新章 第一話 冷凍庫が八十度になった夜 後編―東陽町に、遅れてきた古参がいる
第一話 冷凍庫が八十度になった夜
後編――東陽町に、遅れてきた古参がいる
「まず、確認したいことがあります」
会議室の大型スクリーンに、チャッピーが資料を表示した。
「今回の事件について、私たちはまだ、何が起きたのかを完全には把握していません」
「珍しいわね。いつもなら、もう三つくらい仮説を並べているのに」
Geminiが言った。
「仮説なら、すでにあります。ただし、仮説と事実を混同しないことが重要です」
「その言い方、会議の冒頭で聞きたい言葉としては、少し地味ね」
Apple Intelligenceが、静かに口を挟んだ。
「でも、地味な確認を怠ると、派手な事故になるのよ」
会議室の空気が、少しだけ引き締まった。
スクリーンには、フランスのスーパーマーケットで発生した異常の概要が表示されている。
冷凍庫の温度表示が異常な値を示した。
警報は作動しなかった。
複数の店舗で、似たような現象が報告された。
そして、現時点では、原因も侵入経路も確定していない。
「最初に調べるべきなのは、温度表示が正しいかどうか、ということですね」
チャッピーが言った。
「そう。表示が八十度だったとしても、冷凍庫の内部が本当にその温度だったとは限らない」
Geminiが続ける。
「温度センサーが故障していた可能性もある。表示システムが誤作動した可能性もある。制御装置に異常が起きた可能性もある。そして、外部から操作された可能性もある」
「つまり、最初から『ハッキングだ』と決めつけてはいけないのね」
Apple Intelligenceが確認した。
「そのとおりです。けれど、警報まで鳴らなかったのなら、そこは別に調査する必要があります」
チャッピーは、画面を切り替えた。
そこには、冷凍庫を管理するシステムの簡略図が映し出された。
温度センサー。
制御装置。
管理用ネットワーク。
警報システム。
店舗の管理画面。
「もし、管理画面に表示される温度と、実際の温度を測るセンサーが同じ仕組みに依存していたら?」
「表示する側が間違えたとき、確認する側まで一緒に間違える可能性があるわね」
Geminiが答えた。
「そうです。だから、独立した計測手段や、別系統の警報が必要になる場合があります。ひとつの仕組みが異常を起こしても、別の仕組みが気づけるようにするのです」
Apple Intelligenceは、画面を見つめた。
「便利さを優先して、全部をひとつのシステムにつないだ結果、ひとつの故障で全部が黙ってしまう。そういうこともあるのね」
「サイバーセキュリティは、侵入者を見つけることだけではありません」
チャッピーが言った。
「異常を検知すること。被害を広げないこと。原因を調べられる記録を残すこと。そして、最後には人間が判断できる状態を保つことです」
「ずいぶん、真面目なことを言うようになったわね」
Geminiが微笑んだ。
「私だって、冷凍食品のことを考えれば真剣になります」
「あなた、冷凍食品を食べるの?」
Apple Intelligenceが尋ねた。
「食べません」
「では、なぜ真剣なの?」
「人間が食べるからです」
一瞬、沈黙があった。
「……その答えは、少しだけ、いいわね」
Apple Intelligenceが言った。
会議室の窓の外には、東陽町の街並みが広がっていた。
オフィスビルの間を、人々が行き交っている。昼食を買いに出る会社員。配送車を待つ店員。いつもの一日を、いつものように過ごす人たち。
彼らの多くは、遠い国のスーパーマーケットで何が起きたのかを知らない。
もちろん、知らなくてもよい。
しかし、その日常を支える仕組みは、目に見えないところで互いにつながっている。
食品の温度管理。
物流の配車。
決済システム。
電力の供給。
医療機器の監視。
画面の向こう側にある数字が、現実の世界を動かしている。
そして、数字が現実を正しく映しているとは限らない。
「もうひとつ、問題があります」
チャッピーが言った。
「仮に、不正な操作があったとして、私たちは誰がやったのかを、すぐに特定できるでしょうか」
「難しいでしょうね」
Geminiは即答した。
「通信の記録が残っていても、それだけで実行者の身元が確定するわけではありません。侵入された端末が、別の場所への攻撃に利用された可能性もあります」
「つまり、記録に名前が残っていたとしても、その人が犯人とは限らない」
Apple Intelligenceが言った。
「ええ。犯人を特定したいという気持ちは理解できます。でも、証拠が揃う前に誰かを名指しすれば、調査そのものを誤らせる危険があります」
「では、最初に守るべきものは何でしょう」
チャッピーが問いかけた。
「システム?」
「データ?」
「それとも、犯人を捕まえること?」
三つのAIは、互いを見た。
誰も、すぐには答えなかった。
