飛べない依頼も空飛んで解決! ドラゴン少女にお任せあれ
王都の迷路のような路地裏、その一番奥まった場所にある古い時計塔。今はもう時を告げる鐘を鳴らすこともないその塔の、埃っぽい屋根裏部屋が、リディアの「事務所」兼「住処」だった。
窓からは、瓦屋根が連なる下町の風景が一望できる。洗濯物が風に揺れ、パン屋から漂う甘い香りが、開け放たれた窓を通って部屋に満ちていた。部屋の中は、お世辞にも整頓されているとは言えない。壁には依頼のメモが雑多に貼られ、床には用途不明のガラクタや、読みかけの本、キラキラ光るガラス玉などが散らばっている。その中心で、部屋の主であるリディアは、大きなマグカップに入ったホットミルクをすすりながら、ご機嫌な様子で尻尾をぱたぱたと揺らしていた。
リディアは、ドラゴンだ。とはいえ、街を焼き払うような恐ろしい存在ではない。見た目は十代半ばの、赤毛が鮮やかな人間の少女。ただ、頭には小ぶりだが硬質な二本の角が生えており、服の裾からは爬虫類を思わせる艶やかな鱗に覆われた尻尾が伸びている。普段は人間の姿で過ごしているが、その気になれば、巨大な翼を持つ本来の姿に戻ることもできる。
そんな彼女の仕事は、この下町における「なんでも屋」だ。
「リディアさーん! ちょっとお願いがあるんだけど!」
階下から威勢のいい声が飛んできた。パン屋の女将さんだ。
「はーい! 今行くー!」
リディアはマグカップを置くと、身軽に窓枠に足をかけ、ひらりと屋根の上に降り立った。そのまま数メートル下の石畳に軽やかに着地する。人間離れした身のこなしだが、下町の人々はもう慣れたものだ。
「どうしたの、おばちゃん?」
「それがね、うちの看板猫のミケが、また魚屋の屋根に登っちゃって降りてこないんだよ。梯子じゃ届かなくてねぇ」
困り顔の女将さんが指さす先を見ると、確かに三毛猫が魚屋の屋根の上で香箱座りを決め込み、ふてぶてしい顔でこちらを見下ろしていた。
「もー、ミケったら。しょうがないなあ」
リディアはくすくす笑いながら、軽く地面を蹴った。ふわりと体が浮き上がり、あっという間に魚屋の屋根に到達する。
「ほら、ミケ、帰るよ。おばちゃん心配してる」
優しく声をかけると、ミケは「にゃーん」と甘えた声を出してリディアの足元にすり寄ってきた。リディアはミケをひょいと抱き上げると、再び軽やかに地上へ降り立つ。
「はい、おばちゃん。無事救出!」
「ああ、助かったよ、リディアさん! いつもありがとうね。これ、お礼。今日焼いた新作のクリームパン」
「わーい! ありがとう!」
ほかほかのクリームパンを受け取り、リディアは満面の笑みを浮かべた。これが彼女の日常であり、仕事の対価だ。お金をもらうこともあるが、美味しいお菓子や、珍しいガラクタの方が、彼女にとっては価値がある。
ドラゴンとしての力は、こういう時にこそ役立つ。怪力で重い荷物を運んだり、ちょっとした火(もちろん安全に配慮している)を噴いてお祭りの屋台の火起こしを手伝ったり、子供たちの凧揚げを手伝って、風のない日でも空高く揚げてみせたり。時には、その飛行能力を使って、王都の外れまでお使いを頼まれることもある。
人々は、リディアがドラゴンであることを知っている。最初は驚き、恐れる者もいたが、彼女の人懐っこい性格と、困っている人を放っておけない優しさ、そして何より、その力を決して悪用せず、むしろ人々のささやかな日常を助けるために使っている姿を見るうちに、次第に受け入れ、親しみを持つようになっていった。今では、下町に欠かせない人気者だ。
「ドラゴンが便利屋なんて、変わってるって言われるけど、私はこの仕事、結構気に入ってるんだよね」
クリームパンを頬張りながら、リディアは事務所の窓辺に戻り、賑やかな下町の様子を眺めた。大きな力を持つことは、必ずしも大きな責任や、重い運命を背負うことだけを意味するわけじゃない。こうして、誰かの「ちょっと困った」を解決して、笑顔を見られることが、リディアにとっては最高の喜びだった。
そんなある日の午後、事務所の扉が控えめにノックされた。いつも威勢よく訪ねてくる下町の住人たちとは違う、少し遠慮がちな音だ。
「はーい、どうぞー」
