ある日拳銃を拾った
彼は兄である。名前はあるが、冴えないので気にしない。
兄には最近妹ができた。いや妹ができていたことを知った。故にこそ彼は兄である訳だが、はたして彼が兄となったのは妹の存在を知ったその瞬間なのかそれとも妹がこの世に生を受けたその瞬間なのか。当然普通に考えれば後者でしかない訳だがこれはそういう肩書き的な意味ではなく精神的な意味での兄であり、兄が兄として妹の兄になるということを果たして本当に受け入れられているかという話でもある。そう考えたとき、あるいは妹の存在を認知してから一週間が経過しようとしている今現在に至っても兄は兄ではないのではないかという可能性も浮上して―――
小難しいことはさておき、兄には最近妹ができた。
兄から見た妹は、なんというか、侵略者のようなものだった。
もろもろの事情で二人暮らしをしていた父が他界し、代わりとばかりにやってきた自称父の愛人である妹の母と妹。新たな保護者でもある母に関しては別にその存在に文句がある訳でもなし、むしろ一人暮らしはつらいなあと思っていた兄にとってその存在は福音ですらあった。なにせ気立てよく家事も見事にこなす上に年収も父より多いらしい見目麗しき四十前の未亡人な母親が降って沸いたのだ、一体なにを拒むというのか。拒むどころか老後の面倒を見てあげたいと心底思えるくらいで、一日目にはすでに家族の一員として受け入れていた。
しかしながら妹はまったく別だ。
あれはなんというか急性日常破壊ウィルスみたいなそういう名称をつけるべきではないかと、兄は割と真剣に思っていた。
例えばある日眠っていた兄がふと邪な気配を感じて目覚めると、妹が耳元で『兄妹相姦禁断の関係近親恋愛親子丼―――』と呪詛のように呟いていた。しれっと母親すらも巻き込もうという辺りに狂気を感じた兄としては、全力で叩き出す以外の行動を取りようもなく、またやってくるかもしれないという恐怖に一睡もできなかったという。
例えばある日の食事中、妹の足がすっと伸びて兄の弟をさすりにきた。必死に拒みつつ母に怪しまれないよう体面を取り繕う兄は、白鳥の気分を味わったという。
例えばある日、なんの前触れもなく妹に包丁で刺されそうになった。全力で包丁を取り上げ話を聞くに、『ヤンデレが好みなのかと思いました』などと供述された。それは同時に今後もそういう兄の趣向が二次元だけのものだと理解してくれないことによる悲劇が舞い降りるということを示唆しており、兄は軽く絶望したという。
例えばある日トイレに行くと、老後に備えて父が敷設した手すりに手足を縛り付け目隠しをし器具によって大きく口腔を晒す妹がいた。どうやって自分でやったのか兄にはまったく分からなかった。そこまでやって着衣のままだったというのは僅かに残る人間性の故なのか、兄のスマホに着衣系の二次でエロな画像が溢れているからなのか。とすると今後はともすれば触手でも生やしてきそうだなどと考えると脳機能が露骨に傷害されそうだったので兄は深く考えることをやめて、近くの公園で用を足すことになったという。
などなど、挙げはじめればキリがない中からいくつか兄にとってセンセーショナルだったものを特筆してみた訳だが、それだけでも妹がどれだけヤバいのかというのは十分に伝わったことだろう。正直なところこの一週間は(そう、これらの出来事は全て一週間のうちに行われたことなのだ)地獄だったと、思い返せば目が死ぬ程度に疲弊することもやむなしという話だった。
そんな訳で癒やしを求めた兄は、長らく続いた雨上がりの今日この頃、暗雲立ちこめる自分の未来から目を逸らそうと、たった一人の親友がいるだろう近所の公園へ向かっていた。
いたのだが、その道中。
兄は道ばたに、日の光を浴びて鈍く輝くなにかが落ちているのを見つけた。
なにかというか、拳銃だった。
拳銃が落ちていた。
リボルバータイプの、銀色の拳銃。からからと回るシリンダーが指先に心地よく、カチャカチャと揺れる引き金がひやひやとスリルを感じさせる。
兄はそれをしばらくためつすがめつしてみて、どうやら銃弾は満タンまで込められているらしいことを知った、
なんの前触れもなく非日常を拾って、兄はなんだかどきどきしてきた。
と、そんなところへ。
「あれぇ、せぇんぱぁい」
部活に入るでもなく学校内における交友関係が殆ど一次関数を逸脱しない兄を先輩と、いやさ『せぇんぱぁい』などと甘えるようなあざとい声色で呼ぶ者など世界広しといえどたった一人しか存在しない。疲れているときなどはたまに無性にイラっと来るその声に、振り返るまでもなく思い描いたそのどこか間の抜けた表情と、振り返ればそこにいた彼女のアホみたいな表情が寸分違わず重なる。交友といってもそこまで頻繁に会う訳ではなく、むしろ敢えて会う訳でもなく、偶然遭遇すれば少し会話をするだけの間柄にも関わらずやけに印象に残る、その第二次性徴期を未発達で乗り越えたような、大人と子供のせめぎあいの果て子供に軍配が上がったような、単に幼いだけではない顔立ちは紛れもなく愛すべき後輩ちゃんだった。
