壊れかけの秘密基地
その翌日、里栄子は久しぶりにたっぷり遊んだ疲れから朝寝坊をし、昼を過ぎてようやく公園へと足を運んだ。
そこには既に、鈴木兄弟、時雨、そして拓哉の姿があった。
「遅いぞ、里栄子。何してたんだ。今日は拓哉の復帰祝いだっていうのに」
腕組みをした海が、大げさに眉間にしわを寄せる。
「おねえちゃん、眠そう」
「ごめーん。昨日遊びすぎて疲れちゃった」
「やっぱ歳だな!」
拓哉が歯を見せてにやりと笑った。気のせいか色が少し白くなり、頬がふっくらしたように見えた。
「なんですって」
里栄子は拓哉を睨んでみせたが、全員揃ったやりとりが懐かしかった。
「もう体はよくなったの?」
「とっくに。だけど父さんと母さんがうるさくて」
「元気が有り余ってうるさいの。里栄子ちゃん、何とかして」
と、綾は肩をすくめた。里栄子は微笑み返して答えた。
「今日は拓哉が疲れ果てて、カンベンしてくださいって泣くまで、帰してあげないからね」
「負けないぜ」
みんな嬉しそうに笑っているのが、里栄子も嬉しかった。
「ねえねえ、夢人くんは?」
ふいに凪が言う。
「もうすぐ来るだろ」
「なんだ。来てないのは私だけじゃなかったのね」
「・・・来た」
時雨が顔を向けた公園の入り口を見ると、濃く茂った緑の植え込みの間から、相変わらず色の白い肌が覗いた。
「夢人ー!」
綾が手を振る。夢人は軽く駆け寄ってきた。
「遅くなってごめん」
当然のように輪に入ってきた知らない顔に、拓哉は「誰?」という顔を海に向けた。
「最近、友達になったんだ」
「よろしく」
「よ、よろしく」
海が説明すると、夢人が挨拶し、拓哉もぎこちなく答えた。
「今日は何する?」
「どうしよう」
「そうだなー」
いつもと変わらぬ会議が始まる。この時、里栄子はいつも見守るだけだが、今日は口を出すことにした。
「拓哉くんは、何したい?」
「うん、今日は拓哉のやりたいことやろうぜ」
里栄子の意向が伝わったらしく、海が大きく頷いた。
拓哉は、嬉しそうな照れたような表情で鼻の頭をかきながら答えた。
「俺さ、秘密基地作りたいな。家で寝てる間に読んだ本に出てたんだ」
「いいね」
「やろやろ」
「どこに作る?」
「うーん・・・」
みんなで考え込む。
「それなら、いい場所知ってる」
一番に口を開いたのは夢人だった。
「どこだ?」
夢人は海にそっと耳打ちした。
「確かに、あそこなら材料もいっぱいある。でも・・・」
二人揃って、不安そうな顔で里栄子を見てくる。
「大人はあそこには行くなっていうんだよな」
里栄子は何と言ったらいいのか、少し考えた。ほとんど毎日一緒に遊んでも、彼らの中では自分は大人という枠に入っていたのかと、少し切ない気持ちになった。
それでも、拓哉の復帰を喜ぶ気持ちは変わらない。
「見てから決めるわ。案内して」
里栄子は、大人が行くなと言うような所だから、危険なのだと想像した。蛇が出るとか、不良がたまるとかだろうか。
「ここ」
しばらく歩いて辿り着いた場所を見て、なるほどと納得した。
そこは、ビルの建設現場だった。防音と防塵のための白い囲いがそびえ立ち、奥に鉄筋の枠組みがちらりと見えた。里栄子が入学した頃は工事をしていた様子だったが、いつからかぱったりと音が止み、人や重機の出入りも無くなった。
「不景気だな」
時雨が呟いた。
「悲しいこと言わないで」
「まぁ、確かに危険ね」
里栄子は腕組みして眉根を寄せた。
「危ないことはしないから」
綾が言った。
「約束する」
海と拓哉、それに夢人が手を合わせた。凪も隣でそれに倣った。
懇願する子供達を前に、里栄子は戸惑っていた。ここは本当に危険だ。建築資材は重いものや固いもの、尖ったものが多いに違いない。拓哉が溺れた事件の後だ。ここで何かあったら責任どころの話ではない。