リディアが声をかけると、扉がゆっくりと開き、一人の男性が入ってきた。年の頃は三十代半ばだろうか。少し癖のある茶色の髪に、度の強そうな眼鏡をかけている。着ているのは、仕立ては良いが、あちこちにインクの染みや、何かの薬品で焼けたような跡がある白衣だ。いかにも研究者といった風貌の男性は、部屋の中を興味深そうに見回した後、リディアに向き直った。
「あなたが、リディアさんですね? 噂はかねがね。王立研究所のアルトと申します」
「研究所の人? わあ、すごい! 私に何か御用ですか?」
目を輝かせるリディアに、アルトと名乗る研究者は少し困ったように眉を寄せた。
「ええ、実は…非常に特殊な依頼でして。あなたにしか頼めないことなのです」
「私にしか頼めない?」
リディアは興味津々で身を乗り出した。尻尾が期待にわくわくと揺れる。
「はい。人里離れた北の霊峰、『風切り山』の山頂付近にしか存在しないと言われる特殊な鉱石、『星屑の石』を採取してきていただきたいのです」
アルトは一枚の羊皮紙を取り出し、そこに描かれた鉱石のスケッチをリディアに見せた。それは、夜空のような深い青色の中に、銀色の細かな粒子がきらめく、美しい石だった。
「風切り山…聞いたことあります。すっごく高くて、崖が切り立ってて、普通の人は近づけないって」
「その通りです。気流も不安定で、飛行船でも近づくのは困難です。ですが、我々の研究に、どうしてもその鉱石が必要なのです。もちろん、危険な依頼であることは承知しています。報酬は弾みますが…」
アルトの言葉を遮るように、リディアはぱっと顔を上げた。その瞳は、冒険を前にした子供のようにキラキラと輝いていた。
「面白そう! やります! 星屑の石、ですね? 任せてください!」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」
アルトは心底安堵したように息をついた。
「報酬は…」
「うーん、そうだなあ。研究所って、面白いものたくさんありますか? キラキラしてたり、変な形だったりするやつ!」
「え? ああ、まあ…実験器具の失敗作とかなら、そういうものもあるかもしれませんが…」
「じゃあ、それがいいです! あと、美味しいお菓子も!」
あっけらかんと言うリディアに、アルトは一瞬呆気にとられたが、すぐに苦笑いを浮かべた。
「…承知しました。必ずご用意します。くれぐれも、無理はなさらないでください」
「はーい!」
元気よく返事をすると、リディアは早速準備に取り掛かった。準備といっても、水筒と、道中で食べるためのお菓子を小さな革袋に詰めるくらいだ。彼女にとって、空を飛ぶことは、散歩に出かけるのと同じくらい自然なことだった。
窓から飛び出し、人気のない路地裏で、リディアは深呼吸をした。体に力を込めると、その姿がみるみる変化していく。手足は太く、頑丈な鉤爪を備えたものになり、肌は硬質な赤い鱗に覆われる。背中からは巨大な皮膜の翼が広がり、頭部の角はさらに大きく、威厳を増した。ほんの数秒で、可愛らしい少女の姿は、全長十メートルを超える堂々たる赤竜へと変貌を遂げた。
「よし、行くぞ!」
力強く地面を蹴り、巨大な翼を打ち振るう。轟音とともに体が宙に舞い上がり、あっという間に王都の空高くへと昇っていく。眼下には、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような王都の街並みが広がり、その先には緑の平原と、雄大な山々が連なっていた。
風が心地いい。翼を打つたびに、ぐんぐんと高度が上がっていく。下界の喧騒は遠ざかり、空にはリディア以外、誰もいない。鳥たちが驚いて横切っていくのを、楽しげに目で追う。時折、雲の合間を縫うように飛び、柔らかな雲の感触を肌で楽しんだ。これこそ、ドラゴンであることの特権だ。誰にも邪魔されない、自由な時間。
目指す風切り山は、王都から北へ半日ほどの距離にある。鋭く尖った峰々が連なり、その名の通り、常に強い風が吹き荒れている難所だ。近づくにつれて、気流が乱れ始めるのが分かった。並の鳥や飛行船なら、あっという間にバランスを崩してしまうだろう。だが、リディアにとっては、少し手応えのある遊びのようなものだ。
「ふふん、このくらい!」
巧みに翼を操り、突風を受け流し、渦巻く気流を乗りこなす。まるで空のダンスを楽しんでいるかのように、リディアは軽やかに風切り山の懐へと分け入っていった。
