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手を伸ばし、紅茶の注がれたカップを持つ。そしてそれを口元に運び、ごくりと飲み下す。
たったそれだけの動作だが、妙にティーカップが重く感じる。
《そもそも何なのかしら。私という婚約者がありながら男爵令嬢に現を抜かしている、って噂が流れ始めてるっていうのに、彼が何も対策しようとしないせいで私が尻ぬぐいするハメになるなんて、理不尽じゃない? ほんっといいご身分だこと!》
わずかに磁器が触れ合う音をさせて、カップが置かれる。
《挙句男爵令嬢との関係に口を出そうものなら小姑を見るような目で見てくるし!! 嫌ならまず自分の振る舞いを振り返ってほしいものだわっ!》
(振る舞い……気を付けていると思うんだが……。何かしただろうか)
《大っ体私『愛妾を持つな』とは一言も言ってませんけど!? 時期が問題だって毎回言ってるのよ!! 事実はどうであれ、内定したとはいえ正式に立太子されていない今、私と不仲だと思われればランバート侯爵家が第一王子の派閥から抜けるのではないかとかいう誤解が発生しうるっていうの分かってらっしゃるのかしら!!?》
「……」
(いやそもそも愛妾を持つ気はないし、男爵令嬢ともそんな関係ではないんだが……)
心中これだけ罵倒しているにも拘らず、表面上実に優美な淑女の仮面を被っている婚約者の顔が何故か真正面から見られない。あと冷や汗が止まらない。
「———殿下、どうかなさいまして?」
唐突に声を掛けられてフィリップはびくりと身体を震わせた。……得体の知れない恐怖からではない、ということにしておこう。
「いや? 何でもないよ? どうして?」
とっさに王族として培った鉄壁の笑みを浮かべて逆に訊ね返すと、シェリアは「何でもありませんわ」と女神の微笑みを返してきたが、目が笑っていない上、警戒の色を浮かべていた。
(危ないところだった……。気をつけねば)
何故か婚約者とお茶会ではなく、全く意味のない化かし合いをしていることに気づいていないフィリップは胸を撫でおろした———のもつかの間。
《あの男爵令嬢も殿下が何も仰らないのをいいことに殿下の恋人として振る舞いはじめてるし! な~にが『殿下の寵愛が得られないからって嫌がらせはダメだと思います!』よ!? 嫌がらせとかしてないし、殿下の立太子までは殿下と親しくしすぎるのは控えろ、って言っただけでしょう!?》
(ッ!!?)
咳きこみそうになるのをこらえて表面上平静を保ったが、フィリップの内心は動揺しまくりだった。
(は!? 恋人!? 寵愛っ!? 友人としてエスコートする程度の接触しかしてないんだが!?)
それにエスコートといってもたった一回だ。
男爵令嬢と初めて会った夜会で、広い宮殿内で迷った彼女を会場である広間まで送り届けただけだったのだが。侍従も一緒だったし、噂になるようなことはしていない。元平民なだけあってマナーはぎこちないものだったが、会場に着くまで世間話をしていると、平民視点での世情の話が興味深く、今後の政務の参考になりそうだったので、男爵令嬢に友人として色々話を聞かせて欲しいと頼んだのだ。
それ以降も、ときたま男爵令嬢をサロンに呼んで、友人の子息たちと共に彼女の意見に耳を傾けていただけであり、恋人の振る舞いをした覚えは一切ない。
(何がどうしてそうなった!?)
混乱した頭でぐるぐると考えていると、目の前の女神から、フィリップの心胆を寒からしめる一言が放たれた。
《はぁー……最悪お二人の素行調査入れて婚約解消も視野に入れようかしら。なにせうちの派閥の年頃の高位令嬢は私だけじゃないし》
「え゛」
「殿下? やはりどこか具合がお悪いのでは」
《初恋相手だからって夢を見過ぎたかしらねぇ。次期王として愛妾を作るのはともかく、婚約者を蔑ろにするのはいただけないわよね》
「いやそれには及ばん少し疲れているだけだ」
「……はぁ、そうですの」
(やばいやばいやばいやばい婚約解消される)
その後、お茶会終了まで何とか表情筋を王子様スマイルに固定することに成功したが、背中の冷や汗が止まることはなかった。
* * *
「……なぁ」
「はい殿下」
「あの飴玉、なに」
自室に戻ったフィリップは、侍従以外を下がらせて問いかけた。
侍従はニヤリと笑んで言った。
「『舐めれば人の心の中が分かるようになる!?白魔女印の飴玉』ですねぇ。因みに一粒で2時間効果が持続」
「そこまでは聞いてねーよッ」
フィリップは執務机に両肘をつき、組んだ両手に額を載せて地を這うような溜息を吐いた。
「で、ランバート侯爵令嬢の本音は聞けたかー?」
「聞けたも何も……」
「愛想尽かされかけてた?」
「何で分かる!?」
「そりゃあ、長年にわたり二人をそばで見てきたからなー。ここ数年、毎度のお茶会では会話することもめっきり減ってたし? 『殿下』は『ご婚約者』の忠言をウザがって右から左だし?」
「ぐ……っ!!」
「あの男爵令嬢の本性を見抜けなかったし? ああ、因みにお前以外にサロンに出入りしている子息はみんな気づいてたぞ」
「ぅっぐぅっ……!!」
「本性はともかく、そこそこ有能なのは確かだったから、平民の価値観を知るための貴重なサンプルとして見逃されていたけどな」
侍従はカラカラと可笑しそうに笑った後、まぁ、ランバート侯爵令嬢も全く悪くないわけでもないと思うけどな、とこぼした。
「あくまで俺の個人的意見だけど、淑女教育で、感情を露わにしないように躾けられているとはいえ、完璧に被った猫をお前の前でも一切外そうとしないのはどうかと思うけどな。
だってさ、まだ内定とはいえ将来二人で国を背負うと定められたんだぜ? 貴族同士の事情なんかで何もかも正直に言えるわけじゃないとしても、信頼関係を築くためにある程度内面に踏み込ませるくらいのことは必要だろうよ」
お前もその辺が不満だったんだろ。
声音はからかうものだったが、侍従の目には労わるような色があった。
「まぁ……な」
フィリップは僅かに視線を外して頷いた。
「今回の件、改めて二人できちんと話し合って来いよ。こういうのは『二人で』対処するもんだろ?」
「そうだな。……世話を掛けたな」
「俺はお前の侍従なんだ。これくらいは当然だろ?」
「ああ。感謝する。———ところで、なんだが」
「何だよ親友?」
侍従がフィリップの方に満面の笑みで目を向けると、フィリップは実に見事な王子様スマイルを浮かべていた。但し、目が笑っていない。
「そういえば———お前も、飴玉を舐めていたよな?」
「……え?」
それまで余裕げだった侍従の表情が固まった。
「まさかとは思うが……私とシェリィの心の中を覗いて楽しんだりなんか……してないよ、な?」
ゾクゾクゥ……!!
フィリップが小首を傾げて笑みを深めた瞬間、部屋が一瞬で氷河期に突入し、侍従の背筋に怖気が走った。
「ああああのですね、一種の不可抗力といいますか多分きっと聞こえてなかったといいますか———」
「即刻記憶から抹消しろ」
「サーイエッサー!!!!」
後で聞いたところだと、侍従の裏返った叫び声は扉の外まで聞こえていたそうで、侍従はしばらく侍女たちから不審げな目を向けられる羽目になったとか何とか。