デストラクション・トリガー
不可視の結界に覆われた箱庭にそびえる高層ビル街は、限られた空間内に設置された楽園の住人たちの生活空間である。
その一角、一般人の居住区画とは少し離れた位置に建築されているのが、都市の行政を司る公人の職場だった。
都市全てを見渡せるほどの壮大な建築物の最上階に位置する市長室に座する男は、秘書の女性から報告を受けているところである。
地下に位置する研究区画で引き起こされた事件を一通り聞き終えた市長は、全身を巡る疲労感に頭を抱えながら呟いた。
「デュアルが離反したか。あの博士も、随分な置き土産をしてくれたものだ」
「申し訳ありません。処分する前に対策を聞き出しておくべきでした」
淡々と告げる秘書の顔色は、返答の内容程に焦燥したものではない。
事務的な対応に勤めるその姿は、今日に至るまでの職務への忠実さを如実に示していた。
だがそれでも、言葉の端に緊張の色を読み取れる程度には動じていることに気付き、市長はほんの僅かながら落ち着きを取り戻す。
「どの道、馬鹿正直に答える男でもなかったろう。それよりは目先の問題をどうするかだ」
デュアルという存在の反乱は、限られた空間の内にのみ生活する今の人類にとって軽視できない問題である。
広域型次元障壁によって周囲を覆われた都市は、外敵からの侵入に対しては絶対的な防御力を誇るものの、ひとたびその内側に敵性存在が現れた場合、今度は逆に逃走経路を遮る絶壁として立ちはだかるのである。
研究を進めるに当たって想定できない問題では無かったが、それでも人類そのもの生存の危機という事態は、リスクを回避する為の手段に対する認識の甘さを生んだと誹られても、反論の余地も無いだろう。
「実弾兵器は通用せず、隔壁による阻害も無意味だという報告が上がっています。情報が錯綜していて、正確なものかは判断が難しいところですが」
断定情報として伝えないのは、秘書自身にもある種の希望的観測があることの顕れだろう。
そう感じた市長はその内なる思いに同調しつつも、それを素直に受け入れてしまうことの愚を犯さない程度の分別は持ち合わせていた。
「現在まで排除できない事実がある以上、従来の防衛機能では足止めにもならんのだろう。現時刻をもって対象を高次元体と認定、待機させていた次元変異体及び、対高次元体用の装備の使用を許可する」
ここに至って何の手も打っていなかった訳では無いのだと、それは自分自身に言い聞かせる為の意味合いの強いものであったが、考え得る手段の全てを講じることで後悔を残さない選択をする以外に、市長が取るべき道はない。
その彼の指示に対して、表情こそ変えないままに秘書は言葉を返した。
「そのことですが、研究区画から不確定要素の報告が来ています。高次元体に連なる者同士でのみ成立する情報伝達が行われている痕跡があり、デュアルとの戦闘に影響が出る恐れがあると」
驚愕を表情に現さなかっただけ、市長は冷静であった。
同時に、思わず言葉を詰まらせてしまう程度には動揺を覚えてもいた。
自身の聞き間違いであることを若干期待しながら胸中で告げられた台詞を反芻しながら、それでも現実が変わらないことに軽い絶望感を覚えながら、要点をまとめ終えた市長は確認の為に問い返す。
「……奴に感化されて裏切る可能性がある、と言うことか?」
「可能性が無いとも言い切れません。不可欠な行いとは言え、我々は彼らを実験動物にしていたようなものですから」
秘書の表情が、僅かに嫌悪感に歪んだのを市長は見逃さなかった。
同時に、それも無理も無いことだと納得するだけの行いがなされていたのだということを、彼は自覚する。
その上で、感情を押し殺してでも正論を告げるのが、上に立つ者の務めであると結論付ける。
「甘いな、君は。しかしその懸念は正しいだろう……物理的な手段で足止め出来ないのなら、対処方法を相手に合わせる以外にあるまい」
自身の動揺を悟られたことを恥じながらも、秘書は市長の言葉の意味するところを察した様子である。
真っ直ぐに相手を見据え直したその表情には、既に感情の色を伺うことは出来ない。
「次元障壁による隔離、ですか? しかし都市を覆う広域型の展開に電力の大半を割いている現状では、動力の確保が困難です」
