回想・籠の中の少女
少女はただひたすら耐えるかのように、退屈な時間を過ごしていた。
恐らくは高層建築物の一室、白で統一された清潔感溢れる雰囲気は病院のようであるが、薬品などの匂いといったその場特有の雰囲気は感じられない。
ただ、透明度の低い強化ガラスの窓では外を見渡すことが出来ず、扉も外側から鍵を掛ける作りになっていることから、まるで牢屋のような印象を受ける部屋でもある。
隔離される程の悪さをした記憶はなく、身体のどこかに異常を抱えている自覚症状もない少女にしてみれば、そんな場所に放り込まれる筋合いはないというのが本音であったが、喚くような彼女の意見に対する周囲の反応は冷たいものだった。
同年代の同性における一般的な観点からは"ずば抜けて活動的である"と評価されかねない気性の持ち主であるところの少女にしてみれば、その反応を含めた環境そのものに対する不満は募るばかりであり、入れ替わり立ち代わり訪れる白衣の大人たちを捕まえては不満を余すことなく伝える行動に出ることは当然の権利と信じて疑わない。
一方で、自身の意思表示に周囲が辟易して距離を置かれているという可能性も皆無ではないと、長いこと続くこの環境を振り返った段階で思い至ってもいた。
そうしたものを踏まえた上で、それでも少女は不当な軟禁状態を強いられていることを疑っておらず、自分から折れる必要性を考慮する必要性は微塵も無い、という結論は揺らぐことはない。
だからその日も、定期検査の一環だと告げて現れた初顔合わせの女先生に対して、いかにも不機嫌ですという雰囲気を敢えて表に出しながら無遠慮に尋ねた。
「ねぇ。わたし、いつまでこうしていれば良いの?」
「……何度も説明があったと思うけれど。上からの許可が降りない限り、貴女を自由にすることは出来ないわ」
対する先生はあまり感情を感じさせない淡々とした口調で答えながら少女を一瞥し、すぐに何事もなかったかのように作業に戻った。
そのあまりにも淡々とした反応は少女の神経を逆撫でする行為だったが、或いは先生が意図的に実行した、ささやかな抵抗であったのかも知れない。
この時点で既に少女はこの相手が生理的に受け付けない相手であることを悟ったが、逆にそれならば躊躇なく舌戦に持ち込めると判断したようだ。
苛立ちを取り繕う術も未熟な少女は、不満そのものを表現したかのような、女性にあるまじきと言って差し支えないほどに歪めた皮肉の笑みを浮かべながら問う。
「だからさぁ。その許可がいつ降りて、わたしはいつ自由になれるかって聞いてるんだけど」
黙々と検査の準備を進めていた先生はようやく手を止め、少女に視線を戻した。
感情的な反応を引き出そうと画策する思惑はその表情を見ただけで看破できるだろうが、それも棘のある言い方を受け流すだけの余裕と器量が備わって居なければ難しいものである。
果たして、その両方を備えていた先生の表情は微塵も揺らぐことは無く、特に気にした様子も無く、或いは敢えてそう受け取らせようと取り繕いながら、彼女は返答した。
「私が決めることではないし、上に問い合わせたところで"指示を待て"の一言で終わりよ。それでも良いなら、望み通り掛け合ってみるけど」
問い掛けという体裁を保ちながらも、言葉の端に感じられるのは確かな拒絶の意思。
それは相手を思いやった故ではなく、実行するだけ無駄であることを含ませた一言だった。
要は自身に向けられた皮肉を真っ向から跳ね返す形となり、喧嘩を売ったつもりが逆に押し売りされた形となった少女は、苦い表情を浮かべながら口を開いた。
「……良い性格してるじゃない」
「それはどうもありがとう。質問はそれだけかしら?」
沈黙したのは切り返しの早さに驚き、次の話題に移るタイミングを若干逃したというだけであり、断じて言い合いに敗北したことを痛感した訳ではないしのだと少女は自分に言い聞かせる。
敢えて無言で返答を待つ先生の姿に、それが言い訳以上の意味合いを持たない考えであることを悟った少女は、弁明することを諦めて話題を切り替えた。
