表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/12

第三章 ――五十年の旅路と、これから先の地図

 国の違いより、人の違いのほうが大きい。

 そんな言葉を耳にしたのはいつだっただろう。

 その意味を深く考えたことはなかった。

 ただ、ある夜の光景が、その言葉を静かに照らし出した。


 公演が突然の事情で中止になり、

 広いホールには観客の姿がひとりもいなかった。

 空席だけが波のように続き、

 照明が舞台を静かに照らしていた。


 その沈黙の中で、ひとりの歌手が舞台に立った。

 本番と変わらぬ衣装のまま、

 誰もいない客席に向けて歌い始める。


 声は空の座席へ吸い込まれ、

 またゆっくりと舞台へ返ってくる。

 拍手も歓声もないのに、

 その歌は確かに“誰か”へ向けられていた。


 ――ああ、これが“届ける”ということなのだ。


 言葉が分からなくても、震えは伝わる。

 涙の音は国境を越え、

 喜びは文化を選ばない。


 エンタテーメントとは、

 国を越える大きな力ではなく、

 ひとりとひとりのあいだに架かる

 細い橋のようなものだ。


 声はときに国境を越え、

 ときに沈黙すら越えていく。

 そして届く場所はいつも——

 “たったひとりの心”である。


 *


 来年の六月、

 夫婦になって五十年が過ぎる。


 その節目を前に、ふたりは

 少し早い記念の旅に出ることにした。

 出発の日の朝、

 鍵を閉める妻の背中が、

 どこか新しい景色に向かっているように見えた。


 *


 旅に出て三日目の夜だった。


 海沿いの小さな町に車を止め、

 窓の外で波の音がゆっくり砕けていた。

 その静けさに身を置いたとき、

 ふと、半世紀という言葉が胸に落ちてきた。


 半世紀という響きは重いが、

 振り返れば、不思議とあっけない。

 笑った時間よりも、

 黙って歩いた時間のほうが

 いつの間にか積もっていたのかもしれない。


 日本一周。

 車中泊で、ゆっくりと。

 湯を見つければ浸かり、

 雨に降られれば、どこか屋根の下へ逃げ込む。

 予定は白紙のまま。


 ただ、寅さんのように、

 風の向きに身をゆだねて進む旅。


 その計画を口にしたとき、

 妻は静かに笑った。


 五十年のあいだ、

 夫はずっと“決める側”の人間だった。

 家のことも、子どものことも、

 旅の宿も、食事の場所も。


 地図を開けば、

 彼が前に立つのが当たり前だった。


 だが今、

 地図は白紙のまま広げられている。


「どこに行ってもいい」

「どこにも行かなくてもいい」


 ただ二人でいる場所が“目的地”になる。

 そんな旅があっても良いと、

 ようやく思える年齢になったのだろう。


 *


 夕食後の静かな時間、

 彼はぽつりと言った。


「旅って、不思議だよな」


「不思議? どうして」


「どうして?」


「そう、“どうして”?」


「……そんなこと、自分で感じろよ」


 そこで会話はふっと途切れた。

 途切れたというより、

 言葉が自分の重みだけで静かに沈んでいった。


 五十年も連れ添って、

 どうして同じところで立ち止まれないのだろう――

 彼は、少しだけ寂しくなった。


 結婚したばかりの頃、

 妻は何事にも“はい”と答えた。

「あなたがそうしたいのなら」と迷いなく言い、

 どんな道でも彼の後をついてきた。


 変化が訪れたのは、いつからだったか。


 長男が生まれた頃はまだ同じだった。

 だが次男が生まれた頃から“はい”は六割に減り、

 三十年を越えるころには二割になり、

 四十年目には

 “はい”の前に「でもね」が置かれた。


 いまでは――


「何言ってるの!」

 が最初に飛んでくる。


 そして少し間を置いて、


「……しょうがないか。わかったよ」


 と柔らかく息を落とす。


 それだけではない。


 若い頃は、肩に手を置くだけで、

 ふっと彼女の体温が寄り添ってきた。

 触れることは、

 相手の心へまっすぐ届く“合図”だった。


 しかし今は、

 触れたときの感触がどこか曖昧だ。

 まるで自分の体の一部に触れているような、

 そんな錯覚すら生まれる。


 半世紀の時間が、

 二人の輪郭を少しずつ曖昧にし、

 いつの間にか“異体同心”へと

 静かに形を変えていったのだろう。


 *


「この歳になって思うんだ」

 彼は言った。


「旅って……行き先じゃなくて、誰と行くかなんだな」


 妻は静かに頷いた。


「急がなくていいよ。どこへも逃げないから」


 その言葉に、

 彼は胸の奥のどこかがふっとゆるむのを感じた。


 目的地のない旅には、不安もある。

 けれど行き先が決まっていないほど、

 会話はどこまでも広がっていく。


 誰かと旅に出るということは、

 同じ道を歩きながら、

 互いの心をもう一度、

 ゆっくり旅することなのかもしれない。


 *


 三日目の夜は、静かに更けていた。


 海沿いの小さな町で、

 夕方に見つけた古い温泉宿の駐車場に車を止めた。

 白い湯気が、暗がりの中へふわりと溶けていく。


「ここ、入れるみたいだぞ」


 彼が指差すと、

 妻は少し肩をすくめて笑った。


「どうせ入るんでしょ、あなたは」


 その声に、彼もくすりと笑った。


 五十年という季節の中で、

 二人のあいだには、

 どんな言葉よりも確かなものが

 いつの間にか育っていた。


 *


 湯に浸かった妻の肩に、

 湯気がしっとりとまとわりついていた。


「なあ、お前さ」

 彼は湯の表面を指でなぞりながら言った。


「五十年って……どうだった?」


 妻は驚いた顔を見せ、

 すぐに小さく笑った。


「急にどうしたのよ」


「なんとなく……ふと聞きたくなった」


 湯の音がぽちゃんと響く。


「……長かったわよ。

 でも、あっという間でもあった」


 少しだけ間を置き、

 妻は湯の端をそっと撫でた。


「あなた、歩くの早いんだもの。

 いつも追いかけてたわ」


 その言葉は、

 思いがけないほど静かに胸へ届いた。


「悪かったな」

 彼は湯の中で膝を見つめながら言った。


「お前がどれだけついてきてくれてたか……

 今になって分かるよ」


 妻は何も言わず、

 湯の中でそっと足を組み替えた。

 その仕草には、

 言葉よりずっと確かな“了解”が宿っていた。


 *


 夜、車に戻ると、

 窓の外で風がさらりと吹いた。


「寒くないか」

 彼が聞くと、


「平気よ。あなたがいるし」


 その何気ない言葉が、

 遠くの灯りよりも強い温度で胸を照らした。


「旅ってさ……景色を見るだけじゃないんだな。

 お前を、もう一度見ている気がする」


 妻は少し照れたように笑った。


「そんなこと……今さら言う?」


「今さらだよ。

 でも、言えるようになったんだ。やっと」


 しばらくして、

 妻は小さな声で呟いた。


「……嬉しいわよ。たまには言ってほしいの」


 窓の外で、波が静かに砕ける音がした。


 *


 白紙の地図は、何も語らない。

 だが、二人で歩けば、

 そこに細い道が現れ、

 季節の色がゆっくりと塗られていく。


 五十年の先へ続く旅は、

 きっと派手ではない。

 だがその静けさこそが、

 ふたりの灯りだった。


 言葉より先に、

 風の音より先に、

 相手の気配が届くような――

 そんな穏やかな季節が、

 もうしばらく続くのだと思えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