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 コンコン、というノックの音にフィリップは書類から目を上げないまま「入れ」と入室を促した。


「失礼いたします殿下、そろそろお時間です———ってうわお前こんな時でも仕事かよ」


 入ってきたラウールはフィリップが黙々と執務机に向かう姿を見て顔を引きつらせた。


「やるなとは言わないけど頼むからインクは出さないでくれよ? 汚しても着替え直してる時間無いんだから」


「分かってる」


 フィリップの今の格好は盛装だ。戴冠式などで着る衣裳に比べればいくらか落ち着いてはいるが、宝石が縫い留められていたり金糸で刺繍が入っていたりとかなり煌びやかな装いである。


 今夜行われる使節団歓迎の夜会に、当然ながらフィリップはホスト側として、加えてグラネージュ王国の事実上の王太子として出席する。


 次期王太子として正式に内定した今、他国の、特に隣国であり潜在的に競争相手でもあるルストゥンブルグの目がフィリップを見定めようと向けられている。それは今回の夜会でも例外ではない、のだが。


「本当に分かってんのか? 今日のお前の上着、白いんだから一回汚すと後がねーんだよ」


「安心しろ、書類に目を通してるだけだ」


「お前に前科があるから言ってるんだぞ?」


「……」


「目ぇ逸らすなよッ! 前にお前が式典用の服汚した時俺が衣裳係の女官(ばーちゃん)に怒られたんだぞ!?」


 ……この緊張感の無さだった。悲しくなるくらいにいつも通りかつありのままの二人だった。


「いっつもニコニコほんわか笑ってる人だったのに、とっておきの礼服に見事な大陸地図が描かれてるの見て一瞬で悪夢みたいな形相になったんだぞ! 頼むからホント汚すのだけは勘弁してくれ……!」


「……お前、目から汗が」


「るせぇ! ああもう時間だからとっとと行くぞほら!!」


 ラウールは執務机からフィリップを引っこ抜くと、夜会が行われる広間へと連行していった。






 大広間の前の廊下は既に閑散としており、出席者はほぼ全員入場しているのが察せられた。


 ラウールも今回は侍従ではなく本来の身分である伯爵令息として出席するため、フィリップを送り届けた後すぐに急いで大広間に入っていった。そのため、フィリップは手持ち無沙汰に突っ立っている———ようなことはなかった。


(シェリィはまだかな……今回は私がドレスも宝飾品も用意したが、気に入ってくれただろうか。あれは王都の視察の合間に店に行って生地から宝石からシェリィに似合うものを厳選して作らせたものだが、実際に着たところは見ていないからな……まぁでもシェリィならどんなドレスでも着こなしてしまうんだろうな。フリルをたっぷりと使ったドレスだと天使みたいで可愛いし大人びたドレスだとそれはそれで女神だしそれに)


 ……大変忙しい思考回路だった。


 そうしていると不意に背後から聞き慣れた鈴を振るような声で呼び止められた。


「殿下」


 フィリップは即座に振り返ると、少し驚いたような表情のシェリアが佇んでいた。


 艶やかな蜂蜜色の髪は緩く壊れそうに結い上げられ、大輪の白薔薇と小さなペリドットが煌めくピンが飾られていた。耳と胸元にもペリドットが揺れ、淡い色のドレスに金緑色の光を散らす。ドレスの首から胸元は細かなレースで覆われ、裾広がりの袖まで続いている。

 シェリアの白皙の面には純粋な驚きが浮かんでいるため童女のようにも見えたが、ぽかんと小さく開いた口元にほんのり載せられた紅が唇を(つや)やかに彩っているさまは(なま)めかしくもあった。

 そういった外見の美しさもさることながら、長年のたゆまぬ努力で身に着けた知性とシェリア自身の人柄が内側から滲み出るその姿は神々しさ、可憐さ、その他ありとあらゆる魅力を絶妙なバランスで兼ね備えていた。


 要するに、


(ああああああああああっ!! 私の婚約者が女神過ぎるんだがどうしてくれよう!? 何なんだ、なんなんだ一体!? シェリィが最高過ぎるんだが!! いやいつも最高だから『超』最高でいいのか!!?)


 フィリップの脳内はフィーバーだった。


 鍛え上げた表情筋がうまい具合に仕事をしてくれたおかげで表面的には『王子』のままだったが、心のお花畑は満開だった。


「……あの、殿下」


「え、ああ、はい!」


「『はい』?」


 シェリアの問いかけに思わず敬語で返したフィリップは「んん゛っ」と咳払いをしてごまかした。


(しまった、これから夜会だった)


 気を取り直したフィリップは右手をシェリアに向かって差し出した。もう何十回、もしかすると何百回も繰り返した動作。


「シェリィ、行こうか」


「はい」


 シェリアも慣れたように手を伸ばしてきた。


 そっと重ねられた手の人差し指には、緑色の石が嵌まった指輪。


 きゅうっ、とフィリップの胸に甘い痛みが生まれた。指輪を見る瞳が蕩けるのが自分でも分かった。


 その感情を胸に刻むように噛み締めると、フィリップはシェリアの手を引いて会場へと進み出ていった。





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