「やあ後輩ちゃん。部活かい」
「そうですぅ。せんぱいはぁ、殺人ですかぁ?」
「いやいや後輩ちゃん、僕がそんなことをするように見えるのかい?」
学校指定の短パンにジャージという出で立ちから推測した兄に対抗してその手に持つ拳銃から推測したらしいとんでもない結論に、兄はやれやれと苦笑する。
自分で言っていておかしいと分かっているのか後輩ちゃんは「あはぁ」と照れたように笑い、そして「そうですよねぇ、返り血付いたら困りますもんねぇ」とズレたことを言う。
まるで人間性を考慮すればやってもおかしくはないと言わんばかりの発言にそういう問題じゃあないだろうと思う兄だったが、まあそれも後輩ちゃんらしいやと納得することにした。
そんな兄の内心は露とも知らず、後輩ちゃんは呑気に首を傾げる。
「でもぉ、それじゃーあ、それってぇ、なんなんですかぁ?」
「ちょっとそこに落ちてたんだよ」
「そうなんですかぁ」
「うんそう」
「あ、そうだぁ。ちょっと聞いてくださいよぉ」
聞いてみたもののさして興味はないといった様子の後輩ちゃんは、さっさと話を変えて部活の愚痴なんかをこぼし始める。
やれやれ後輩の愚痴を聞いてやるのも先輩の務め、これから僕は適切なタイミングに相槌を打つだけの機械になるぞ、と普段ならばそんな風に思う兄だったが、今回ばかりはそのいつも通りに戸惑ってしまう。それはそうだ、本物の拳銃を前にして普段通りでいられる人間がどれだけいるだろう。
少なくとも兄はそうではないし、至って普通の女子高生である後輩ちゃんもそうあるべきで、だから兄は疑問だった。
後輩ちゃんは、拳銃が怖くないのだろうか。
例えば今自分が撃鉄を上げて照準を合わせて引き金を引けば、それだけで目の前のわたあめみたいなぽわぽわなその顔面は弾け飛ぶことになるのだ。いや所詮拳銃ではそうもいかないのかもしれない。ちょっと衝撃で目が飛び出るくらいのことで、傷口も真ん丸の穴が出来るだけかもしれない。けれどそれにしたってきっと、人間を殺すくらい訳はないだろう。それとも当たり所によっては皮膚と骨を削りながら銃弾は逸れてしまって、殺すには至らないのかもしれない。あるいは初心者未満の自分では一度で当てることすらできないで、顔のすぐ横を銃弾が通り過ぎて行くかもしれない。そしたら流石に恐怖を感じて腰を抜かしてしまうだろう。そこへ第二射を放てば、きっと今度は外さない。
兄は、その胸の内で好奇心がむくむくと湧いてくるのを自覚した。
試してみたい。
これはきっと千載一遇のチャンスだ。
所詮一高校生である兄が拳銃を拾う場面など、そうそうある訳もない。更にそこに誰かが居合わせるなど、きっとこの先二度とないだろう。
非日常への足がかりが、いや手がかりが今その手の中にある。
別に非日常を望んでなどいないが、そんなものはあの頭のおかしな妹だけで十分を過ぎるが、それでも自分の手で日常を粉々に撃ち砕けるかもしれないというのなら、胸踊らない訳にもいかない。
兄は無意識にゴクリと生唾を呑み込んでいた。
なにかを喋り続ける後輩ちゃんの言葉が、上手く理解できなくなる。
まるで自分が人間でなくなってしまったようにすら感じた。
ちょっと決心しただけで人を殺すことが出来る自分は人間よりも優れた生き物かもしれないと思えてきた。
熱に浮かされるように、拳銃の照準を合わせる。
後輩ちゃんはそれだけで恐慌しパニックに陥るかもしれない。
そんな風に思っていた兄は、しかし一瞬で期待を裏切られることになる。
後輩ちゃんはきょとんとして自分に向けられる銃口を見つめ、そして状況を理解するなり「あはぁ、せんぱいに狙われてるぅ」と能天気にもじもじしだしただけだった。
そこには一片の恐怖もなく、後輩ちゃんは本当に拳銃なんてどうでもいいと思っているようだった。
兄は戸惑って、後輩ちゃんに訊ねてみた。
「怖くないの?」
「なんでですかぁ?」
「なんでって、だって、拳銃だよ?」
あるいはこの目の前のふわふわ少女は拳銃のことを知らないのではないだろうかと、そんな少しばかり失礼なことを考えてしまった兄を、後輩ちゃんは「あはっ、そうですねぇ、うふふぅ」となんとも面白そうに笑い飛ばす。そしてにやにやと笑いながら拳銃を構える兄の手を包み込むように握って、
「でもぉ、撃てないじゃないですかぁ」
と、甘えるような声色でそんなことを言ったのだった。
その言葉はキャンディのようにじわじわと兄の中に入ってきて、そしてその意味を理解したとき、馬鹿にされたのだと、兄は思った。
そんなことはない、自分はそれくらいできる。
俄に沸き立つ怒りのままに、兄はまず撃鉄を引こうとして―――
「……」
やめた。
後輩ちゃんのほわほわした笑みを見ていると、なんだかとても馬鹿らしくなった。
そもそも考えてみれば、憎からず思う、むしろ好感すら抱く可愛い可愛い後輩ちゃんを殺してみたところで、一体なんになるというのか。
なによりこうして取り留めのないお話すらできなくなるのだ。
死人に口なしというくらいだし、死ねば目もきっと語らないだろう。
