬼警戒レベルの設定だ。レベルは1~4まで用意されており、現在大阪はレベル3。『ヴァンパイアハンターが複数人返り討ちに遭う』という条件を満たした事でレベル3に格上げされた。そしてレベル4が先程も説明した『人間の吸血鬼化もしくは食人鬼化』が確認された場合。これが意味するものは高位吸血鬼の制裁だけに留まらない。国連軍の介入である。国連軍の対吸血鬼専門部隊が御抱えのヴァンパイアハンターやメイガス級・ロウヤー級の魔法使いまで投入して一定地域を包囲、ほぼ虱潰しに近い形で吸血鬼および食人鬼を駆除する。その際その地域には厳戒令が敷かれ住民達は厳密な判別検査(吸血鬼か否かの判別)の末強制退去させられる。暗に、逃げ遅れた人間はその後の戦闘に巻き込まれても一切の保障とは無縁であるという意味も示している。
今現在、大阪市に住む人々あるいは働く人々、いやそれ以上に恐らく日本国民の大部分がこの警戒レベル4突入を恐れている。それは皮肉にも吸血鬼の増殖以上に国連軍の介入に対しての恐怖だ。吸血鬼および食人鬼が完全に退治されたと確認されるまで何時解かれるのかわからない厳戒令によって大阪は完全に機能停止となり、大阪市の住人の大部分が避難を余儀なくされる。それは国際法上不可避な事態で、それによる大阪および日本が被る経済的ダメージは計り知れないものだと予想されている。