クリムゾン・サードアイ
複数の機関銃が撒き散らす銃弾の嵐を前に、遮蔽物も無くその身を晒しているという現実に直面していながら、"デュアル"となった少年は何の感慨も抱いていなかった。
定着型次元障壁と呼ばれる力によって構築された白と黒の彩りを持つ鎧姿に全身を覆われている今の彼は、あらゆる物理的な干渉を受け付けない状態にある。
騒々しいまでの銃弾発射音と、排出された薬莢が地面を叩く金属音が反響している中、少年はそれらを意に介することなく歩を進めていた。
デタラメ以外の何物でもない現状に、驚愕の表情を隠せない相手に同情しない訳では無い少年だったが、結局のところ自分に実害がないことに加え、彼としても危害を加えるつもりもないため、特に相手を気遣うこともない。
現状出来ることが何もない、と言った方が正しいだろうか。
次元障壁による物理的な隔絶とは一方的なものではなく、内側からの干渉に対しても同様の効力を発揮する為に、人間が生来持ち合わせている感覚、すなわち五感のほとんどもまた遮断された状態にあるのだ。
言葉を発したところで相手には届かず、相手からの言葉も"発した"という事実は認識出来るものの、それを音声として聞き取ることは出来ないのである。
〈まるで自分の身体を"操縦"しているみたいだ。博士……どうやら僕は、生きる実感というものとは無縁のようです〉
故に紡がれた筈の言葉は鎧による隔絶によって内側に反響し、そのまま余韻なく消え去るのみ。
先刻から繰り返し叩き付けられている銃弾すら、光による屈折の影響すら遮断されてしまっている今の状態では視覚によって認識出来ないのである。
それなのに目前の状況を事実として認識出来ているのは、五感に代わる機能を今の少年の身体が備えているからだ。
一定の範囲内に存在する物質を三次元情報へと変換し、自我の根源と言うべき脳の中枢に直接投影することによって知覚する超感覚。
五感によって得られるもの全てを統合し、現実を情報として認識する能力とも言うべきものを、デュアルを生み出した開発者は"第三の目"と呼んでいた。
〈周囲を認識する機能が正確過ぎて逆に実感がない、というのは皮肉かな。まぁ、最初こそ頭痛がするぐらい酷いものだったけど……ようやく慣れてきた〉
苦笑交じりに紡がれた台詞は、こんな苦労を強いられるなら自分はガラス管の中の実験動物で充分だった、という心の声が滲み出ているようだ。
無論のこと、窮屈な世界に押し込まれたままの状態を幸福と感じているのではなく、眼前に広がる世界の姿が想像からかけ離れたものであったことからの、期待外れだったという思いによるものである。
比較対象が限られている故の短絡的な思考であることは自覚しながらも、少しでも良い方向へと傾くことを望んだ末の行動だったからこそ、その反動も大きなものだったのである。
しかし、不満を抱きながらも自らの行動を止めない少年は、確かに生の現実へとしがみ付いていた。
生きる実感とは無縁だと結論付けた筈の彼も、所詮は世の中を知った気になっていただけの、なにも知らない子供だったということだろう。
〈…………僕が見たかった世界は、こんなものだったかな。博士、貴方が見せようとしていた世界は、こんなものでしたか?〉
自分よりほんの少し世界を知っていたであろう恩人に問い掛けながら、それが無意味であることを少年自身が誰よりも理解している。
他愛ない会話で少年の心を繋ぎ止め、甲冑のように無骨で歪な形ではあるものの仮初めの器を用意し、少年としての存在をこの世に留めてくれた博士は、たった1つの願いを残してこの世を去った。
恩人の死という現実が、何よりも重い筈の事実が彼の目前で訪れたと言うのに、少年の心に残るのは痛みを伴った悲しみでは無く、困惑の念を交えた空白だった。
ありのままを受け入れて感情的になれるほど少年の心は豊かではなく、生きる実感を無くした"欠落"を抱えていたが故に、"喪失"という感情を理解することだ出来なかったのである。
それ故に、博士の残したたった1つの願いは少年の心を現実に縛り付ける為の鎖として機能し、デュアルとなった少年はその願いを叶えるためにここにいる。
その行いは彼が正しいと信じたからではなく、単に彼自身が"現実"として認識できる事実がそれしかなかっただけ過ぎない。
依存している、と言い換えても良い。
〈貴方はきっと自覚の有無に関わらず、こうなることを望んでいた。死の間際にその願いを口にしたのは、僕に生きる理由を与える目的が半分。そして、その願いの為に僕を利用しようとする思惑が半分〉
博士の思惑がどちらの比率が高かったのか、という疑問は少年にとってさほど重要ではない。
何故なら、空白の自分を埋める為の生の実感を少年が求めていたのは事実であり、その為に博士を含めた相手を利用する魂胆があったからである。
お互いに利用し合うことを前提とした上で、なお言葉を交わしてきた両者の間には、たとえ僅かであったとしても打算以上の感情が働いていた筈だと、少年は思っていた。
純粋に、博士の行いに対して感謝の念を抱いていたという面も、確かにあるのだから。
〈貴方に踊らされる必要はないですが……それでも、生きることに意味を見出だせない僕が、行動の指針とできるのは貴方の言葉だけだ。利用、させてもらいますよ〉
自分の為に成し遂げようとするだけの確たる何かがある訳でも、他人の為に成し遂げなければならない義務感も存在しない。
