ノルミート
通常、この世界ではマナを使いきると、魔力の喪失によって、その人は気を失ってしまう。
それは他人にマナを吸収された場合も、同じことが言える。
だが今の俺は気を失うどころか、先程からずっと生暖かい感触と、少女の活発な息遣いが、間近で感じられている。
その様子から察するに、俺はマナを吸われていない?
だとすればこの少女の目的は……
そうやって俺がとめどない思考を働かせていると、少女はゆっくりと唇を離した。
そして口許を拭ってから、彼女は満足気に微笑んでいた。
その姿が奇妙で、俺はすぐにこの場から立ち去り、なるべくこの少女から距離を取りたいと思った。
だがさっきの俊敏さから考えるに、彼女から逃げることは叶わないだろうと、俺は半ば諦めに似た感情を感じた。
「なにが目的なんだ、お前は?」
「……ごちそうさまでした」
「ふざけてるのか? さっさと目的を言え。できれば争いごとは避けたいんだ」
こんな奴と闘うとなれば、勝てる見込みなど立たない。
だから早く目的を教えて欲しかった。
それにしても彼女は、さっきから自分の事情を話したがらない。
そんな事からも、俺は警戒心を緩めることができず、彼女を睨み続けた。
だが彼女は、さっきのような困った視線は見せず、やはり満足したように綻んでいた。
「ノルミート、分かってる。主様がノルに勝てないこと。そのことを主様自身が気付いていること。だからノルを威嚇しようとしてること。だけど無意味。主様はノルだけの主様だから」
「……何が言いたいのか分からないが、戦うつもりはないみたいだな」
ノルミートと自称する少女に対して、俺が少しだけ剣先を下げると、彼女は嬉しそうにまた綻んだ。
やはり彼女は純粋に話がしたいようだ。能力値は高そうだが、敵対はしないらしい。
ならば剣を向ける理由もない。俺は手に持っていた剣を、すぐに棹へとしまった。
するとノルミートは安心したのか、テトテトとこちらへと近づき、そして上目遣いのような体勢で、こちらを見上げて両手を広げた。
「主様、抱っこ」
「あ?」
しかし次の瞬間に発せられた一言によって、俺はすぐさま彼女に対する印象を改めた。
多分この子は、正真正銘の子供なのだろう。
最初は目的か何かがあると思っていたが、どうやらあまり深い考えは持っていないようだ。
「……もしかして主様、名前で呼んでほしかった?」
「いや、そういうわけじゃないだろ」
もちろん、この仕草さえ罠という可能性もある。
だがこの子に限っては、ありえないだろう。
なぜならさっきこの子が言った「抱っこ」という言葉は、街角で見かける子供のおねだりと、大した違いが見られなかったからだ。
それにノルミートは、恐らく天性の天然少女なのだろう。
あざとさといったものが、一切見受けられない。
普段から女性との関わりが濃厚な俺は、何かと目が超えていると自負している(もっとも交際経験は一度もないが)。
だから彼女がもし誘惑などしようものなら、すぐに気がつくことができたであろう。
「ノルは主様の名前が知りたい。私はノルミート。主様は?」
「俺はクラテスだ。ところで、何で俺が主なんだ?」
「クラテス様ー」
さっきから気になる点が多すぎるが、一つ、どうしても聞いておきたかった、主という名称について尋ねた。
だがノルミートは、両手を挙げて嬉しそうにはしゃぎ、そして何度も何度も「クラテス様ー」と繰り返していた。
そんなノルミートに呆れつつ、俺は再び歩き始める。あまり対話を続けるのも、面倒に感じられたからだ。
「クラテス様、どこ行くの?」
「俺の質問にいくつか答えてくれたら、教えてやる」
「わかった。なんでも質問するナリ、クラテス様」
「あいよ」
変わっている。
喋り方も仕草も、何もかもが変わっている。そして会話のペースが狂わされる。
だがこれで色々な疑問が解消されるだろう。それだけでも俺は安心だった。
「じゃあノルミート、お前はなぜ俺のことを主と呼んだ?」
「英雄様の力を感じたから。だからクラテス様は偉大」
「そうか。じゃあお前はどこから来たんだ?」