「ねぇ。わたし、どこか悪いの?」
事実上の軟禁を強いられている少女の、心からの疑問に対する自らが行き着いた回答がそれだった。
自分で判断することの出来ない領分での謎が関わってくるともなれば、常日頃から強気な態度を取る少女も不安にならない筈もない。
年相応な感性を持ち合わせていることに安堵したのか、先生はほんの僅かに口元を緩め、それを悟らせないように軽口を叩いた。
「口と性格は悪いんじゃないかしら」
案の定、しおらしくなりかけていた少女の顔は一瞬で沸点を越えた様子である。
「分かってるわよそんなことはっ!」
感情のまま、それでも否定の言葉が咄嗟に出なかった辺りに、少女の持つ真の強さを感じ取ったようだ。
先生は身体ごと少女に向き直りながら、心の奥底に確かにあるはずの不安をぬぐい去るべく苦笑混じりに、しかしはっきりと告げる。
「自覚はあったのね。それは冗談としても、私の知る限り貴女の身体に、健康を害する要因となるものは認められないわ」
嘘偽りのない言葉である保証は何処にもなく、少女は尚も視線を伏せていたが、敢えて念押しのように告げられた一言の意味を、この場の一時しのぎとは思わなかった。
ようやく上げた視線は真っ直ぐに先生へと向けられたが、その瞳には変わらず疑念の色が浮かんでいる。
当然ながら、一連の会話が少女の抱えた疑問の回答には至らなかったことが原因だ。
「じゃあ、何でわたしはこんなところに閉じ込められなきゃならないの? 言うのを躊躇うくらい悪い病気に掛かってるから、って方がまだ説得力あるわよね」
自らの発言が八つ当たりであることを、少女は自覚している。
その上で、不自由を強いられることの見返りとは言わないまでも、境遇の意義すら見出だせないという現状は彼女の精神を悪戯に磨耗させる原因となっているのが現実であった。
そこまで分かっているからこそ、聞き役に徹することを望まれ、自らもその役割に忠実であろうとする先生は、下手な同情は逆効果であると理解し、同時に自分にそう言い聞かせてもいる。
故にその口から発せられたのは、他人事のように軽い口調で紡がれた台詞であった。
「もしそんな面倒ごとなら、私はこの仕事を引き受けなかったわ。生憎、生意気な小娘と好き好んで顔を付き合わせてやろうなんて思うほど酔狂じゃないわよ、私は」
敢えて突き放した口調で告げられる真実は、より真実味を伴った鋭さと共に浸透することを、先生は経験則として理解している。
その上で、相手を傷つけてしまいかねないリスクと隣り合わせであることも承知しており、無表情を取り繕った表情の端には、僅かに緊張した様子が見受けられた。
少女はそれに気付かず、気付く余裕すら無くしていたと言うべきか、再び力なく俯いたまま呟く。
「……じゃあ、何で」
返答に若干の間が開いたのは同情心から来るものではないと、先生は分析していた。
実際問題として少女に対する答えを持っていなかったこともあるが、それ以上に今の彼女に対して、明確な解答となる事柄を告げる行為が正しいと思えなかったからである。
袋小路に追い込まれた者に与える安易な希望は、容易く絶望へと反転してしまう危険性を孕んでいることも、その要因の1つだった。
故にその口から紡がれるのは、定型文のように用意された内容を事務的に朗読した、素っ気ないものでしかない。
「先程言った通り、それを判断したのは私の上司よ。その根拠まで聞かされていないし、それはつまり私の知る必要のないものだってこと」
当然のように、或いは当然を装ったように返された返答に、呆れ返った態度の裏に安堵の感情が見え隠れしたように感じたのは、錯覚とは言い切れない程度に信憑性のあるものであった。
何にせよ、少女は露骨な動作で肩を竦めながら首を横に振り、目上の者に対して喧嘩上等と言わんばかりの呆れ顔を浮かべながら告げる。
「そんなあやふやな状態で、よく仕事なんて出来るもんねぇ」
ならば容赦など不要どころか、礼を失する行いであると断じた先生の口許が、ほんの僅かに吊り上がった。