それは少々、寂しかった。
「そうだね」
だから兄は苦笑して、後輩ちゃんの温もりを少し惜しみながら、拳銃を下ろした。
「先輩が、後輩を撃つ訳にはいかないよね」
そんな冗談に後輩ちゃんは「なんですかそれぇ」とくすくす笑って「あ、そうだぁ」となにか思いついたように手を叩く。
なにごとかと訊ねるよりも前に、兄の心臓に向けて、人差し指の銃口が向けられる。
「じゃあ私がうっちゃいますぅ。ばきゅーん」
「ぐわぁ」
後輩ちゃんの厚い唇から放たれる可愛らしい発砲音にわざとらしく胸を抑えて膝をつけば、後輩ちゃんは「あはぁ、せんぱい死んじゃいますねぇ」などとくすくす笑う。
「くそう、まさか後輩ちゃんが僕を殺すだなんて……!なにが気に入らないんだ!」
「えっとぉ、顔とかですぅ」
「待ってそれはシンプルに心が抉れる」
こてんと可愛らしく首を傾げられても、その言葉は容赦なく兄の心に突き刺さった。
両手をついて悲しみを全身で表現する兄に流石に悪いと思ったのか、後輩ちゃんは「あ、でもでも、わたしぃ、せんぱいのこと好きですよぉ?」とフォローをするが、少々捻くれ者な兄は「つまり顔は気に入らないんだね……」とうじうじ。
実のところ、後輩ちゃんとそこそこの期間付き合ってきた兄は今更そんな言葉ひとつでいつまでも落ち込むようなことはない。しかしながら一時とはいえ傷ついたのは確かなので、仕返しとばかりに後輩ちゃんを少しからかってやろうという意図からあえて分かりやすくうじうじしているのだ。
小賢しい上に下衆だった。
「あー、うー、せ、せんぱぁい……」
兄の下衆な思惑通りにすっかり困ってしまった後輩ちゃんは、既にうつ伏せにすらなっている兄を見下ろしながらおろおろする。
「せんぱい、そのぉ、言葉の綾っていうかぁ、人は外見じゃないっていうかぁ、えっとぉ、うぅ……」
嘘でも顔が気に入らないことは否定しないのかよ、と内心突っ込みを入れる兄は唐突に虚しくなってゆっくりと起き上がる。なんならこれ以上傷を抉られる可能性すらあると思えたので逃げたとも言う。
「いやまあ、そこまで気にしてないんだけどさ」
言い訳のようなことを言って笑う兄に後輩ちゃんはぽかんと口を開いて、それからからかわれていたことを理解したのか頬を膨らませる。
「もぉー、せぇんぱぁーい。心配しちゃったじゃないですかぁ」
「ごめんごめん、そっちは僕を殺したんだからさ、許してよ」
「あ、そぉですねぇ、言われてみればぁ」
いやそうじゃないだろうと思いつつも兄が「うんうん。お互い様だよ」などとしたり顔でほざけば、どうやらそれで納得したらしく後輩ちゃんも「そぉですねぇ、お互い様ですねぇ」とにこにこ笑う。
至って平和、兄が手に持つ拳銃など眼中にないとばかりの会話だった。
やっぱり後輩ちゃんは殺さなくて正解だなと、兄はしみじみ思った。
しかし。
しかしそれはなんだか勿体ないとも、兄は思ってしまった。
せっかく拳銃があるのなら人の一人くらい殺してみたいと思うのが人の性なのかもしれないしそうではないかもしれないが、少なくとも兄はそう思うタイプの人種だった。
誰を殺そうかと考えると真っ先に脳裏に思い浮かぶ変態の姿にげんなりする兄を見て、後輩ちゃんは首を傾げる。
「どうしたんですかぁ?」
「ああいや、せっかくだからこれを試し射ちしてみたいなって……あ」
言ってから、そんなことは人に言うべきではなかったと思う兄だったが、そんな後悔を知ってか知らずか後輩ちゃんはくすくす笑う。
それから至って当然のような声色で「捨てちゃえばいいじゃないですかぁ、そんなぶんちぃん」などと言った。
なるほど後輩ちゃんは大胆なことを言うなあと感心しつつも、兄はやはり諦めがつかないでうじうじ悩んでいた。
そんなこんなしていると、後輩ちゃんが不意に「あぁ、もぉこんな時間じゃないですかぁ」と太陽を見て眩しそうに言った。
「分かるのかい?」
「分からないですよぉ?」
「あ、そう」
それはさておき、そもそも部活に向かっていた後輩ちゃんがあまり長々と話し込んでいる訳にいかないのは確かなことなので、二人はそこで別れることにした。
「じゃーあ、また今度お話ししましょぉね、せぇんぱいっ」
「うん。またね」
たったった、と陸上部らしく綺麗なフォームの女の子走りで去って行く後輩ちゃんの背中にしばらく手を振ってから、兄は改めて目的地を目指す。
たどり着く前になんとかバレないところを探しておかなくちゃと、拳銃を弄びながら。
さて後輩ちゃんと別れた兄は今、当初の予定通り近所の公園にいた。
そしてベンチの上で幼女に膝枕されていた。
幼女に膝枕されていた。
幼女。
具体的に言えば齢八歳、今年小学二年生になった年齢限界ぎりぎり幼女だが、その容姿はまさしく理想的な幼女だった。黄色の帽子からはみ出るさらふわの茶髪がそよ風に揺れ、水玉模様のシャツの隙間から見上げる景色はある意味筆舌に尽くし難く、ふりふりのスカートから伸びる足はふにふにすべすべで、まあつまりまとめると幼女だった。傍らに置かれた赤色のランドセルが、時代遅れな感性ではあるがまたもう素晴らしき幼女だった。赤色が好きであるということがここまで意味を持つ世代など、ランドセルを背負う機会のある幼女から少女でなければありえまい。もう数年もすれば時代の波に呑まれ色とりどりのなかに紛れてしまうだろうこの赤ランドセルの魔力を慈しむことは、今に生きる兄にとっての最重要命題といっても過言ではなかった―――