里栄子と同じ気持ちなのか、時雨を見ると目が合った。
「どう思う?」
「俺達が監督役になれば、そうそう危険なことも起こらないだろ。川のことで、こいつらも懲りてるだろうし」
子供達は全員頷いた。そういう人形のように、首を上下に振っている。
里栄子はため息をついた。
「・・・分かった。じゃあみんな、約束して。絶対に、私か時雨君と一緒に行動すること。で、何かする前に、やってもいいかって聞いて。絶対よ。守れる?」
子供達は再び首を激しく上下に振った。
里栄子は根負けした。
防塵柵をぐるりと回り、隣のビルと柵との間の狭い隙間に体を滑り込ませ、そのまま柵沿いに奥へと入ると、板が欠けて隙間が出来ている所があった。そこへ、海と拓哉が慣れた様子で入っていった。
「・・・あなた達、さては結構来てるわね」
里栄子は呆れた。
Tシャツを引っかけながら、里栄子も何とか中に入った。ビルは鉄筋が三メートルほど組まれていたが、セメントで固められているのは土台の部分だけだった。それが青いビニールシートで覆われていたが、シートは所々破れていた。まるでビルのオバケだと里栄子は思った。
しかしなるほど、シートの内側に入れば、それだけでも秘密基地の気分が味わえそうだ。
里栄子は一瞬ときめいたが、周囲を見渡し、錆びた鉄筋がシートを突き破っている部分や、放置されたままの鉄パイプなどが目に入ると、やはり背筋が冷えた。
「里栄子ちゃんも入ってみなよ」
シートの内側から、綾が首を傾げて手招きする。いつの間にか鈴木兄弟と拓哉が中にいた。
里栄子は何となく時雨の意見を求めようとして顔を上げたが、時雨は夢人と連れ立って、ビルのオバケの外回りを歩いていってしまっていた。
「う、うん」
仕方なく、里栄子は一人身を屈め、オバケが口を開けたシートの切れ間から、そっと中に入った。
内側は外側よりも暑く、少し蒸していた。里栄子は肌に不快感を覚えたが、それ以上に、青く静かな空間に心を奪われた。
分厚いビニールシートは外部の音を遮断し、まるで世界に自分達しかいないような気分にさせた。破れ目から差し込む日差しが、木漏れ日のように見えた。
「すごい」
森の中にいるような、水の中にいるような・・・。
里栄子はぽかんと口を開けてその景色に見入った。
綾は凪の手を引いて少し奥にいる。
拓哉もその近くで、ほころびて紐のように垂れたシートの一部に、ジャンプして飛びつこうとしている。
里栄子の前にいた海が、ふいに振り返る。
その瞬間。
―ガラン
重い鉄がぶつかり合う音がした。
かと思うと、その音が一気に増幅し、続いて体に何かがのしかかってきた。
「危ない!!」
里栄子はとっさに目の前にいた海に覆いかぶさった。
―ガラン ガラン ガラン
頭上にあった青が、重みとともに下りてきた。里栄子は耐えられず、その場にしゃがみこんだ。目をぎゅっと閉じ、必死で海の頭を抱える。海もしがみついてきた。
―ゴン・・・
最後に甲高い鐘のような響きがあり、音が止んだ。
妙な静寂が訪れた。
「里栄子」
海の声で、里栄子ははっと目を開けた。
「海君、大丈夫?」
里栄子はあぐらをかき、海を抱きかかえるような格好で座り込んでいた。一体何が起こったのか、体を起こそうとしたが無理だった。
「重い」
上半身を三十度ほど前に倒した状態から動くことが出来ない。
「何だよ、これ」
海の声は里栄子の顔の下から聞こえていた。胸の辺りに顔を埋め、腰に手を回したまま、海もまた動けないようだった。
顔を上げようとして、またしても動けないので、里栄子は首をねじった。青いシートに光が透け、細くて長い影が見えた。
「鉄パイプ・・・」
並べてあったものが倒れたのか、何本ものパイプが網の目のような影を作っている。里栄子は頭が真っ白になった。
「みんなは?」
