第十一章 ――無言の湯
夜中と言うべきか、朝方と言うべきか。
時計を見ると、午前三時を少し回っていた。
この時間の湯は、まだ言葉を持たない。
夕方六時から翌朝までは、男女が入れ替わる。
この時間は、岩風呂になる。
長く、暗い廊下を歩く。
部屋を出ると、思ったよりも肌寒い。
昼の気配は、もう完全に消えていた。
背後で、物音がした。
一瞬、「熊」という言葉が浮かぶ。
だが、ここは外ではない。
それでも、その足取りは重く、
人のものとは思えないほど、ゆっくりだった。
同じように、風呂へ向かう人らしい。
脱衣所で、私は先に声をかけた。
「おはようございます」
先に言ったほうが、気持ちがいい。
それだけの理由だった。
返事はなかった。
ちらりとこちらを見ただけで、
その人は無言のまま、湯へ入っていった。
湯船でも、言葉はなかった。
私は、湯を動かさないように、そっと身体を沈める。
波紋が立たないように、呼吸も浅くする。
向こうも、同じように黙って湯に浸かっている。
視線が合うことはない。
ただ、同じ湯に、同じ時間を預けているだけだった。
長く感じたが、
実際には、そう長くはなかったのだろう。
先に、その人が立ち上がった。
桶の音。
足音。
それだけを残して、
無言のまま、脱衣所へ消えていった。
一人になった。
湯の音が、戻ってくる。
自分の呼吸の音が、はっきりと分かる。
私は、そこでようやく、力を抜いた。
「ああああ」
声にならない声で、背中を伸ばす。
湯を、少しだけ動かす。
肩が、ゆっくり沈む。
――これが、本来の自分なのだろう。
誰もいない湯船で、
夜は、また静かに、川のものへ戻っていった。
脱衣所の隅に、客のコメントノートが置いてあった。
走り書きの文字。
几帳面な文字。
にじんだ文字。
それぞれの人生の模様が、
短い行間から、にじみ出ている。
部屋に戻っても、眠りは浅かった。
温泉が好きなのか、貧乏性なのか。
五時半になって、もう一度、湯へ向かった。
温泉が好きなのか、貧乏性なのか。
五時半になって、もう一度、湯へ向かった。
先客がいた。
湯船に、すでに浸かっている。
朝は、「おはようございます」から始まるものだと思っている。
私は、そう言った。
返事はなかった。
三時にいた、その人だった。
無言の湯。
無言の人。
隣の湯船からは、別の世界が聞こえてくる。
「おはよう」から始まり、
「私? 八十四よ、八十四」
「あらあ、若いごと。肌だってピチピチして」
「そんなことないわよ。お宅だって若いわよ。八十六?」
「七十七ですよ」
「あらま」
楽しそうな声が、湯気の向こうで弾んでいる。
ここは沈黙の世界だというのに、朝は、容赦なく、音を連れてくる。
チェックアウトの朝。
受付の前に、六人組の五十代の女性たちがいた。
一番年上らしい人が、親分肌で、会計をまとめようとしている。
「一人ずつだと混むから、私が払うわね。あとで頭割りで」
すると、横から声が出た。
「あら、それって、ポイント独り占めってことよね」
「え? 独り占め? 何のこと?」
「だって、そうでしょ」
今は、言うことをはっきり言う時代なのだ。
とくに、損得の話になると。
少し、空気が張った。
「じゃあ、ポイントなしでいいわ。こんなの、いらないから」
「それも、もったいないじゃない」
揉めながらも、
結局、まとめて支払うことになった。
親分肌の女性が、カードを差し出す。
「これでお願いします」
受付の人が、少し困った顔をして言った。
「申し訳ありません。うちは、現金のみなんです」
一瞬、場が止まった。
誰も悪くない。
だが、誰も得もしていない。
それでも、しばらくして、
皆が、なんとなく納得したように動き出した。
こういう朝も、ある。
宿を出ると、川の音がした。
昨夜と、同じ速さで流れている。
ふと、思った。
――夜の無言も、
――朝の小さな揉め事も、
――どちらも、この場所の一部なのだ。
特別な出来事ではない。
だが、確かに、旅の一部だった。
彼女の呼吸が、隣で、ゆっくりと整っていく。