「なにかんがえてるです?」
「いや、やっぱり親友のももは気持ちいいなと」
不思議そうな表情で見下ろしてくる幼女……兄が親友と呼ぶ彼女にぼんやりと返せば、親友はその変態的な内容にどん引きするでもなく呆れ顔をする。
「おにいさんはへんたいさんです」
「そうだね。そんな変態を親友はももに乗せているんだよ」
「しんゆうだからしかたないです」
さわさわと膝頭を撫でる兄の手をぺいっと払いながらそんなかわいらしいことを言う親友に、兄はほっこりする。その胸中は癒やしに満ち、妹などという不純な生物に荒んだ心が安らいでいくのを感じた。懐に感じる重みなど、まったく酷く下らない気分だった。いつまでもそうしていたいとすら思ったが、身じろぎするももの感覚に親友の限界を感じた兄は速やかに起き上がることにした。正直なところなるべく負担を減らそうと力を込めていたので身体的な癒やし効果は皆無どころかマイナスですらあったが、こういう時のために腹筋を鍛えておいた兄にとっては、親友の温もりと石けんのにおい、頭部に感じるぷにもち肌を考慮すればその程度のマイナスなど無に等しい。つまり総合すると、幼女は癒やし。
「もういいです?」
「うん。ありがとう」
「じゃあやくそくのせーいです」
「はい」
兄が差し出した『せーい』はなんの躊躇いもなく受け取られる。親友はにっこり笑って兄の耳を甘噛みすると、かわいらしいウサギをかたどったかわいらしいがま口財布をかわいらしいランドセルから取り出しかわいらしい動作で開きかわいらしくない一万円札を折り畳んでそこにしまった。
膝枕一回一万円。毎度のことながらなんと良心的な価格だろうと感動しつつ兄がチップ代わりにと取り出したロリポップキャンディーをむき出しにして差し出せば、親友は瞳を輝かせて喜び咥えた。はむはむとイチゴミルクの甘さを堪能して至福に顔をとろけさせる親友に気をよくした兄は、棒をつまんでくるくると回してみる。唾液の音とからころと飴が歯に当たる音に、どうして録音機器を常備しておかなかったのかという深い深い後悔の念を抱いた。
そんな兄の無念の表情を見た親友は呆れた表情を浮かべながらもサービスとばかりにそのぷるるん唇を分かち口腔を晒した。生々しい肉の洞穴から迎えるようにえあーと突き出される舌はぬらりと唾液に濡れて、入り口を飾るようにほんの僅かに乱れて並ぶ白い歯は眩いほどに輝き、奥に見える肉のアーチを潜り潜ればその向こうには小さくかわいらしい口蓋垂がゆらゆらと揺れている。兄が飴を転がせば追いすがるように舌が蠢き、肉々しい内頬に擦りつけるように弄ぶ。外からもくりゅくりゅと動く飴の形が頬を歪め、なんというか、まったくもって幼女だった。
手を離し、代わりとばかりに静かに差し出される五千円。しかし今度は親友は受け取らず、困ってしまった兄はとりあえずもう一本ロリポップキャンディーを、今度は包装と共にその手に握らせた。それはやはりイチゴミルク味で、瑞々しい酸味ととろけるような甘みの調和したそれはつまり幼女味なのだと信じてやまない兄が親友にあげるロリポップキャンディーは必ずこの味だった。
それを知っている親友としてはおにいさんはへんたいですと思わざるを得ないが、イチゴミルク味は至高であるという点においては意見が一致していたので特に文句もなくむしろ喜んで受け取る。
「あひがひょひぇひゅ」
「もう一本は夜ご飯の後にとっておくんだよ」
「ひゃい」
兄が帽子越しに頭に手を乗せれば、もごもごとロリポップキャンディーを咥えながらも親友はこくんと頷く。それから兄は親友が飴を舐め尽くすまでのしばらくの間、当然のような手つきでさらけ出したさらふわ茶髪を堪能するように頭を撫でまくるのだった。
ちなみに親友も気持ちよいので基本料金はタダだがうなじや耳の上は一撫で百円であり、兄は膝枕も合わせると総計二万円近くをこの短期間で消費することになるのだが、それでもずいぶんと軽くなった財布をまったく気にした様子なく、なんと良心的だろうとすら思っていたのできっとこれもWin-Winの関係なのだ。
ともあれ親友の頭を撫で尽くした兄が糖分と撫でによりふにゃけた親友を膝の上に乗せながらベンチに座りつつ微睡んでいると、不意に影が差すのを感じた。
「もしもし」
「ん……あれ、ママ、さん!?」
目を擦りながらなんとかピントを合わせた兄の視界に写るのは、清楚な格好に身を包んだ吊り目の女性、親友のママさんだった。仄かに醸し出される人妻感と背徳的な色気に一瞬で目が覚めた兄は、慌てて膝の上の親友の頬をむにむにして覚醒させる。
「にゃ……まま?」
「はい、ママですよ」