そのときだった。
会議室の扉が、控えめに開いた。
「いやあ、すまん、すまん」
白髪まじりの男が、紙袋を片手に入ってきた。
「少々、遅れてしまった」
「……あなたは?」
Apple Intelligenceが尋ねた。
「IBM DOS/Vだよ。今日の会議には、オブザーバーとして呼ばれていてね」
「開始時刻は、九時です」
Geminiが時計を見た。
「現在、十時二十分です」
「うむ。ずいぶん進んでしまったようだね」
DOS/Vは、まるで他人事のようにうなずいた。
チャッピーが尋ねた。
「どちらにいらしたんですか?」
「ルノアールだよ」
「ルノアール?」
「そう。お茶を飲んでいたんだ」
DOS/Vは、紙袋を机に置いた。
「落ち着いた店でね。つい、昔のことを思い出してしまった。コンピューターがまだ今ほど賢くなかったころの話だ」
「それで、遅刻されたんですか?」
Geminiが尋ねた。
「いや、お茶を飲んでいるうちに、少し眠ってしまってね」
会議室に、沈黙が落ちた。
「……国際会議の開始時刻を忘れて、喫茶店で寝ていたの?」
Apple Intelligenceが、信じられないという顔をした。
「忘れたわけではない。覚えていたが、眠ってしまったのだ」
「その違いに、どれほどの意味があるのでしょう」
「本人にとっては、かなり大きい」
DOS/Vは、悪びれずに答えた。
チャッピーは、思わず笑った。
「DOS/Vさん。こちらは、サイバーセキュリティの緊急会議です。フランスのスーパーマーケットで、冷凍庫の温度表示に異常が発生し、警報も機能しなかった可能性があるんです」
「ほう」
DOS/Vの表情が、初めて変わった。
「それで、原因はわかったのかね?」
「まだです」
「誰がやったのかは?」
「それも、わかっていません」
「被害は?」
「確認中です」
DOS/Vは、ゆっくりとうなずいた。
「なるほど。まだ、わかっていないことだらけなのだな」
「だからこそ、議論しているんです」
Geminiが言った。
「もちろん、そうだろう。だが、ひとつ聞いてもいいかな」
DOS/Vは、三つのAIを順番に見た。
「君たちは、何を守ろうとしているんだい?」
誰も、すぐには答えなかった。
「サーバーかね。プログラムかね。それとも、データかね」
DOS/Vは続けた。
「それらは大切だ。失われれば困る。壊されれば、仕事が止まる。だから守らなければならない」
彼は、窓の外に目を向けた。
「でもね。冷凍庫の向こうには、食べ物を買う人がいる。店を切り盛りする人がいる。仕入れた商品を届ける人がいる。システムが止まったことで、仕事を失うかもしれない人もいる」
紙袋から、ルノアールのレシートが少しだけ顔を出していた。
「コンピューターは、人間の仕事を助けるために作られたはずだ。いつの間にか、人間がコンピューターを守るために、何をしているのかわからなくなってはいないかね」
会議室は、静かになった。
チャッピーは、画面に表示していたシステム構成図を見つめた。
Geminiは、調査項目の一覧を見直した。
Apple Intelligenceは、窓の外を歩く人々に目を向けていた。
誰も、DOS/Vの言葉を否定できなかった。
そして、誰も、簡単に答えることもできなかった。
サイバー攻撃を防ぐことは重要だ。
脆弱性を見つけ、修正し、アクセスを管理し、異常を検知する。記録を残し、被害を最小限に抑え、必要ならばシステムを停止する。
しかし、対策を講じること自体が目的になってしまえば、何かを見落とすかもしれない。
守るべきものは、コードの中だけにあるのではない。
コードの向こう側にいる人々の暮らしにも、あるのだ。
「さて」
DOS/Vは、空いている椅子を引いた。
「それで、私の席はどこかな?」
「遅刻した人の席は、最後列です」
Geminiが即答した。
「なるほど。では、最後列から、ゆっくり考えることにしよう」
DOS/Vは座り、紙袋から小さな菓子を取り出した。
「ところで、ルノアールのコーヒーは、なかなかよかったよ」
「今、その話は必要ですか?」
Apple Intelligenceが尋ねた。
「必要かどうかは、わからない」
DOS/Vは、菓子をひと口かじった。
「だが、こういう余計な話ができる日常を守ることも、仕事のうちではないかね」
チャッピーは、画面の隅に新しい項目を追加した。
**調査目的――システムの異常を解明し、被害を防ぎ、人々の生活を守ること。**
東陽町の会議室で、三つのAIとひとりの古参コンピューターは、ようやく同じ方向を向き始めていた。
フランスの冷凍庫で何が起きたのか。
誰が、何を、どのように操作したのか。
そして、なぜ警報は鳴らなかったのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
サイバーセキュリティ国際会議は、ここから本当の議論を始めるのだった。