目指す山頂は、鋭い岩が天を突くようにそびえ立ち、万年雪に覆われている。アルトの示したスケッチを頼りに、リディアは岩肌を注意深く観察した。そして、切り立った崖の中腹、氷河に縁取られた小さな洞窟の入り口付近で、目当てのものを発見した。
「あった! 星屑の石!」
そこには、スケッチで見た通りの、夜空を閉じ込めたような美しい鉱石が、岩盤に埋まるようにして存在していた。大きさは、人間の頭ほどだろうか。慎重に爪を使い、周囲の岩を少しずつ削りながら、鉱石を傷つけないように丁寧に取り出す。ずしりとした重みが、爪先に伝わってきた。
「きれい…」
太陽の光を浴びて、鉱石内部の銀色の粒子が一層きらめきを増す。まるで本物の星屑が、手のひら(爪先だが)の上にあるかのようだ。リディアはしばらくその美しさに見とれていたが、はっとして鉱石を大事に抱え直した。
帰り道も、リディアは空の散歩を満喫した。夕焼けに染まる雲を眺め、眼下に広がる世界の美しさを堪能する。ドラゴンの力は、破壊や支配のためだけにあるのではない。こうして、美しいものを見つけたり、誰かの役に立ったりするために使うことだってできるのだ。
王都に戻り、再び人間の姿に戻ると、リディアはまっすぐ王立研究所へと向かった。アルトは、リディアが無事に持ち帰った星屑の石を見て、子供のようにはしゃいで喜んだ。
「素晴らしい! これです、これです! まさに求めていたものです! リディアさん、本当にありがとう!」
アルトは興奮冷めやらぬ様子で、鉱石を様々な角度から眺め、特殊なルーペで観察している。
「どういたしまして! それ、何に使うんですか?」
「これはですね、古代の魔導技術のエネルギー源に関する研究に使うのです。この石には、非常に高密度で純粋な魔力が凝縮されていて…」
アルトは専門用語を交えながら熱心に説明を始めたが、リディアは途中から上の空だった。難しい話はよく分からないけれど、とにかくこのキラキラした石が、何かの役に立つらしい。それだけで十分だった。
「…というわけで、この発見は画期的なんですよ!」
一通り説明し終えて満足したらしいアルトは、約束の報酬をリディアに手渡した。大きな紙袋いっぱいに詰められた、色とりどりの焼き菓子と、奇妙な形をしたガラス製の試験管(アルト曰く、実験の失敗作で、もう使わないものらしいが、リディアにはそれが宝物のように見えた)だった。
「わーい! ありがとうございます!」
お菓子とキラキラ光るガラス管を受け取り、リディアは満面の笑みを浮かべた。危険な任務だったかもしれないが、美しい景色を見られたし、珍しい石を見つけられたし、そして何より、美味しいお菓子とキラキラのガラクタを手に入れられた。大満足の成果だ。
夕暮れ時の下町を、リディアは鼻歌交じりに歩いていた。すれ違う人々が、「おかえり、リディアちゃん」「今日の報酬は豪華だねえ」と声をかけてくれる。
「ただいまー! 今日はね、すっごく高い山に登ってきたんだよ!」
リディアは今日の冒険を、目を輝かせながら話して聞かせた。人々は、驚いたり感心したりしながら、楽しそうに耳を傾けてくれる。
時計塔の屋根裏部屋に戻り、窓辺の椅子に腰を下ろす。買ってきたばかりのお菓子を一つ、口に放り込む。甘い味が口いっぱいに広がり、幸せな気分になった。窓の外では、家々の窓に明かりが灯り始め、夕餉の匂いが漂ってくる。今日手に入れたガラス管を光にかざしてみると、夕陽を受けて虹色に輝いた。
「やっぱり、ここが一番だなあ」
リディアは小さく呟いた。ドラゴンとして生まれた宿命とか、大きな力に伴う責任とか、そういう難しいことはよく分からない。けれど、この温かい下町で、ささやかな困りごとを解決して、人々の笑顔を見て、美味しいものを食べて、キラキラしたものを集める。そんな毎日が、リディアにとってはかけがえのない宝物だった。
空には一番星が瞬き始めている。あの星屑の石も、今頃アルトさんの研究室で、何かの役に立っているのだろうか。そう考えると、少しだけ誇らしい気持ちになった。
「さて、明日はどんな依頼が来るかな? もっと面白いことがあるといいな!」
リディアは窓の外の夜景を眺めながら、次の冒険に胸を膨らませる。角と尻尾を持つ風変わりなドラゴン少女の、楽しくてちょっと不思議な日常は、これからも続いていく。王都の下町の片隅で、彼女は今日も、自分だけのささやかな幸せを謳歌しているのだ。