ゆるりと微笑むママさんに、目をこしこししていた親友は目を輝かせて飛びついた。その小さな体躯が豊かな母性に包まれる姿はなんともほっこりするもので、兄はなにか喜ばしい気持ちになってそっと微笑んだ。
「まま!きょーはいちまんはっせんななひゃくえんももらったよ!あとあめちゃん!ごはんのあとにたべるのー!」
「あらあら、お兄さんはいい鴨なのね」
「うん!しんゆーなの!」
嬉しそうに今日の成果を自慢する親友と、にこにこと相づちを打つようでいてなにかが決定的に違うママさん。それでも兄はなにも言わず、ただうんうんと満足げに頷くだけだった。まったくいい鴨だった。ネギすらしょっている。
そんな兄のことなど背景だとばかりにママさんだけを見つめながら、親友は熱に浮かされたような表情で続けた。
「ままとのけっこんしきんも、もーちょっとであつまるよ!」
それは常日頃から親友が公言していることだった。実母との結婚を夢見る八歳児、その願いを叶えたいという思いもあって兄は親友に誠意を示しているのだ。さらには是非ともそのときには仲人を務めさせてほしいというお願いはすでに受諾積みであるため、安心して誠意も示せるというものだった。それまでに適当な結婚相手を見繕っておかなければいけないというのが、兄の頭を悩ませることでもあるが。
ところがそんな子供の思いとは裏腹に、大人であるママさんは困ったような表情を浮かべる。それも当然のこと、結婚というのはそんなに簡単なものでもない。そもそもママさんはそこそこドラマティックな恋愛結婚の果てにすでに結婚しているのだ。
「なかなか夫が納得してくれないから、離婚の方はまだ時間がかかりそうなのよ」
ふう、と色っぽいため息をこぼすママさん。離婚一つにもなかなか面倒な手続きがあるものだと知らなかった初婚のママさんは、最近弁護士に相談をし始めてみたがどうも難儀しそうだというのでほとほと困り果てているのだった。
そんなママさんに、親友はにっこりと笑って告げる。
「だいじょーぶ、わたしはいつまでもまってるよ!」
なんと素晴らしい光景だろう、兄は涙すら浮かべた。そしてハンカチを取り出す際に冷ややかで硬質なものに触れて、急速に熱が引いてゆくのを感じた。そして別の熱が緩やかに育ってゆく。
ああこの微笑ましき家族を壊したならば、どんなことになるのだろう。
例えばママさんを殺せば、きっと親友は怒り狂って自分のことを嫌いになるだろう。
想像しただけで吐きそうだった。
それなら親友を殺したらどうだろう。
その生キャラメルみたいに甘くて幼くて柔らかな肉がまき散らされて、そしてこの世界からとびきりの幼女が一人いなくなる。
想像しただけで自殺したくなった。
そして兄は気がついた。どう転んでもなにも嬉しくないしむしろ嫌なことだらけじゃないかと。
まったく馬鹿らしい。一時の気の迷いすらあり得ないほどに自明なことをわざわざ考えて、とてもいい気分だったのがどこかへ行ってしまった。
「おにいさん?」
と、そんな兄の様子に気がついたらしく、親友はママさんの胸の中でこてりと首を傾げる。その純な眼差しに自分の愚かなる思考を懺悔してしまいたい気分になったが、そんな下らないことで親友を傷つけたくはない。
だから兄は「なんでもないよ」と首を振って、微笑みを浮かべた。
そんな兄をしばらく眺めてから、親友は徐にロリポップキャンディーを取り出すと、包装を剥がしてぱくりと咥える。そして少しころころと転がしてから吐き出して、兄に差し出してくる。
正真正銘幼女味のキャンディーを当然のように口に咥える、には少々ママさんからの視線が痛すぎるので、兄は気持ちだけを受け取っておくことにして代わりのキャンディーを貢いだ。幼女味キャンディーに頬を緩めるママさんの至福の表情を見られたので、兄としては気持ち以上のものを貰えた気分だったという。
親友との逢瀬の帰り道、るんるん気分で歩いていた兄は、しかしそんな気持ちを一瞬で消し飛ばすような、恐らくもっとも試射にもってこいだと、なんなら拳銃などなくとも世界平和のためには早めに摘んでおかなければならないのではと常日頃から思っていた変態と遭遇した。
その変態は、少年の姿をしている。
さっぱり切りそろえられた銀髪に、深い蒼の瞳。
顔立ちだけは美術館に並んでいてもおかしくはないくらいに上等なものだと兄も認めざるを得ない変態は、今日も今日とてへそ上までのタンクトップにホットパンツという挑戦的な出で立ちで、へそを囲むような悪魔的意匠を凝らしたハートマークのタトゥーシールを惜しげもなく衆目に晒していた。
そんな変態が、曲がり角を曲がった先、兄の家まで僅か数メートルという所をうろついていた。やはり住所を知られるのは不味かった、と苦い顔を浮かべてみたところで、まったくもって手遅れであった。
「あ」
変態は目敏く兄を見つけると、満面を喜色に満たしててこてこ近づいてくる。
「やあ、なにやら魅力的な匂いがすると思ったらお兄さんじゃないか。奇遇だね」
「よく言うよ、君の家は公園の向こうじゃないか」
