33
「シェリィ」
二人きりになった途端何故か硬直したシェリアに、フィリップは呼び掛けた。
「え……と。はい、殿下」
ぎこちなくシェリアが応えた。動揺しているのか、言葉遣いがやや崩れていた。
フィリップは二人きりということで舞い上がった気分を鎮め、少しの緊張を覚えながら言った。
「そのままで聞いてほしい。まずは……危険な目に遭わせてしまって、本当に申し訳なかった」
「え?」
フィリップの突然の謝罪に、シェリアは呆けたような声を漏らした。フィリップは自分の声が震えるのを感じながら続けた。
「本当に……本当にあんな目に遭わせるつもりは無かったんだ。予期せぬことだったとはいえ、私がもっと気を付けていれば」
「いえ、そんな、殿下」
シェリアはおろおろとしてフィリップの科白を遮った。
「殿下が次期王太子で、私がその婚約者である以上、今回のように危険な目に遭うかもしれないということなど、とっくに覚悟しておりました。ですから、殿下がお気になさる必要は」
「だからこそだ」
絞り出すようなフィリップの声の有無を言わせぬ響きに、シェリアは口を閉じた。
「だからこそなんだよ、シェリィ。……私は、次期王太子。じきに王位も継ぐことになるだろう。そしてシェリィは私の婚約者。そのせいでシェリィは危険な目に遭ったし、これからも遭うかもしれない。でも、それが当然のことみたいに言わないでくれ……」
(ああ、やっぱり駄目だ)
自分の声が情けなくかすれているのに気づいたフィリップは、熱くなった瞼とは対照的に冷えた手で顔を覆った。
「あの時……、シェリィが危険な目に遭っているかもしれないと分かった時、怖かったんだ」
氷の中に身を投じたような、絶対零度の恐怖。全身の皮膚が切り裂かれるような焦燥感。崖から深い谷底を覗き込んだかのような絶望感。そういった、今まで経験したことの無いほどの荒れ狂う感情を、フィリップはあの時感じたのだった。
(……もう二度と、あんな体験をするのはごめんだ)
「シェリィを、喪うかもしれないと、私がシェリィを学術院に行かせたせいで、私のせいで、もう二度と会えなくなるのかもしれないと、怖くて怖くて仕方が無かったんだ」
フィリップはシェリアの腰を抱く腕に力を籠めた。夏が近づき薄くなったドレスの生地から、シェリアの体温が伝わってきた。
(あたたかい。……シェリィは、ここにいる)
そのままシェリアを引き寄せ、フィリップは驚く彼女の肩に顔を埋めた。
「———間に合って、良かった……!」
(ああ……やっぱり、私は駄目だな。本当に情けない。私は、シェリィに背負わせてばかりだ)
年頃の女性らしい、華奢なシェリアの肩。
自分は、この壊れそうに細い肩に、なんて重いものを背負わせてしまったのだろう、とフィリップは今更ながらに悔いた。
「すまない。……すまない。シェリィ。すまない。私の婚約者になどならなければ、シェリィは安全で平穏な人生を送れると、分かっているんだ。それでも———」
たとえ出会った日に戻ることができたとしても。
「———手放すことなど、できないんだ。自由にしてあげられなくて、すまない。……シェリィが、好きなんだ。どうしようもないくらい」
「……」
シェリアは暫く黙っていた。そして、フィリップが沈黙に耐えられなくなりかけた頃、彼の金茶色の髪がくしゃりと細い指で撫でられる感触がした。
「馬鹿ねぇ、フィル」
フィリップは零れ落ちんばかりに目を見開いた。ばっと顔を上げると、「わっ!?」と驚きの声が上がった。
「もう、びっくりしたじゃない」
振り返ったシェリアは、ガラス玉のような青い瞳をぱちくりとさせてフィリップに抗議したが、フィリップは正直それどころではなかった。
「シェリィ、その口調」
フィリップが指摘すると、シェリアはほんの少し目を逸らした。
「……フィルが『フィリップ』として向き合ってくれているのに、私だけ『ランバート侯爵令嬢』っていう訳にはいかないでしょう?」
そう言ったものの、やはり不安らしく、沈黙したフィリップの顔色を窺ってシェリアはそわそわとしている。
「な、何か言ってよ」
シェリアが徐々に頬を林檎色に熟れさせていくのを見て、固まっていたフィリップはハッと意識を戻した。そして、シェリアを一度抱き上げ、自分の足の間ではなく、隣へと下ろした。
「え……?」
シェリアは、やっぱり駄目だったのかと思ったらしく、形の良い眉を下げた。が、真正面から温かいものに身体を覆われ、それが何かに気づいた途端、全身をぼふっと熱くした。
「シェリィ、シェリィ。嬉しい」
「えっ、ちょ」
「昔みたいで、嬉しい」
「……もう」
抵抗しかけたシェリアだったが、ぎゅうぎゅう抱きしめてくるフィリップの心底嬉しそうな声に、『しょうがないなぁ』と言いたげに身体を弛緩させて彼に身を預けた。
そのまま抱き合っていたフィリップ達だったが、やがてシェリアは穏やかな口調で言い聞かせるように語りかけてきた。
「フィル、あのね。確かに私は、貴方の婚約者であることで危険な目にこれからも遭うかもしれないわ。でも、私は貴方の婚約者であることを悔いたりはしないし、貴方の隣に立てることを、誇りに思っているのよ」
ねぇ、とシェリアはフィリップの耳元で囁いた。
———私が誰のために今まで努力してきたと思ってるの。
誰のためか。鈍いフィリップでも、流石に気づいた。
(……顔が熱い)
フィリップの頬の熱を感じたのか、シェリアはふふっと笑い声を漏らした。
「……すきよ。私も、好き」
「そう……か」
きっと、今、二人とも笑みを浮かべている。シェリアの顔は見えなかったが、不思議とフィリップはそう思えた。彼は、自分の唇が笑みの形を作っているのを感じた。
「……シェリィ。きっと、私達には、言葉が足りなかったんじゃないかと思うんだ」
「奇遇ね。私も今、そう思ったところよ」
執務室の窓から差し込む光は、徐々に紅にその色を染め上げながら、やわらかく二人を包み込んでいた。