SS: 焦がれた空(マリーナ視点)
巨大な機械仕掛けの『鉄のクジラ』が深海へと去ってから、数日が経過した。
海底都市アトランティアは、再び静寂と平和を取り戻していた。崩れかけた建物は魔法によって修復され、人魚たちは変わらぬ日常を送っている。
マリーナ姫は今日も、都市の中央にある大祭壇で、結界を維持するための『祈りの歌』を捧げていた。
透き通るような歌声が、都市全体を包むドーム状の結界へと染み渡り、深海の猛威から民を守る力となる。それは王族としての義務であり、彼女の誇りでもあった。
だが、歌い終わった後、彼女はいつも都市の一番高い塔の頂上へ登るのが日課になっていた。
そこからは、都市を覆う半透明の結界と、その向こうに広がる漆黒の海が見える。
「(あの上には、本当に青い天井があるのかしら)」
ここから見えるのは、永遠に続く暗い海だけだ。深海魚が放つ微かな光が、時折星のように瞬くだけの閉ざされた世界。
しかし、彼女の脳裏には、あの不思議な箱――異界の乗り物の中で見た映像が、今でも鮮明に焼き付いている。
果てしなく広がる青い空間。
世界を遍く照らす、燃えるような金色の太陽。
風に流され、形を変える純白の雲。
それは、深海の民が決して見ることのできない『空』という名の絶景だった。
「……私の歌声は、いつかあそこまで届くかしら」
マリーナは小さく口ずさんだ。
それは荘厳な結界維持の歌ではなく、あの車内で初めて伴奏付きで歌った、軽やかで自由な旋律だった。
いつか海面を超えてあの眩しい空の下で歌うことを夢見て。
彼女の歌声は、泡沫となって暗い海へと吸い込まれていった。