「守秘義務なんてのは、世の中にいくらでもあるものよ。雇い主の利益を守る為の方便とも言うけど、生活基盤を守るという意味では、雇われ者の私もその恩恵を得ているわね」
経緯はどうあれ、この場に在ることを自身が承諾した以上は義務を果たすのみ。
主従における"従"の立場である人間として模範的な立ち振舞いは、自らの保身に繋がっていることを彼女は自覚していた。
ルールを逸脱しない生き方とは"自分への責任を回避する"意味合いを持ち、現実の一部分から目を逸らすことを肯定する一面も持ち合わせている、ということも。
「……つまり、わたしはそのとばっちりでここに閉じ込められているってこと?」
その、目を背けている部分に丸々と含まれている少女としては、肩を震わせて握り拳を作る位のリアクションは当然と言うべきだろう。
無論のこと、先生としてはその感じ方そのものは認めながらも、拳の行き先を敢えて引き受けようなどといった感傷とは無縁であり、視線を逸らさないまま少しずつ、バレないようにこっそりと間合いを取りながら答えを返した。
「御愁傷様」
「淡々と言うなっ!?」
打てば響くような流れで返された怒声は、僅かながらも普段の調子を取り戻したことを窺わせる思いを感じさせた。
それを確認できたからこそ、先生は目前の少女に対して気を遣うべきは取り繕った言葉ではなく、現実を見据えた建設的な解答を口にする。
「でも、そうね。顔を合わせる度に噛みつかれては堪らないし、多少の環境改善はするべきだと報告しておくことにするわ」
余計な一言を付け加えたのは単純な当て付けだろうし、物事を直情的に理解する少女の耳には挑発と受け取った事だろう。
無言で視線を交える両者の間で、威圧感同士が干渉して火花を散らす光景が、まさにそこに広がっていた。
「……お礼なんて言わないわよ」
「いらないわ。だって私は意見を言うだけで、本当に改善されるかどうかまでは責任持てないもの」
捨て台詞そのものの一言に対して、先生は淡々と言葉を返すに留めた。
それは取り繕った善意などではなく、どこまでも現実的な思考の果てにたどり着いた物事の本質であり、自分自身が足掻いたところでどうにもならない規模の問題であることを確信した上での結論である。
お互いに己を偽らない言葉の応酬故に遠慮も、そして誤解もなく理解の念を示した両者は、お互いを水と油のように決して交わらない"敵"として認識し合うこととなった。
「ホントに可愛くないわね、アナタ」
「それはお互い様よ」
乾いた笑みのぶつかり合いはその場を永久凍土に等しい極寒状態へと至らせたが、それを体感できる第三者が居合わせなかったことが救いである。
審判なき冷戦の終わりは永遠の先かと思われたが、しばらくの沈黙の後に肩を竦め、これを破ったのは少女の呟くような一言であった。
「……まぁいいわ。なら、早いところ検査を済ませちゃってくれないかしら」
今回は自分が折れてあげる、という上から目線の物言いであることを瞬時に見抜いた先生は、冷静を装いながらも釘を指すことを忘れない。
「もちろん、最初からそのつもりよ」
その一言を最後に、両者の論戦は一時停滞する。
定期検査の項目は全て滞りなく終了し、口と態度の悪さを除いた問題点も見つかることは無かった。
当然ながら、その行為の本質を理解しうる要素を得ることも無い。
「ホント、わたしの健康状態ひとつで何が変わるんだろうって話だけど。こんな厳重な警備で、入れ替わり立ち替わりご機嫌伺ったりしてさ」
これは退室する前の先生に投げかけられた、少女の何気ない一言である。
それは先生の側からしても同様の感想であり、お互いの脳裏に共通で刻まれた疑問だった。
しかし、それでもこれだけは言わなければならないだろうという、ある種の使命感が先生の口を動かす。
「言っておくけど、貴女のご機嫌取りは私の仕事に入ってないからね」
冗談では無い、という色の強いその一言に対し、少女は無言のまま下まぶたを引き下げて舌を出した。