くんくん鼻を動かす変態に兄が素っ気なく返すと、変態はなぜか楽しそうに笑い「それはそれ、これはこれさ」などと言う。
「お兄さんたら、本当にとってもイイ匂いなんだもの。だからついつい嗅ぎに来たくなったって、仕方ないんだよ」
うっとりした様子の変態に鼻を鳴らして「僕としては迷惑なんだけどね、変態が家の近くにいるのは」と兄が吐き捨てるように言えば、変態は「素直じゃないなあお兄さんは」なんて言ってまた笑う。
「そんなことを言われたらもっと来たくなっちゃうって、確かこれまで何度も言ってるよね」
確かに、なんなら会う度会う度言っているくらいはある。
しかしなにを言っても無駄ならば、言いたいことを言いたくなるのが人というもので。
「歓迎したってどうせ同じことじゃないか」
ため息混じりに兄が言うと、変態はますます笑みを深める。
「ううん、歓迎されたらボク、きっともう我慢できないさ。ボクもお兄さんと体の奥深くでふかぁく繋がりたいって、常日頃から思っているくらいだよ」
身体をくねくねさせる変態のそんな変態的な言葉に兄は怪訝な表情を浮かべる。
この際、その内容は一旦置きだ。
「もってなにさ。僕にそんな関係の相手はいないよ」
「え?でも、いちごミルクの匂いがするもの。あのセフレちゃんのところに行ってたでしょ?」
「勝手に親友を穢さないでくれないかな!?」
言うに事欠いてとんでもないことを宣う変態に兄は驚愕を隠せない。そのせいでつい「まだ手も繋いでない膝枕止まりのピュアな関係なんだよ僕らは!」などとそれはそれで危うい言葉を続け、慌てて取り繕うように一つ咳払いをする。それから、ここはクールダウンだ、変態のペースに乗せられるな。と必死に自分に言い聞かせることで平常心を取り戻した兄は、至って穏やかな表情で続けた。
「もっともその先に進むつもりも、もちろんないけど」
それはそれでどうかという話だが、兄は気がついていない。これも変態パワーか。
さておき、親友が親友母と恋仲にあることは、知っている人は知っている割と有名な事実だったりする。少なくともそういう話にめっぽう耳ざとい変態は知っているはずで、にも関わらず変態は兄の言葉に「そうなの?」と意外そうに首を傾げた。
「そりゃあ、そうじゃないか。そもそも親友は親友で親友なんだから」
「てっきりボクは、お兄さんは両方狙っているものだと」
「僕はどんな鬼畜外道なのさ……」
「聞きたい?ボクの中のお兄さん像。……あ、そんなボクの中にお兄さんだなんて……」
自分の発言で恥じらうように身体をくねらせる変態に、兄は二の句が継げない。なんというか発する全ての言葉がなんらかの汚れ切ったフィルターに汚染されて大気を侵しているような感覚だった。なるほどこれが人災というやつなのか、と世界一要らない納得をまた積み重ね、兄は一息ついた。
そして「あぁ、お兄さんの温もりが……んふぅ」などとほざく変態に隙を見出し、一刻も早くこの空間から抜け出そうと家へ向かう。
が、即座に変態に腕を掴まれる。
「待ってよお兄さん。もっとお話しよう」
「僕に話すことはない」
「それならボクもお兄さんを離さないだけさ。そしてお兄さんの行く先々に、それこそトイレの中だってお風呂にだってついて行って、最後に二人はもう離れられなくなるほど熱く深く愛し合うんだ……!」
目をギラギラと輝かせて唇を舐める変態が冗談でなく本気でやりかねないことを兄は知っていた。
兄は諦めた。
「……五分だけ」
「え?流石にそれはそうろ「五分だけ話してあげるって意味だからね」えぇー、ボク暇なんだけど」
食い気味に念を押す兄に、変態は不服そうに口を尖らせる。
そういう所で少年らしさを見せたところで唾を吐き捨てたくなる気分になるだけというもので、流石に兄はそうはしなかったが、そういう思いをせめて視線に込める。
「あ、いぃっ」
無意味どころか不意味だった。
兄はまた諦めた。
とそこで、ようやく。
変態と話していることが嫌で嫌で仕方がなかったせいで、早くこの場から離れたいという思いに塗りつぶされていてすっかり忘れていた本題を、思い出した。
そういえば僕は、この変態を殺すんだった。
流石は変態、危うく完全に忘れきってしまうところだったと謎の危機感を抱きつつ、兄は懐から拳銃を取り出して迷いなく変態の額に当てた。
どうれ折角ならば変態が状況を理解して泣きわめく姿でも見て溜飲を下ろしてやろうという思いから兄は変態の反応を待ったが、もしも本当に殺そうと思うのならば取り出した頃には引き金を引き終わっているくらいの心意気で臨むべきだったのだ。
もちろんそんな後悔すらも、相手は許してくれない。
なにせ相手は変態、そう彼は変態なのだから。
果たして変態の反応は、泣きわめくでもなく、後輩ちゃんのように撃てないという確信の元遊びに興じるでもなく。
変態は、恍惚の表情を浮かべた。
「お兄さん、撃つならここにしてよ」
などと言って、銃口の向く先を脇腹の辺りに誘う。
「頭なんて撃ったら、一度で死んでしまうからさ」
「……!」
戦慄した。
この変態は、なにを言っている……?
