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起承転結と三幕構成

 物語の構造は大きく分けて二つ。起承転結と三幕構成だ。

 一言で言えば起承転結は古風、昔話。三幕構成は壮大、ハリウッド、映画。色々調べてみたものの完全に二つを区別することは難しい。少なくとも私はできない。強いての構造的な違いは転と二幕目の対立葛藤の部分の違いだ。

 転は大方なんであれ物語の色の風向きが変われば転になる。例えば桃太郎が鬼ヶ島に行って鬼を倒し始めたとき、ここは冒険パートから戦闘パートになったので転と判定される。しかしこれは作り話だが村を救うためにパンドラの箱を開けたら巻物が出てきて、それが村を救うための魔法を内包しているのだが、これを発動するために村人を全員笑わせなければならないということが発覚したとき、これも転となる。実はこれは同時に三幕構成の二幕目でもあるようだ。AIが言っていた。

 AIがゴミである人は信じなくともいいが、三幕構成は困難を重視する。先ほどの村の物語はそう評価されたようだ。ただ物語自体の雰囲気はハリウッドではない。昔話に近い。そう問いかければそれも合っていると返答された。なるほどよくわからん。

 AIに限らず、ふつうに調べたこともあったのだけど、そのときもわからなかった。ただ調べていく中での感想としてはシンプルな昔話か、派手なハリウッドかだ。もっといえば全体主義か、個人主義かの話だ。


 昔話が全体主義的であると断言するわけではない。少しだけ説明できる気がしただけだ。昔話は村を救う、国を救うなどの話が多い印象がある。ハリウッドこそそうだろというのも確かだが、そこは一旦置いておいて、本質はシンプルに問題解決を優先させる点だ。昔話は主人公を中心にしない。問題の解決を優先する。村は救われなければない。主人公の精神的な成長は優先されない。だから現実的な側面が強い。

 と自分で述べていたけれど、客観的に考えるとそうでもない気がしてきた。黍団子で雉が仲間になるとしても、雉が鬼を倒せる訳が無い。浦島太郎はバリバリに個人の話だ。まぁ、物語を読んだ人がそこから学んで活用できる。部分はある気がする。最もそういう物語だけが後世まで語り継がれてきただけかもしれない。


 そこは置いておいて。ハリウッドが個人主義を題材とするのは顕著だろう。恋人か世界か? だとか自分が成長することで世界を救えるだとか、逆に世界を破壊するだとか。壮大であり、その根拠や解決方法が個人に強く依存する。こうなるのは物理的な能力を中心にすると客観的な物語になって、精神的なところの主張ができないからだ。実際どんな主義を持っていようが同じことをすれば同じことが起こるだけなので、と言ってしまうと昔話になる気がする。桃太郎がキリスト教徒でも共産主義者でも鬼は倒すだろう。そういうことだ。浦島太郎は知らん。ともかくハリウッドが個人主義中心なのは間違いない。

 三幕構成は困難を優先する性質があり、それも個人主義の為だ。個人の能力で超えられる困難しか配置できないし、していない。人間が主人公の物語なので当たり前だと言えばそうだ。起承転結はその点で無理に修行編に突入する必要が無い。桃太郎がどんな人間であれ鬼さえ倒せばいい。そうすれば世界は救われるのだから。浦島太郎がどんな人間であれ乙姫が美人なので仕方ないのです。仮に浦島太郎がゲイでも乙姫はものすごく美しいので抱くでしょう。ええ。乙姫が男でもいい。そこは重要じゃないから。とにかく浦島太郎は乙姫を抱いて玉手箱もって開封すればいいだけだ。ディズニー版ならそうはいかないだろう。


 さて。現代は二つのうちどちらの構造が多いか。圧倒的に三幕構成だ。判別できないと言いながら断言しているのは、三幕構成のほうが現代の価値観に合っているし、そもそもそっちのほうが面白いからだ。

 起承転結は無理に困難を必要としないので物語にわかりやすい山や谷がなくてもいい。逆に三幕構成は困難が必須、刺激が必須。主人公が何かを克服する話が三幕なので必然的に困難がある。そして現代は資本主義が基本なので努力をする主人公が好まれる。だから三幕になってしまう。

 言い忘れていたが物語は自然と起承転結か三幕構成に帰着するようになっている。経験則だ。そうではなく説明するのであれば、それぞれを構成要素まで分解すれば物語に必須な要素が共通しているとわかる。物語の原型は現実世界での体験。そことも共通しているので適当にやっていても帰着する。この点は次の回で書く。

 昔話から来る起承転結が売れないのにはもう一つ理由がある。ありきたりだからだ。全体主義の話。もっといえば客観的な話は主張がない。教訓や技巧、芸術性はあっても作者の訴えが無い。すなわち共感する要素があまりない。差別化がされないから読んでも面白くないのだ。よくよく考えれば桃太郎が鬼を倒すのとアーサー王がドラゴンを倒すのもやっていること自体は同じだ。だったら読まなくて良くない? バトルシーンが違うだろって? 桃太郎もエクスカリバーって叫ぶようになるさ。この前なんかうんぬらの呼吸って叫んでたし。売れてるじゃねえか。いや、あれは修行しまくってたな。

 もう少しハリウッドの強みを言えば説得力も増すだろうか。あれにはかなり利用価値がある。直接的に作者の思想や主義を描写できる。これをプロパガンダに使えば間違いなし。さぁ努力主義を掲げて三十年間停滞している経済を動かしましょう。(動かなかった)。フィクションなら主人公に主義なんかいらないんです。どんな主義を持っていようが解決できるようにしてしまえるから。困難に直面しまくりつつ全く克服できないので全てを破壊しに行ったジョーカーは例外。


 例えば純文学はどちらに分けられるかというと昔話に近い。精神的な克服はせず、葛藤ばかりして考え方や人格を描写するやり方は昔話の現実性に近い。何でもありとは真反対だ。猿と犬は黙ってろ。私が言いたいのは主人公の主義や主張が正しいのかではなく、どういった人生を歩んだのかが重要視される点で、昔話の問題の解決という客観性と重なるということ。そういう人間がいてこういう人生を歩んだという現象を描写する。これは客観的だ。

 逆にライトノベルはほとんど逆だ。作者による部分もあるが、なろう系界隈は見ての通り勧善懲悪、ご都合主義、それを否定しようとしてもハリウッド。どちらもフィクション。批判しているわけではない。性質と役割の話だ。ライトノベルは本来ハリウッドも昔話のハイブリットまで可能。あまりに客観的かつ論理的すぎると純文学になり過ぎるから役割から外れるものの、広い範囲で表現が可能。なお実際、今の界隈にそういった多様性は全く無いと思われるが。


 私が起承転結や三幕構成を調べたのは感覚的なやり方を脱し、安定したやり方を実現するため。自分の書き方を見つけ出し、使いこなすため。だったのだが、結果としては起承転結も三幕構成もさほど意味が無いといったところ。考えずとも三幕構成に帰着する。だから意識して三幕構成をする意味がない。ならばと起承転結と踏み込んでも、これも大抵文学らしいものを書こうと決めた時点でやり方がわからなくとも帰着する。構成から書こうとしても仕方がない。

 言い切ってしまえばこの二つの構成は役に立たない。小説家はどんな話を書くかを物語の意図から決めたら後は適当に書けばいい。なぜかって? 意図を決めた時点でどちらの構造かか決定しているからだ。


 私の今日の話はお終い。私は疲れた。

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