第六章 さらば
―――六月二十日午前十一時三十二分
「っち、くえないやつらだな。」
エルンスト・フォーゲル中佐は猫をあやしながらそうぼやく。
「軍令部はなんと?」
「本要塞は戦略的価値を喪失した、ただちに撤収の要ありと判断する。民間人を全員避難させよ、そのために必要な輸送船四十二隻、病院船二隻、徴用船二十八隻を送る。だとさ。」
副官はやや驚きつつも
「よかったではありませんか!これならできますな。」
中佐は葉巻を吸いながら、
「これができるんだったらもっと早くしてほしかったものだ。これで昼寝ができなくなった。」
副官が歩いてすぐ資料を整えた。
「部長、全民間人の名簿と、輸送船の収容人数の資料、要塞内のルート資料をとりあえず揃えました。」
「ん、ご苦労様。では、これから勤労せにゃいかんぞ」
「第一区画の千百十四名を十分割して当日の一時に集合、一番集団は三番ルートを使用し、十五番ドッグへ移動……」
彼は、めずらしく一日、徹夜で事務作業に没頭した。
夜が深まるにつれ、空気は紙のように乾いていった。エルンストは背筋を伸ばしたまま、何時間も同じ姿勢で書類に向かっていた。目の奥がじんじんと焼けるようだ。だが、時計を見ることはしなかった。時間見ると眠気が誘発されそうになるから。
頭の中では、数字が踊っていた。兵員数、補給量、移動距離、避難民の数。それらが脳の裏側でぶつかり合い、時折、意味を失って崩れ落ちた。
これはある意味、彼の処理能力が尋常じゃないことを示していた。
―――次の日
エルンストは終わった瞬間叫んだ。
「やったーーーー!終わった。寝る。」
彼はそのあとベッドに横たわりすぐに夢の国への入場を果たした。
一方、フラーゼはベール回廊内で艦隊指揮を執っていた。
―――ベール回廊内
「全艦艇後退しつつ、陣形を維持しろ、どうせやつらの航行距離など知れている。」
フラーゼは一時、第一、第二、第三艦隊の総司令を務めることになった。
なぜなら、反乱軍がなんと三個艦隊で回廊内に進出したのだ。
事前に、フラーゼは第一分艦隊を派遣しあらかたの反乱軍の補給基地を破壊したため、一気に要塞に迫れないことはわかっていたため合同演習もかねて三個艦隊を指揮した。
帝国艦隊が引くと、反乱軍も引いていった。
そしてそのままベール要塞に進路をとった。
無線室の空気が、突如として凍りついた。
若い無線員は、モールス信号で送られた暗号文を二度、三度と読み返した。
そして、
「え?そんな、あほな。」
その声は、あまりに素直すぎて、軍務の場には不似合いだった。
フラーゼは即座に聞き返した。
「なにがそんな『あほな』だ?」
無線員が慌てて言い直した。
「閣下、フェンメルが同盟、反乱軍によって軍事占領、同盟軍はリーメ回廊から侵入したとのことです。」
「なんだと!」
「本当なのか!」
高級士官たちは驚きのあまり取り乱してしまった。
フラーゼはこれを聞き、ただ何もいわず、
「そうか」
とつぶやいた。
自分に今できることはない。
ただ単にそう思っただけだった。
***
フラーゼ率いる艦隊が、ベール要塞につくと目についたのは大量の輸送船団だった。
高級士官たちがまたもや驚きを隠せない様子だった。
無線員がまたもや唖然としたが、すぐに落ち着きを取り戻し報告した。
「閣下、ベール要塞より通信入りました。」
フラーゼはいつも通りの口調で
「読め」
「は!ベール要塞放棄、およびベール方面からの撤収命令が下された。放棄予定日時二十七日午前十二時は、それにともなう民間人避難は明日午前十時をもって完了予定、ベール方面艦隊はこれの護衛を要請」
この報はかなり高級士官の動揺を誘った。
これに対し、フラーゼは落ち着いた様子でつぶやいた。
「軍令部もまともな命令を出すものだな。」
参謀長はこれに疑問をもって
「なぜでありますか?理由をお聞かせ願いたい。」
「今、ベールを保持したところでフェンメルは突破されている。今までベールを保持していればよかったが今回の出来事によってその戦略的価値は急激に低下した。ここの維持費とこの艦隊をもっと効率よくつかいたいようだな。」
冷静な分析に高級士官はただうなずくだけだった。
「一個艦隊づつループで護衛に当たれ、他の艦隊は一時要塞に寄港、荷物を整理しろ。」
艦隊が次々と要塞に吸い込まれた。
一方ベール要塞内では続々と避難が開始されていた。
―――ベール要塞内
「これより第四居住区の避難を開始します。みなさん落ち着いて二列に並んでください。焦らなくても船はございます。」
憲兵隊の兵士が落ち着いた様子で避難民の誘導を行っていた。
老若男女、荷物を抱えた者、手を引かれる子ども、杖をつく老人。
様々な人々でごった返していたが、一定の秩序を持っておりパニックにはなっていなかった。
「次、三番ルートで第十一グループの十二番集団 百四十六名」
憲兵隊の号令で、白い腕章をつけた兵士たちが列を整理しつつ誘導を行った。
無機質な金属床に等間隔のカンカンという靴音が響く。
空調の風が肌に冷たく、遠くから油と機械の匂いが漂ってきた。
人々は黄色いラインを淡々と歩いていた。
