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第十章 ――口癖は、「大丈夫」  

 夜は、思ったより早く、深くなった。

 時計の針は見ていなかったが、湯のあとに飲んだお茶が、すでに少し冷めている。


「寒くないか?」


 私は、そう言った。

 心配というより、確認に近い声だった。


「大丈夫」


 彼女はそう答え、それ以上、何も足さなかった。


 沈黙が、昔よりも長く続くようになった気がする。

 だが、不安ではない。

 ただ、埋めなくてもよくなっただけだ。


 彼女は、膝の上で手を組んでいる。

 指の節が、少し太くなった。

 自分の手も、きっと同じだろう。


「さっきの話だけど」


 彼女が、目を合わせずに言った。


「どの話?」


 分かっていたが、あえて聞き返した。


「年末のこと」


 少し間があった。

 その間に、廊下を歩く音が、遠くで一つ消えた。


「前に行った天然温泉 伊勢崎ゆまーる、悪くはなかったわよ。年末年始は温泉旅館は高くなるし」


 “悪くはなかった”。

 若い頃なら、それだけで十分な賛成だった。


「でもね」


 また、その言葉だ。


「同じところに行くのは、もういいかなって」


 声は低い。

 否定ではなく、自分の体調を確かめるような言い方だった。


「新しいところは、疲れないか?」


 私はそう聞いた。

 反論というより、確認だった。


「疲れるわよ」


 彼女は、即答した。


「でも、せっかく行くのにまた同じところに行くって、なんだか」


「年末年始だから失敗したくないだけなんだ」


 私は、ぽつりと言った。


「失敗しない旅なんて、ないでしょう」


 声は、穏やかだった。

 責める調子ではない。


「昔だって、道を間違えたり、宿が思ってたのと違ったり、いっぱいあったじゃない」


 そう言われて、思い当たることが、いくつも浮かんだ。


「それでも、帰ってくると、全部“いい旅だった”って言ってた」


 私は、何も言わなかった。


 彼女は続けた。


「失敗が怖いんじゃなくて、やり直しが、少なくなったって感じるだけよ」


 その言葉は、静かだったが、重かった。


「じゃあ、どうする?」


 私は聞いた。


「分からない」


 彼女は、はっきりそう言った。


「分からないけど、決める前に、まだ見てない景色があるなら、そっちを見てみたいだけ」


 しばらくして、彼女は小さく笑った。


「歩くの、遅くなったでしょう。私たち」


「お互いさま」


 そう言うと、彼女はうなずいた。


「だからね、遠くまで行かなくてもいいの」


「近くでも、初めてなら、それでいい」


 私は、その言葉を、胸の中で何度か転がした。


 新しい場所、というのは、距離のことではないのかもしれない。


「じゃあ、また一緒に探す?」


 そう言うと、彼女は少しだけ、安心したように息を吐いた。


「ええ。急がなくていいわよ」


 時計の音が、一つ、部屋に戻ってきた。


 二人の声は、いつの間にか、同じ高さになっていた。


「朝食は、何時だっけ」


 私がそう言うと、彼女は少し考える素振りもなく答えた。


「七時……じゃないわ。八時よ」


「七時だと思ってた」


「違う。八時」


 声は低く、はっきりしていた。

 言い切るときの彼女は、いつも正しい。


「七時半じゃなかった?」


「八時。それから、急がないで。この前、熱いのこぼしてたでしょう」


 私は何も言わなかった。


 湯呑みを持つ手が、ほんの少し遅れて動いたあの瞬間のことを、彼女は覚えている。


 まるで、子どもを注意するような言い方だった。


「分かってる」


 そう言ったつもりだったが、声にはならなかった。


 以前なら、こんなことはなかった。


 歩く速さも、曲がる角も、次の休憩も、昼に何を食べるかも、宿を出る時間も、私が先に口にしていた。


 冗談半分に、そう言えた頃があった。


 だが今は、その言葉が、喉の奥で引っかかって出てこない。


 彼女は、私の前を歩いているわけでもない。

 後ろにいるわけでもない。


 ただ、先に気づいているだけだ。


 朝の廊下は静かだった。畳に足を下ろすと、昨日よりも、床が少し冷たい。


「転ばないでね」


 彼女が、振り向かずに言った。


 私は、返事をしなかった。


 返事をすると、何かが決定的になる気がした。


 食堂の入口で、彼女は立ち止まった。


「八時って言ったでしょう」


 その声は、責めていなかった。

 ただ、確認しているだけだった。


 私は、時計を見た。


 七時五十八分。


「……間に合ったな」


 そう言うと、彼女は、少しだけ口元を緩めた。


 食堂には、同じような年恰好の夫婦が、いくつか座っていた。

 会話はなく、だが、空気は穏やかだった。


 配膳の盆を持った宿の人が来て、


「今朝は、少しやわらかめにしてあります」


 とだけ言った。


 説明はなかった。

 だが、十分だった。


 味噌汁を一口含む。

 味は、薄く感じた。

 だが、物足りなくはなかった。


 身体が、強いものを欲しがらなくなっている。


 彼女は、ゆっくり噛んでいる。


「どう?」


「ちょうどいい」


 それは、味のことだけではなかった。


 箸を置き、彼女が小さく息をつく。


「急がなくて、よかったわね」


 私は、黙ってうなずいた。


 廊下を戻りながら、思った。


 先を歩くか、後を歩くかではない。


 同じ時間を、同じ速さで、受け取れるかどうかだ。


 彼女は、私の少し前でも、少し後ろでもなかった。


 ただ、隣にいた。


 そして、思う。


 隣にいてくれて。


 ここまで引っ張ってくれて。

 ここまで飛ばしてくれて。

 陰で支えてくれて。


 勇気をくれて。

 背中を押してくれて。


 口癖は、「大丈夫」それだけだった。


 振り返れば、それが、二人の生きてきた証であり、生きてきた歴史だった。


 どんな言葉が似合うのか、いまだに、分からない。

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