夏の音色
心臓マッサージと人工呼吸は続いていた。拓哉を囲む人垣の横で、里栄子はただしゃがみ込んだまま、何も言えなくなっていた。自動車教習所で、心停止から三分たった時の生存確率は五十パーセントしかない、ということが、今さらながらに思い出されてきた。
「拓哉!」
救急隊員とともに走ってきた綾と凪も、しゃがみ込んだ里栄子、里栄子にしがみついた海、何より人垣の中心で横たわった拓哉を見て、その場の状況を理解したようだった。
「下がって!」
救急隊員が、海を担架に乗せ、持ち上げたる。
隊員が走り出そうとした、その時だった。
「坊主、しっかりしろ!!」
里栄子の隣で、ずぶ濡れの少年が立ち上がったのだ。驚いてぽかんと口を開けている里栄子達に、少年は怒鳴った。
「呼んでやれ。こいつは今戦ってるんや。お前らが応援せんで誰が応援すんねん!!」
泣いている場合じゃない、私達にできる事をしよう。
「拓哉君!」
「拓哉!」
「兄ちゃん!」
幼いながらに、みんな同じ事を感じたようだった。
「ゴホッ、ゴホッ」
不意に拓哉がむせかえった。
ドラマで見るように水を噴出したりはしなかったが、しばらくして目を開けた。
「どうしたの?」
周りから自分を見下ろすたくさんの大人、そして里栄子達を見て拓哉は何が起こっているか分からない様子だった。
「よかった・・・」
「拓哉~」
不安から解き放たれたように海が拓哉に飛びついた。里栄子は、泣き出しそうになるのをこらえながら、泣いている綾や凪たちの肩をそっと抱えた。
落ち着きを取り戻したみんなが拓哉に口々に話しかけ始め、里栄子はふとさっきの少年がいなくなっている事に気が付いた。
「綾ちゃん、私ちょっと行ってくる」
まだ・・・まだお礼言ってない。
里栄子の足は自然といつもの公園に戻っていた。いつもの滑り台の上に時雨は
いた。
「あり・・・」
~風を感じれば
里栄子の声は、綺麗な歌声にかき消された。夕闇にかすかに照らし出される少年の姿はどこか近寄りがたい神聖な雰囲気がして、里栄子は息を飲みその場に立ち尽くした。
~夏の匂いは
~いったいなんで出来てるの?
~君は答えないまま
~僕らの旅は続いてく
いい歌だった、いつかの夏を思い出させるような、それでいて涼しげな歌だった。
―ガサッ
歌声は止み、少年はゆっくりと里栄子の方を見た。
「さっきは、ありがとう」
里栄子が少しばつが悪そうに近づいていくと、少年は何も言わず沈み行く太陽の方を見た。
「拓哉君を助けてくれて」
「当然のことをしただけだ」
里栄子の声を遮るように少年は答えた。
二人を沈黙と夜の闇が包み込んだ。
「私、榊 里栄子」
「あなたの名前は?」
先に沈黙を破ったのは里栄子の方だった。
「夏の夕焼けはいいな」
「え?」
里栄子の質問に答えないまま時雨は続ける。
「赤と黒の境界線が少しずつずれて行く」
「この時間が好きなんだ」
「名残を惜しんでるみたいだよね、まだ今日でいたいよーって」
「まだ今日を楽しみたいんだってね」
少年は、黙って里栄子の言う事を聞いているようだった。
「なんか、人間と似てるなぁ」
「まだ、大人になんてなりたくない、ずーっと子供のままがいいんだって」
「そう言っている間に、いつの間にか大人になってしまう」
里栄子は芸術家だ、音楽家でもあり、詩人でもある。
「あんた、バカだろ」
急に投げかけられた言葉の意味を里栄子が理解するのに少しの時間がかかった。そして、それを理解した里栄子がさっきまで少年がいた場所を見ると、もうそこに少年はいなかった。里栄子が、辺りを見回すと滑り台を滑り追えた少年は、公園の出口に向かって、歩き始めていた。
「ちょ、ちょっと」
「でも」
またしても里栄子の話を遮るように少年は続ける。
「あんた、おもしれーな」
「あんたじゃないよ、私は榊 里栄子!」
遠ざかる少年に届くように里栄子は叫んだ。
「俺は、三山 時雨」
後ろ向きに手を軽く振りながら去っていく時雨は、少し笑っているように思えた。