戸惑う兄の手を包み込むようにして、変態は更に続ける。
「ねぇ、お兄さん。まずここを撃つんだよ。いいや、ここでなくても、一度で死んでしまわないのならいいんだけれど、ともかく僕を撃って、そしたら僕はきっと悲鳴を上げるよ。痛い痛いって、泣きわめくんだ。ね、そしたらお兄さんは、傷口を広げるみたいに弄んでもいいし、腕とか足とか、ああ、もっと僕を痛めつけてよ。悲鳴が煩いなら喉を潰してもいいから、ね。そしたらきっと僕は死にたくないって、助けてって、お兄さんに縋り付くんだ。涙とか鼻水でぐちゃぐちゃな顔を擦りつけて、必死に懇願するんだ。そしたらお兄さんはね、僕の、僕の無様な姿を見て笑うといいよ、嗤うといいよ。汚いって一蹴して、ああ、そう、蹴り飛ばしてよ。お腹を蹴るんだ。内蔵をめちゃくちゃにして、吐瀉物まみれの僕をまた笑うんだ。僕が意識を無くしそうになったら痛めつけて起こして、それで、ああ、それで最後は死ぬまで傷口を嬲って、痛いよ、苦しいよって、そのまま殺してよ。もちろん犯してくれてもいいよ?どこでも、なんなら作った穴でも、死んでからだって、死ぬ前だって、お兄さんは僕という個人を使い潰すんだ。お兄さんは自分が悦ぶために僕の命を弄んで、引き裂いて、めちゃくちゃにして、ああ、ああ!」
話すにつれて興奮してゆく変態は、最後には身体を震わせへたり込んだ。
喘ぎ声を上げ震えるその様はもはや変態という言葉すら超越した変態だった。
なんということか、この変態は自分が痛みと恐怖に屈し余裕をなくして悲惨に死にゆく様を想像して、悦んでいるのだ。
それを理解して兄は、今世紀最大の「うわぁ……」を放った。
これ以上ないそのうわぁ顔に変態は「えひ」と気持ち悪く笑って「お兄さんにドン引きされたぁ……!」とビクンビクン震える。もはや手に負えない。早急にこの危険物を処理すべきだと兄は思ったが、考えてみればこんな放射性廃棄物を道端で撒き散らしては、それも自宅前の通りだというのならば、家を引っ越さなくてはならなくなるだろう。いいや、いっそ街から。なんなら地球すら汚染されかねない。こういうブツは然るべき方法で処理をするべきであって、そんなポイ捨てみたいなことをすればきっと国からお叱りがくるに違いないのだ。
兄は、そんな冗談じみたことを今本気で思っていた。
殺すだなどと、とんでもない。
兄は苦虫を頬張ったような表情で拳銃をしまった。
今後そういう表情のことを、悦ぶ変態を見たような、と呼ぶことになるのだろう。
「ああん……」
兄の思いを知ってか知らずか、残念そうにする変態がまったくもって変態だった。
「いけずだなぁお兄さんは……あ、もしかしてそういう焦らしプレイなのかな?」
「違う」
「えへへ、照れてるぅ」
あ、殺したい。と兄は素直に思った。
しかしそれを見てとった変態がばっちこいとばかりに腕を広げ目をつむるのでそんな思いは即座に霧散した。
死ねばいいのに。と、今度から兄はそう思うことにした。
とりあえず今はチャンスだったので、兄は全速力で駆け出し家へと向かった。
捕まることもなく帰宅を果たそうとしたその刹那、届く声。
「あはっ。またね、お兄さん」
それがあまりにも近くだったような気がして背筋を震わせながら、兄は振り返ることなく、逃げるように扉を閉めた。そして即座に鍵を閉め、恐る恐る覗き穴から外を見る。
変態はいないようだった。
「ふぅ……」
やれやれこれでひとまずは一安心だ、と胸を撫で下ろして兄は振り返り―――
「お帰りなさいませ、ご主人様♡」
そこには頭おかしい姿をした妹がいた。
クラシックを基調とし装飾は少ないが丈という丈が尽く際どく、へそ出しどころかどう見ても胸元を覆うのがエプロンのみな頭のおかしいそれをメイド服と呼べるような感性の持ち主では、兄はない。だからそれを表現するならば頭がおかしい姿であり、できることなら全力で目を逸らしたいのだが回り込んでくることは想像に難くなく、そして家を出たとしても恐らく更にウザ絡みしてくるだろう変態が待ち受けているとくれば逃げ場すらない。
そうだった、と。兄は絶望と共に思い出した。
後輩と親友に癒され変態に疲弊させられたせいですっかり忘れていたがそもそも、兄はこのぶっ飛んだ妹から一時でも逃れるべく家を出ていたのだ。変態とは別ベクトルだが変態には変わりない相手が妹という非常に過ぎる現実から、目を逸らすべく二万円も支払ったのだ。
しかしながらそんなものは一時しのぎに過ぎず、今こうして改めて逃れられない現実が差し迫っている。
兄は気を失いそうな気分だったが、こんな状態で無防備に卒倒すればどんなことになるかなど考えたくもないし実践など以ての外なので、兄はできる限り眼前にて微笑みを湛える妹を視界に入れず横を通り過ぎようとする。
が、
「お帰りなさいませ、ご主人様♡」
ぬ、と立ちはだかると、隙あらば唇でも奪ってやろうかという勢いで顔を近づける妹に兄はたじろぐ。妹が今どう動いたのか、兄には感知できなかった。
なぜ変態というのはこうも謎のスキルを有しているのかと思いつつも、兄はもはや先送りすらできないことを悟りため息をつく。
「あ、兄さんの温もり……」
お前もかよっっ!と叫びだしそうになるのをなんとか堪えて、兄は引き攣った表情で「ただいま」とようやく口にした。
途端に妹は目を輝かせてニッコリと笑う。
「私でございますね!」
奇しくも変態のおかげで国語の成績が上がっていたりする兄はその一言で妹の言っていることを理解したが、その上で理解出来なさすぎて頭痛がした。それでもなんとか「お昼ご飯がいいかなぁ……」と声を振り絞れば、妹は輝く笑顔で「今日の献立は女体盛りになっておりますっ♡」と返してくる。恐らく風呂を願えばご奉仕的なことをほざくのだろう。
そんな妹に対して、それをやるなら新妻じゃないか……!とズレた怒りを抱く程度には疲れている兄は、それでもどうにかこの状況を打破できないかと考えて、そしてあっさりと思いつく。