「都市部の電源の一部を回すしか無かろう。今ここでデュアルの居る区画を万が一にでも失うことがあれば、我々は高次元体への対抗手段そのものを喪失してしまう」
それが最善の判断であるとは市長も思っていなかったが、現状に於いて最も効果的かつ実現可能な対策として提示できるのがその辺りだろうと、彼は判断せざるを得なかったのである。
そのことによって起きる実害は決して小さなものではないと言うのは、秘書もまた認識している事柄である。
それを差し置いてでも実行しなければならないか、判断を下すのに多くの時間を掛けられないことを理解してる彼女は渋々という様子ながらも、首を盾に振るしかなかったようだ。
「……分かりました。緊急事態の非常手段として通達し、住民に対する説明は、事後報告という形で調整します」
「任せる。それで……デュアルの目的は何なのか、掴めているのか?」
コミュニケーションの取れない相手であるという報告も受けていた市長は、現状で最も不明瞭な点を口にする。
こちらからの呼びかけに答えず制止する様子も見せなかったことから発砲に至るまでになった、その流れを聞いている中でも相手との妥協点を見出すことが出来なかったからだ。
それは秘書も同様であり、自らの考察も交えた上で返答する。
「不明です。ただ、機密区画の中を迷った様子も無く進んでいることから、高次元体の技術や資料、もしくは次元変異体そのものを目的としている可能性があるとの報告が上がりました」
「他のスタッフに内通者が居る可能性は?」
今なお何者かがデュアルに指示を与え、その混乱に乗じて目的を果たそうとしている可能性を捨てることは出来ない。
そうした思いからの問いだったが、秘書はこれに対しては首を横に振る。
「現状、処分した博士以外の接点は見えていません。推測ですが、存命中に何らかの指示を与えていたのではないかと」
「その根拠は?」
秘書はほんの一瞬だけ、言葉を選ぶように沈黙した。
口にする内容が理解の及ばなかっただけか、或いは許し難いものであったのか、それを表情から読み取ることは出来ない。
「……博士がデュアルの被検体に対して、必要以上に懇意にしていたとの報告があります」
「情が移ったということかね。軽率なことをするものだ」
嘲るような思いを全く抱かなかったと言えば、それは嘘になるのだろう。
人の上に立つ者として、越えてはならない一線は確かにあると理解しているからこそ、市長は自らの言葉に突き放すような響きが伴っていることを自覚していた。
「高次元体の研究は、人類という種そのものの存続に関わることだ。犠牲を良しとする空気に悩むのは人として当然かも知れんが、公人として褒められたものでもない。博士には荷が重かった、ということか」
続けられた言葉に口を挟む様子を見せない秘書は、その意見に同意であると解釈するべきか。
その答えを彼女自身が口にすることは無く、この話題に結論が出たとばかりに深く頷いた。
「とは言え、今は目前の問題に対処することが先決でしょう。直ちに取り掛かります」
首肯した市長に深々と頭を下げ、秘書はその場を後にした。
1人その場に残っていた市長は退室を見送ると、深いため息を吐きながら背もたれに身を預ける。
平穏無事な未来など想像も出来ない、過酷な時代に生まれたことの自覚は持ち合わせていた筈の彼は、それでも突然降って湧いた問題に対して寛容であれるほどの余裕はない。
それが、自分が隔離都市の中に於いて高い権限を持ち合わせているという事実からくる、慢心の現れでもあったと分析した彼の表情に浮かぶのは、自嘲交じりの苦笑であった。
「……人類最後の聖域などと、大層な肩書を背負ったことの弊害か。どれほど優れた受け皿があろうと、そこに組み込まれたのが人間である以上、機械の部品のようにはいかないものだな」
ままならない現実であっても立ち向かわなければならないことに、不満を抱くような子供じみた真似をするつもりはない。
そうは思っていてもどこか保身に走ってしまいそうな自分自身が在るのは、良くも悪くも人間の性であると思わずにはいられない市長であった。
今はただ、果たすべき義務を果たすのみ。
そう信じた彼の決断とその指示が、どのような結末を呼ぶかを知る術を、彼自身は持ち合わせていなかったのである。