第002話: 雪の中の聖女
ハッチが開くと同時に、暴力的な寒気が襲ってきた。
「うっ……!」
防寒コートを着ていても、肌を刺すような冷たさだ。
僕は顔をしかめながら、雪の中を駆ける。
倒れている少女までは十メートルほど。だが、その距離が永遠に感じられる。
近づくにつれて、奇妙な感覚に襲われた。
寒さとは違う、肌にまとわりつくような不快感。
「……瘴気?」
少女の体から、黒い靄のようなものが立ち上っている。
普通の人間なら触れただけで気分が悪くなりそうだが、僕の体には薄い光の膜――【マイホーム】の加護である個人結界が張られているため、影響はない。
「おい、しっかりしろ!」
少女の肩を抱き起こす。
反応はない。顔色は土気色で、唇は紫色に変色している。
そして何より、驚くほど軽かった。
まるで枯れ木を抱いているようだ。一体どれだけ食べていないのか。
「……急ごう」
僕は彼女を横抱きにすると、踵を返して車へと走った。
背後から魔物の咆哮が聞こえた気がしたが、無視だ。
今は一秒でも早く、この温かい城に彼女を入れてやらなければならない。
「ナビ、ハッチ閉鎖! 暖房出力最大!」
車内に飛び込むと同時に叫ぶ。
ウィーン、ガシャン。
重厚なロック音と共に、外の世界が遮断された。
途端に、静寂と暖気が僕たちを包み込む。
「外気温との差、四十度。急激な温度変化に注意してください」
「分かってる。……とりあえず、ゲストルームに運ぶよ」
僕は彼女を抱えたまま、リビングの奥にあるゲストルームへと向かった。
本来は友人を招いたときのために作った部屋だが、使うのはこれが初めてだ。
真っ白なシーツが敷かれたベッドに、彼女をそっと寝かせる。
「バイタルチェック」
「体温二十八度。低体温症です。それと、極度の栄養失調。魔力欠乏症も併発しています」
「ボロボロじゃないか……」
改めて彼女を見る。
着ているのは麻袋のような粗末な服。泥と煤で汚れ、髪もバサバサだ。
でも、その顔立ちは整っていて、泥を落とせばかなりの美少女に見える。
「とりあえず、体を温めるのが先決か。ナビ、クリーン機能起動。弱めで」
「承知しました。洗浄魔法、及びドライ機能、ソフトモードで実行します」
天井から淡い光が降り注ぐ。
生活魔法を応用した洗浄機能だ。服や体を濡らすことなく、汚れだけを分解・除去し、ついでに保温効果も与える優れものだ。
光が収まると、そこには見違えるように綺麗になった少女がいた。
銀色の髪がさらりと枕に広がり、頬に少しだけ赤みが差している。
「……よし、これで一安心かな」
僕は安堵の息を吐き、椅子に座り込んだ。
それから一時間ほど経っただろうか。
僕がキッチンでスープを作っていると、奥の部屋から衣擦れの音が聞こえた。
「ん……ぅ……」
様子を見に行くと、少女がゆっくりと瞼を開けるところだった。
透き通るようなアメジスト色の瞳。
彼女はぼんやりとした視線で天井を見上げ、それから自分の寝ているベッドに触れ、最後に僕を見た。
その瞳が、驚きに見開かれる。
「……あ」
彼女は掠れた声で何かを言おうとして、咳き込んだ。
僕は慌ててサイドテーブルの水差しから水を注ぎ、彼女の口元に運ぶ。
「無理に喋らなくていい。まずは水を」
彼女はコクコクと頷き、震える手でコップを受け取ると、一気に飲み干した。
「ぷはっ……! ……あ、甘い……?」
「ただの水だよ。浄水機能を通してるから美味いけどね」
彼女は信じられないものを見る目で空になったコップを見つめ、それから改めて僕を見た。
そして、とんでもないことを口走った。
「あの……ここは、天国でしょうか?」
「は?」
「こんなに暖かくて、お布団が雲みたいにふわふわで、お水が甘露のように美味しくて……。それに、目の前には黒髪の神様がいらっしゃる……」
彼女はうっとりとした表情で僕を拝み始めた。
「ありがとうございます、神様。私のような穢れた女を天国に招いてくださって……」
「……」
僕は頭を抱えた。
どうやらこの子、相当な天然らしい。
「訂正しておくけど、ここは天国じゃないし、僕は神様じゃない」
「え?」
「ここは僕の家(車)で、僕はただの通りすがりだ。名前はユウ」
「通りすがり……?」
彼女はきょとんとして、首を傾げた。
「通りすがりの方が、こんな魔法のようなお部屋を持っているのですか?」
「まあ、ちょっと特殊なスキル持ちでね」
僕は苦笑しながら、彼女の頭に手を置いた。
「とにかく、生きててよかったな。……名前、教えてくれるか?」
彼女は少し躊躇ってから、小さな声で答えた。
「……セリス。セリスと申します」