「天から舞い降りし天空界の覇者、大天使ノルミート様です」
「ハッタリだな」
突拍子もなく嘘をつくノルミートに、俺は溜め息をつきながらも、ハッタリを見抜いた。
するとノルミートは驚いたように間を置いて、それから訝し気に俺を見つめた。
「なぜ?」
「天使は覇者とか名乗らん。それに自分のことを様付けで呼ばないだろ」
「不覚……反省。それじゃあさまよう天使、ノルミート」
「今更遅い」
できれば簡潔に、分かりやすく情報を提供してほしいのだが……子供なのだから仕方がないであろう。
俺は呆れから成る強い疲労を感じながら、ノルミートのお遊びに付き合った。
やはりノルミートはその黒い髪を揺らしながら、楽し気に俺の横を歩いていた。
何がそんなに楽しいのか、俺にはよく分かないが、どうでもよいことであろう。
「まさかお前、出身地は言いたくないのか?」
「別に。生まれた場所は四大精霊様のご傍。それからは英雄様を探す旅に出て、ここで倒れた」
「言えるのかよ……まあどうでもいいけど」
別段興味のない話なので、俺はそれとなく受け流す。
するとなぜだか頬を膨らませたノルミートは、前触れもなく俺の手を引っ張って、走り出した。
「なんだよ急に!」
「いいから来て」
わけもわからないまま走らされる俺は、一日の疲労を抱えながら、ノルミートについて行った。
走る時は人間程度の速さで走るらしい。だから俺もノルミートの歩幅には、苦難なく合わせられる。
しばらく走った後に、ノルミートの歩みが止まったのは、古い館のような場所の目前であった。
その館を眺めながら、俺は少し戸惑った。ここに住むんでいるのか、それとも俺を誰かに会わせるためにここへ来たのか。
どちらかと言えば、前者であってほしい気持ちが強い。
だが心配する必要は不要だったらしい。
ノルミートはそのまま雑に玄関扉を開け放ち、それからしばらくの間、長く伸びる廊下をじっくりと眺めていた。
暗闇に覆われる廊下の先に、いったい何があるのかは見えない。
だがノルミートはためらいなく足を踏み入れて行く。
わけも分からずついて来てしまった俺だったが、正直なところ早く田舎の村に向かいたかったので、ノルミートを置いて引き返した。
だが次の瞬間、出口とは反対の方向に腕が強く引っ張られて、俺はそのままバランスを崩して倒れた。
そして仰向けになった俺は、そのまま真上に立つノルミートに、何事かと尋ねたかった。
だが思いのほか疲れていたのか、俺はすぐに立ち上がることが出来ず、しばらく体のだるさと闘った。
冷たい床に寝転ぶ形になった俺は、自然な流れで瞼を閉じてしまう。
そのまま目を瞑ったまま、眠ってしまいたかった。
「クラテス様は今、ノルの下着に夢中になっておられますか? クラテス様のエッチ……」
「見たくもないね。そんなもの。そもそもお前なんかの下着に、誰が興奮する?」
「ロリコン」
「……俺は何も言わないぞ」
俺は小さな子どもに興奮するほど、可笑しな人間ではない。
そもそも目を開けていなかったのだから、何も見ているはずがない。
だがそんな反論をする気もなかったので、俺は大義だと感じながら、ゆっくりと立ち上がった。
そんな俺の隣には、少しふて腐れたようなノルミートが立っていた。
「そんなことよりも、なんだこの館は?」
「ここが今日からノルと、クラテス様が二人きりで暮らす住居です。ワクワクしますね」
「どこがだ」
いまいちノルミートのテンションについて行けない。まあついて行く気も無いが。
それから俺は、なぜか頬を赤く染めてソワソワとしているノルミートを置いて、館内を散策する事とした。さっさと寝床を見つけて、すぐに寝たい。
それに、二人で暮らすという点には、別段驚かない。
さっきから感じる、二人で行動しろと言わんばかりの無言の圧力。
そして張り切って館まで手を引いていたノルミートを見ていると、彼女が二人で生活をするつもりだったことは、一目瞭然だった。
それに俺も、あいつがさっきから言っていた英雄の力というやつに、些か興味があるのだ。