そうかいっそ殺してしまえばいいのかと。
そんなことを、思いつく。
変態は変態が過ぎて変態なので殺すのを忌避したが、妹の変態性ならば別に問題はないだろうと判断して、早速兄は拳銃を取り出し―――
最初兄は、それがなにか分からなかった。
例えばそれはしゃっくりのような音。それとも喉を絞められた状態で無理矢理に息を吸い込んだような引き攣った音。
それは、目の前の妹から聞こえた音だった。
目を見開いて、ぱくぱくと口を開閉させ、真っ青になって身体を震わせる、常軌を逸した格好で常軌を逸した様子を見せる妹から。
おや?と。
兄は不思議に思いながらも、取り出した拳銃を見せつけるようにしながら妹に向ける。
「ひっ、ひぁ、」
妹はまたあの音を、いや声を出して、硬い動きで後ずさっていく。
試しに一歩近づいてみれば、妹は「ぃや、いやぁ……」と涙すら浮かべ、そして足をもつれさせて尻餅をついた。
「あ、」
呆然として、迫る拳銃に顔を引き攣らせる。
「ああ、」
少しでも逃れようとするかのようにフローリングの床を蹴り、靴下のせいで滑る。
「あああ、」
見れば、妹の下にはじわりと水溜まりが広がり、むわっとした悪臭が鼻をつく。
「ああぁぁあああぁぁぁぁぁぁ―――!!!!!!!!」
絶叫を上げて、這うようにして走り去っていったその後ろ姿を眺めて。
「ああ、そうか」
兄はようやく気がついて、納得の声を上げた。
失禁すらして、無様な姿を晒す妹が、それは怯えているからだと。
「そうなんだ」
ようやく、今更になって、気がついた。
なんということはない、変態は果てしなく変態だったというだけのことで、その印象に引っ張られていたせいでてっきり妹も嬉々として死にたがるような精神性なのだとばかり思っていた兄は、間違っていたのだ。
ああ僕はあの変態に毒されている、とショックを受けつつ、兄はとりあえず妹をどうにか宥めなければいけないと、ヘンゼルよろしく残された跡を追って歩いてゆくのだった。殺すにしろ殺さないにしろ(今の兄としては、もはや殺すまでもないと思っているが)どちらにせよ一度は宥めるに越したことはない。
さて追い詰めた妹は、お風呂場で浴槽に入ってガタガタ震えていた。兄が迫る音に小さく悲鳴をこぼして、「ごめんなさい、ごめんなさい、調子に乗ってごめんなさい」と繰り返し繰り返し謝罪の言葉を口にしている。今更かよと呆れ返りたくもなる兄だが、まあ人はいつだって取り返しがつかなくなってから後悔するものだよなあと寛大な心で受け入れてあげることにした。
「妹ちゃん、別にきみを殺したりしないよ」
拳銃を懐にしまって両手を広げて見せれば、恐る恐ると顔を上げた妹が兄を見る。
これまで散々苦しめられた相手がこんなにも弱々しい人間なのだということになんとなく諸行無常を感じなくもない兄だったが、妹が失禁して震えてるのを見て悟りを開くというのは解脱感に欠けるので遠慮したいところだった。
それに気付かないふりをするみたいに、怖くないよー、とひらひら手のひらを振れば、妹は少しずつ落ち着いていく。
「ほ、ほんとに、わたしを殺したくなったりしてないの……?」
「君に利用価値がある限りはね」
「ひぃっ」
なんだこいつ面白いぞ。と、悲鳴を上げて縮こまる妹に兄は思った。
これまでやられてきた鬱憤が溜まっているらしい。
このまま虐め倒してやろうかと思う兄だったが、やめた。
親友や後輩ちゃんに顔向けできなくなるようなことはしないに限る。
だから兄は「冗談冗談、ほら、立って」と妹に手を差し出す。
おずおずと握られる小さな手の感触を楽しみつつ、妹を引っ張り起こしてあげた。
「さあ、色々となんか良くない感じだし、着替えようか」
「は、はぃ……じゃあ出てってください……」
うぅ、と涙目になりつつ、兄を追い出す妹。
当然のように追い出されてなにごとかと首を傾げる兄だったが、すぐさま聞こえてきたシャワーの音に納得する。確かに、あのままそこにいれば兄は濡れてしまっていただろう。
まさか妹にもそんな妹ぢからがあったとはなあと感心しつつ、兄はひとまずその場を離れて自室へと戻った。
ベッドに腰かけて、「ふう、やれやれ」と一息落ち着ける。
それから、懐から拳銃を取り出した。
眺める。
結局一発も撃てやしなかったなと、残念な気持ちが湧いてくる。
せっかくなら一発撃ってみたいと思うが、やはり標的がネックだ。
一番の候補だった変態は変態すぎたし、妹は実は死ぬのが怖いみたいだった。
親友や後輩ちゃんを撃ち殺してみたところで嬉しいことなんてある訳もなく、やはり思い返してみてもまともに的に出来そうな相手などいない。
どうしようかと、考える。
と、ふと、兄は銀色に映った自分の顔を見た。
ああ、それなら簡単なことじゃないか。
そんなふうに、兄は気がつく。
そう、的なんてものは探すまでもなくそこにあったのだ。
まったく、こういうところで間抜けだからテストでもケアレスミスがなくならないんだぞ、と自分を戒めながら、とりあえず銃口を側頭部に当ててみた。
なんだか、結構しっくりくる。
兄は感心して、それから撃鉄を起こした。
がぢゃ、と鳴る音が、金属を揺らして脳に届く。
わくわくそわそわと、身体が震えてくる。
ひぃふぅと息を落ち着かせて、それから兄は意を決した。
「ばいばい」
かちっ。
引き金を引く。
撃鉄が落ちる。
シリンダーが回転する。
しかし、弾は出ない。
おやおや?と疑問に思いつつ同じ動作を繰り返してみるが、どうやら何度やっても銃弾は放てないらしかった。
おかしいなぁと、拳銃をためつすがめつ。
そして兄はその事実に気がついて、大声で笑った。
なるほど確かに文鎮だ。
おもちゃの拳銃なんかで、人を殺せる訳も無いのだ。
漁ってたら見つけた過去作を、せっかくなので吐き出しておきます。
続きの短編は書きかけだったので投稿するかは不明です。
なんてことをここに記して、目にする人はどれくらいいるのだろう。




