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第九章 ――道の駅・フードコートで昼食を

 アメリカでは、車で大陸を横断し、長い道の途中で、何度も立ち止まった。

 クルーズにも乗り、アムトラックの車窓から、行き先の決まらない景色を眺めた。


 それらはすべて、「行くと決めたら行く」という、ただそれだけの決断から始まっている。


 旅には三つの条件が重ならなければならない、と、いつしか思うようになった。


 一つ目は金。

 二つ目は時間。

 三つ目は勇気。


 金があっても、時間と勇気がなければ行けない。

 時間があっても、金と勇気がなければ動けない。

 だが不思議なことに、一つ目と二つ目が足りなくても、三つ目――勇気だけで踏み出せる旅もある。

 実行するという勇気が、いちばん厄介で、いちばん大切なのだ。


 振り返れば、やってよかったことばかりだ。

 問題はいつも山積みだったが、「なんとかなる」そんな裏づけもない言葉に背中を押されて、ここまで歩いてきた。


 帰国後は、日本を巡った。

 稚内、利尻、礼文。

 四国、九州、佐渡。

 車でも、船でも、日本の名だたる土地を一通り回った。


 そして次に選んだのが、秘湯巡りだった。

 今度は、幅広くではなく、急がず、じっくりと、のんびりと。


 レンタカーでは限界がある。

 そう考えて、フリードを購入した。

 車中泊もできる。

 これで、旅の自由度は一気に広がった。


 いつまで続けられるかは分からない。

 だが今の目標は、日本の秘湯巡りだ。


 アメリカにいた頃、温泉を目当てに走ったことがある。アーカンソー州のホットスプリングス、カリフォルニアの温泉、ロッキー山脈の湯。

 そのたびに思った。

 ――日本の温泉は、やはり特別だ、と。


 今度向かう先は、湯の澤鉱泉。


 その途中で立ち寄った道の駅は、どうしてこんなにも混雑しているのだろうと思うほどの人出だった。

 駐車場は満車で、ようやく車を停め、フードコートへ向かう。


 自動販売機で食券を買い、次はテーブル探し。さっきまで空いていた席は、気づけばもう誰かのものになっている。

 発券機の前を行ったり来たりしていると、ちょうど目の前の人が食べ終えて立ち上がった。

 私はその席に滑り込んだ。


 セルフの給水機で、紙コップを所定の位置に置く。

 ……だが、水は出ない。


 少し戸惑っていると、七十過ぎと思しき、野球帽を被った男が横から口を出した。


「ここを押すんだよ。これは常識だ」


 そう言って、彼は私の紙コップを取り、レバーに押し当てた。紙コップはぐにゃりと曲がり、勢いよく水がこぼれた。


 それを見ながら私は、

「ここに置くと自動で水が出て、溢れる前に止まるの。これが常識よ」

 と、言えればいいのだが、小心者の私は、心の中でつぶやくだけだった。


 道の駅のフードコート。

 旅の途中の人間は、疲れているぶん、いつの間にか、自分の「慣れ」を正しさだと思い込んでしまう。


 常識という言葉は、使ったあとで、いちばん自分に刺さる。


 道の駅を出る前、私はあえて車に若葉マークを付けた。

 急ぐ旅ではない。

 周囲に無理をさせたくなかった。


 右折レーンに入り、信号が変わるのを待つ。

 青の右矢印が点いた、その瞬間だった。

 右脇から車がすっと割り込み、私の前を横切って曲がっていった。


 ――付き合っていられない。

 そんな運転に見えた。


 運転にも、二つある。

 若葉マークを労わる運転と、若葉マークを疎ましく思う運転。


 それは国の違いではない。

 その人の姿勢の問題だ。


 私は高速道路には乗らなかった。

 急ぐ旅ではない。


 一般道を走る。

 信号で止まり、

 歩道を歩く人の背中を眺め、

 商店の軒先に干された洗濯物を横目に見る。


 小さな交差点で、

 自転車の子どもが手を上げて渡っていく。

 軽トラックが脇道から出てきて、

 こちらに軽く会釈をした。


 特別な景色ではない。

 だが、どこにも急かされない時間が、そこには流れていた。


 高速道路では、きっと通り過ぎてしまうものばかりだ。


 残りの人生を思う。

 速さよりも、触れることを選びたい。


 いいところも、

 悪いところも、

 人の温もりも、

 無関心も。


 そのすべてを、

 一般道の速度で受け取りながら、

 走っていきたい。


 夕刻、湯の澤鉱泉に着いた。


 長い廊下を歩くと、

 磨き込まれた床が足音を静かに吸い込んでいく。

 すれ違う人もなく、

 ただ時間だけが、ゆっくりと流れていた。


 部屋の引き戸を開ける。

 障子越しの光が畳に落ち、

 余計なものは何もないが、

 不足しているものもない。

 この部屋は、黙って人を迎え入れる。


 やがて夕食の膳が運ばれてきた。

 川魚、季節の小鉢、湯気の立つ椀。

 それを丁寧に並べてくれたのは、海外から来た若いスタッフだった。


 言葉は多くない。

 だが、所作に迷いはなく、

 料理一つひとつを大切に扱っているのが伝わってくる。


 日本の山奥の宿で、

 日本の食事を、

 異国の人が運んでくる。


 不思議と違和感はなかった。

 この宿が守ってきたものは、

 国籍ではなく、姿勢なのだと思えた。


 秘湯とは、場所のことではない。

 こうして人の手を通して、

 静かに受け継がれていくものなのだろう。


 湯へ向かう前、

 私はもう一度、廊下を見渡した。


 道は、

 まだ続いている。


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