在るのはただ、今ある自らの生命を実感として認識できない壊れた自分と、それを自覚しながら死へ逃げることの出来ない彼の心の弱さだけだ。
何も分からず、何も掴めないままに終わることへの虚しさに取り付かれることへの漠然とした恐怖だけが、デュアルの身体を操って行動しようとする最大の理由である。
それは、覚悟もないままに途方もない力を得てしまった平凡な少年の、声にならない叫びであると同時に、声高に叫んだところで他人には理解されない、個人的な問題だった。
〈決して得られないものに、それでも縋りつこうとするかのような……まるで祈りを捧げているみたいだ。何を信じている訳でもないのに〉
少年が自虐的な思考に至っている間に、外側の状況も変化していた。
他事を考えながらも第三の目はその機能を維持し続け、周辺の状況を三次元情報へと変換しながら少年の脳へと送っている。
不必要な情報を思考から無意識の内に排除する、というのがここに至るまでに獲得した少年の技術だったが、今度は逆に膨大な情報の波から必要な情報を掬い上げようと思考を巡らせた。
若干の時間差を置いて認識出来たのは、こちらの動きに合わせて後退しながらも弾幕を張り続ける警備兵たちの姿であり、同時に手持ちの弾薬が切れかけていることまでを正確に把握する。
その内の一人が、頻りに背後を振り返っては確認する動作を繰り返していることに気付いた。
〈何かを待っている? けれど、今の僕をどうにかできる力を、彼らは持っているのだろうか〉
力に呑みこまれるような錯覚を覚えるのは、デュアルという力がどういうものであるかを感覚的に理解し始めている証である。
全身を覆う次元障壁に直撃した弾丸は弾かれて跳弾しているのではなく、物理的に遮断された境界線で"停止"し落下しているに過ぎない。
銃撃による騒音も少年の耳に届かず、大気の流れを乱す断続的な波であるという事実を情報として認識しているだけだ。
現実を認識する行為に他人と違う明確なズレを自覚しながら、少年は自らが直面している筈の現実を前にしても客観的な視点を崩すことが無い。
それは立ちはだかる兵たちの背後から接近してくる、何者かの気配を察知してからも同様だった。
〈数はそれほどでもない。代わりに、随分と物騒なものを持ち出しているようだけど〉
奥へと続く通路の進行方向から侵入者であるデュアルに向かって、何人かの人間が駆け寄ってくる情報を第三の目が察知する。
細かい身体的特徴まで区別できるほど感覚に馴染んでいなかった少年には、その一人一人を区別することが出来なかったが、唯一共通する事項があることに気付き、そちらに意識を絞った。
それは駆け寄ってきた全員が肩に担いでいた揃いの金属製の筒であり、同じ構造を持っていることから量産されている兵器であることを判断する。
そして、やや距離を置いた位置で膝を付いた彼らがその筒の先をデュアルへと向けたことで、それが大口径の砲弾を打ち出す為の武器であることを理解した。
機関銃が通じない相手に対して、より強力な武器を用いて排除しようと言うのだろう。
〈この人たちが聞いたら怒るだろうけど……その必死さすら、僕には羨ましいな〉
複数の小型のロケットランチャーに狙いを定められている状況とは思えない程に、その発想は呑気だと言わざるを得ない。
デュアルはその足を止めるが、それは目前の脅威に対して警戒したのではなく、羨望の念によって身体を動かす意識が途切れたことに起因する。
どれ程の抵抗があろうと結果は分かり切っていて、何よりそれが覆されたところで構わないという思いが少年の心の奥底にあったからだろう。
故に少年は、人の身には強すぎる反動を伴いながら発射された砲弾が、意外にも正確な照準を伴って殺到してくる光景に、むしろ感心していた。
だがそうした現実を前にしていながら、その脳裏に浮かんでいたのは全く別の疑問である。
〈…………そう言えば、こんな狭いところで爆発させたら、彼らの方が被害甚大なんじゃないかな〉
機関銃を撃ち尽くした兵たちは既に通路の左右へと分かれ、その隅に身を屈めて衝撃に備えている。
無傷とはいかないだろうが、それでもその態勢であれば身体へのダメージを最小限に抑えることは可能かも知れない。
そんな様子を目の当たりにし、明確な殺意を伴った武力行使に晒されてなお、少年の心には緊張感というものが微塵も湧いてこなかった。
放たれた砲弾の数も、その起動も、着弾の位置も全て情報として認識していながら回避する素振りも見せず呆然と立ち尽くしているのは、自らの持つ力を過信した結果という訳では無い。
現実感が伴わないのだから、傍観者としての感想を抱くことしか出来なかったというだけである。
そんな当事者意識のない白黒の怪人に殺到した砲弾は、デュアルや通路の床や壁へと激闘し、大爆発を引き起こした。
密閉された空間に衝撃と粉塵が巻き起こり、視界は一瞬で損なわれる。
ただ一つの例外を除いて。
〈僕に向けられた殺意も、解き放たれた熱量も、巻き上げられた瓦礫や粉じんも、僕には届かない。これは本当に現実なのかな……ねぇ、博士〉
粉塵の隙間から全てを突き通すかのような鋭さを伴った、紅い単眼の輝きが零れる。
ロケットランチャーの直撃を受けてなお微動だにしないデュアルの眼差しは、その内に納まる主の葛藤など気にするまでもないと言わんばかりに、淡々と周囲の情報を解析し続けている様子だった。