黄色いラインは乗り込み口まで続いている。
歩いてる中、乳飲み子が泣き始めたり、老人が倒れるなどのハプニングが発生したもののそれ以外は順調に運び彼らは輸送船の乗り込み口についた。
船体に書かれている帝国の双頭の鷲がややくすんでいる。
船体の古い証拠だ。
船体に乗り込み市民たちは様々なことを語った。
***
ある老人は、弱弱しい声で
「俺はここで育って、ここで家庭を持ち、孫を持った、だからここで死ぬ予定だったんだがな。」
五歳ほどの子どもが母親の手を握り、上目づかいで尋ねる。
「もう、おうちには帰らないの?」
母親が言葉を詰まらせた瞬間、隣の中年の男が笑みを作って口を挟んだ。
「坊や、これからみんなでピクニックに行くんだ。だからすぐ帰ってこられるさ」
「そうなんだ。おじさん、ありがとう。ねぇママ、本当?」
母親もまた作り笑顔で応じた。
「うん……またすぐ帰ってこられるわ」
その横顔を見た中年の男の目は、かすかに潤んでいた。
***
―――午前五時二十三分ベール要塞 第五乗り込み口
「部長、第十一グループ、避難完了まで残り五時間。輸送船団の収容率は現在、三十八パーセント。第十二グループ、第九集団、移動開始。憲兵隊は第三区画の誘導を開始。」
エルンストは書類にチェックをして、
「よし、第十三グループを全員出して整列させろ。」
エルンストは淡々と自分に与えられた職責を全うしていたが、心に重いものを感じていた。
軍大学を十八で卒業して以降、ベール要塞に配属され、ずっとここで勤務し続けた。
鉄と油くさいにおいも、殺風景な空も……全て彼にとっては懐かしいのだ。
ベール要塞は自分にとって第二の故郷になっていた。
輸送船団のまわりにはフラーゼの艦隊が護衛のため囲んでいた。
それは鋼鉄の衛兵のようだった。
彼らも別れを言いに来たかのような雰囲気を漂わせていた。
***
―――とある部屋にて 午前八時十三分
フラーゼは自室に戻った。
いつも通りの部屋にいつも通りの景色……これがもういつも通りではなくなるのか……。
残念に思いつつ、自室においてある思い出の品を二つバッグに入れた。
一つは、軍大学卒業時、校長から授与された短剣である。
誇り高き双頭の鷲が刻印されている。
一つは、写真である。
エルンストとの写真だ。
改めてみると私もやや年を取ったなと思いつつバッグにしまった。
自室から出る際、普段はいわないようなことを口にした。
「お疲れ様、今までありがとう。」
そのまま自室を出て改めて廊下の様子、空の風景を目に焼き付けた。
***
―――午前十時四十三分
「部長、全民間人の避難および資材の運び出し完了しました。」
「うん、これより爆破作業を行う、ドッグの爆破作業を行う。予定通りに。」
「はい。」
エルンストは、要塞の完全爆破ではなく、ドッグ、燃料貯蔵庫など戦略的に重要な部分のみの爆破を行う予定をすでに組んでいた。
爆破作業チーム二百四十二名がドッグ内の爆発物の設置に向かった。
「シャルロットよ。お前も、もうこことはおさらばだ。よく見とけよ。」
彼は自分の飼っている猫に要塞の様子を見させた。
副官がやや残念そうな声で
「ここはみんなの家だったんですね。」
「まあ、仕方ないさ、みんなそう思ってるからここまでスムーズにいったんだよ。」
そうでないとここまでスムーズにことが進まなかったことは彼には分っていた。
***
―――十一時二十五分
副官は冷静に報告した。
「部長、全爆破物設置完了しました。」
「よし、全員避難せよ、爆破時間は午前十二時を予定」
「はい、ボタンはこれです。」
差し出されたのは、簡素なボタンだ。
このボタンを押すとすぐに爆破される。
軽いようできわめて重いボタンを黙って受け取り、乗船口まで歩いた。
彼は船に乗る瞬間、要塞に敬礼し
「ご苦労様。」
といった。
爆破班、補給士官たちもそれにならい、一斉に敬礼した。
***
十一時五十八分 第三艦隊旗艦ブランデルブルク内
「民間人十万二千六十三名の避難完了、十二時、部分爆破予定であります。」
エルンストは書類をフラーゼに手渡した。
「ご苦労、よくこの短期間の間にやってくれた。」
「恐縮であります。」
そして黒いきんちゃく袋からボタンが出てきた。
「閣下、ボタンをお渡しします。」
「分かった。」
フラーゼは書類を作戦卓において、十二時なるのを待った。
わずか二分間だが、その沈黙は無限のように感じられた。
フラーゼは懐中時計をみながら、その時を待った。
「五、四、三、二、一、爆破」
六月二十七日、午前十二時零分零秒。
要塞が爆破された。
部分爆破ではあるものの爆発の炎が見えた。
約二百メートル離れていたもののはっきりと爆破されたことが分かった。
***
「ママ、あれはなに?」
六歳の子供は疑問の目と声を持って聞いた。
「あれはね、大きな花火なの」
その輸送船では、数秒の沈黙のあと、悲しみが人々を襲った。
何名かはすすり泣きをした。
多くのものにとってベール要塞は、戦略的要所ではなく、故郷だったのだ。
すすり泣きの音がただ響き、エンジンは単調に音を立てるだけだった。