海が言った。
「そうだ。みんな」
「綾ちゃん、凪ちゃん、拓哉君、どこ!?」
「里栄子ちゃん、私はここ。凪も一緒」
右斜め前の方から綾の声がした。
「綾ちゃん! 大丈夫? けがは無い!?」
「膝を打ったけど、血は出てないと思う。凪は?」
綾の声は割と平然として聞こえた。事態が飲み込めていない感じだ。
「なぎ、ここ」
凪の声は震えていた。
「どうしたの!?」
「大丈夫。肘からちょっと血が出てるだけ。ね、凪、泣かないで。痛くないよね」
「うん」
かすれた声で返事をするので、涙をこらえているのが分かった。里栄子は居たたまれなくなり、自分が泣きそうになって叫んだ。
「他に痛い所は!?」
「ないよ」
「ない」
「俺も」
ひとまず鈴木きょうだいは、誰も鉄パイプに潰されている様子はなかった。里栄子は肩を動かして、近くの影にぶつけてみた。影はぴくりともしない。だが鉄筋にうまく引っかかってくれたのか、身動きはとれないが、起き上がろうとしなければ重みを感じることは無かった。その幸運に、里栄子は安堵した。
「拓哉は?」
再び顔の下から声がした。そういえば返事が無い。
「拓哉君!」
里栄子は叫んだ。
「拓哉ー!」
起き上がれないもどかしさからか、体を揺すりながら海も叫んだ。しかし返事は無い。
「どこだよ・・・」
今度は海が泣きそうな声を出した。
「きっと大丈夫。私達が無事なんだから。うまく逃げたのかも知れないし」
里栄子は海を励まそうとして言ったが、自分に言い聞かせている気分だった。
「夢人君と、時雨君は?」
綾が言った。
「夢人くーーん」
凪が叫ぶ。
「時雨君」
里栄子も言ってみたが、時雨が無事で近くにいるのなら、今のやり取りに何の反応も無いわけが無かった。何かあったのか、近くにはいないのか・・・。
「里栄子ちゃん、これ何?」
「どうしたらいいんだよ、動けねぇよ」
「なぎ、手いたい」
三人が次々と弱々しい声を出した。
「大丈夫、すぐに誰か助けに来てくれるよ」
言ってはみたものの、入ることすら誰にも見咎められなかったような場所だ。鉄パイプの音は確かに大きかったが、誰かがわざわざ覗きに来るとは思えなかった。
時雨か拓哉か夢人が、外に助けを呼びに行ったことを祈るばかりだった。だが、三人の誰も、何の声もかけずに行ってしまうものだろうか。里栄子は俄かに不安になり、押し黙ってしまった。鈴木きょうだいも、誰も何も喋らなくなった。
少し時間が経った。
シートの内側はどんどん暑くなってきて、湿度も上がっているのが分かった。海の額の汗が、里栄子のTシャツに染み込んできた。里栄子自身も汗をかき始めた。額、頬、首筋と雫が伝う。
額の辺りから一滴、ぽたりと海の頭に落ちた雫があった。里栄子は違和感を覚えた。
二滴、三滴。
海の黒髪に紛れた雫を凝視し、里栄子はぎょっとした。血だ。どうやら自分の頭か額から流れているようだ。どこか切ったのだろうか。血を見てしまうと今さら頭皮に痛みを感じ始めた。自分の心臓の鼓動に合わせて、ズキンズキンと疼いている。
―海が気づきませんように。
里栄子はひたすら願った。けがに気づけばきっと動揺する。
「暑いな」
海が呟いた。
「そうね」
その声に弾かれたように、凪がぐずり始めた。
「凪、みんな苦しいんだから泣かないで」
綾がなだめる声が聞こえた。
「うう~」
「・・・うるせぇ」
蒸し暑さや動けないストレスが、子供達を苛立たせているのだった。三人ともよく我慢している方だ。
「みんな、楽しいことを考えてて。すぐに助けが来るから。ほら、公園のオニごっこのこととか、よもぎのお団子のこととか」
里栄子は言いながら、視界が狭まっていくのに気がついた。眩暈がする。
「それから・・・」
「それから・・・」
それでも必死に喋ろうとしたが、意識は徐々に遠のいていった。