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グラネージュ国内、某所———。
「———そうですか、提案は通りませんでしたか」
『ええ、こちらも粘ってはみたのですが……フィリップ王子が悉く潰しに来まして。申し訳ありません』
「いえ、ギリギリになって使者が通るルートの変更をお願いしてしまったこちらも悪いのです。それに、『できれば』という話でしたし」
『そう言っていただけると有難いです』
「では、お伝えした手筈通りにお願いしますね」
『承知しました。我が主』
通信の魔道具を切ると、『彼』はくすりと笑った。
「相変わらずだなぁ、フィリップ。……流石だよ。私も師匠として誇らしい」
ギリギリになっての使節団の予定変更、それも相手国からの要望ではなく『私欲からの提言』とはいえ、長年底の見えない王族や官僚を相手取ってきた百戦錬磨の外務大臣の弁舌を封じ込めるのは難しい。にもかかわらず、それを悉く潰してのけたフィリップに『彼』は素直な賞賛を送った。
「本当に、『敵』であるのが残念でならないな」
そう言いながらも『彼』の顔は好戦的な笑みを形作っていた。
ふと、思い出したように『彼』は呟いた。
「そういえば、フィリップは婚約者と上手くやってるのかな。未だに照れて世間話もろくにできないなんてことは……さすがにないよな。もう二十を超えた大の男だし」
(……………………ない、よな?)
……独り言とはいえ、自分の言ったことに自信が持てないのであった。
* * *
第三庭園のアーモンドの花もすっかり散った頃。
グラネージュの首都に悠然とそびえ立つ王宮には大所帯で客人が訪れていた。
「此度の使節団で正使を拝任しております、ルストゥンブルグ帝国第二皇子エーリヒ=フォン=リスティヒと申します。陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
「よく参られた。此度はこちらの事情で条約の見直しの時期を早めて頂いたこと、感謝する」
鷹揚に頷いたグラネージュ国王に、正使であるエーリヒはにこりと微笑み返した。
「とんでもありません、陛下。我が国としましても、こうして前もって貴国と話し合いの機会が持てるのは喜ばしいことと考えておりますので」
(胡散臭いな……)
フィリップは玉座のそばに静かに控えながらそう思った。
普段古狸そのものの大臣や、食えない官僚たちを相手にしているせいもあって、エーリヒの笑顔の怪しさが嫌というほど感じ取れる。
ああいった笑顔の者は、腹の底に一物も二物も抱えているものだ。
フィリップは僅かに眼を眇めた。
ルストゥンブルグの第一皇子、第三皇子とは親交があるのだが、第二皇子と顔を合わせるのはフィリップもこれが初めてだ。彼が正使に決まったと知った時は、来るのが皇族ならば第一皇子か第三皇子だろうと思っていただけに、驚きも大きかった。
(『今までグラネージュとの親交が薄かった皇子が使節団の正使として来た』。一波乱あるのは予想がついていたが、こうも露骨だとな……っと、謁見はもう終わりだな)
「———それでは、ゆるりと寛がれると良い。フィリップ、婚約者であるランバート侯爵令嬢と共に、エーリヒ殿を案内して差し上げなさい」
「はい、陛下」
フィリップはその言葉に頷き、エーリヒに向き直った。
「グラネージュ王国第一王子フィリップです。お会いするのは初めてですね、エーリヒ殿」
「こちらこそ、滞在の間、よろしくお願いします。ところで、そちらの方は?」
エーリヒは例の胡散臭い笑みを深めると、フィリップの横で伏し目がちに立っていたシェリアを見た。
……その笑顔に、嫌な予感しかしないフィリップだった。
「ランバート侯爵が娘、シェリアと申します。陛下の仰せの通り、畏れ多くもフィリップ殿下の婚約者を務めさせていただいております。以後、お見知りおき下さいませ」
(『務め』か……うん、分かってはいるんだが複雑な気分だ)
フィリップは表面上『王子様』を保ちながら心の中で溜息を吐いた。最近は随分と会話も増えてきたとは思うが、その内容のほとんどが政治がらみなのだ。シェリアと意見を交わし合うのも楽しいが、もっと婚約者らしく穏やかで他愛も無い話がしたい。
得意の並列思考でそんな風に考えていたフィリップだったが、目を輝かせて甘い(但し軽い)笑みを浮かべたエーリヒがシェリアの白魚の手を取った瞬間、こめかみにびしりと青筋を立てた。
(こ い つ)
表情だけは『王子様』のまま目の奥に絶対零度の炎を燃やしたフィリップを見て、エーリヒの後ろにいた使節団の者は土気色に青ざめて『ヒィッ』という声を漏らした。
「お美しい方ですね、このまま攫って行きたいくらいだ」
「……御冗談を」
気づいているのかいないのか定かではないが、フィリップから発せられる冷気をものともしないエーリヒにシェリアは些か……いや、内心ドン引いているのが分かる鉄壁の女神の仮面で応えた。
シェリアは握られた手を離そうとするのだが、エーリヒが細身の体躯に似合わぬ力で引き戻すので、両者の手からはぐぎぎ……と音がしそうだった(それを見て、先程の使節団員は涙目だった)。
その場に居る者は皆、予想外のことに硬直したままだったのだが。
「———失礼」
「「!」」
音もたてずに二人の間に割り込んだフィリップは、大して力も込めていないようにも思える所作でシェリアの手をエーリヒの手からするりと抜き取った。
「……エーリヒ殿、許可なく女性に触れるのはいかがなものかと。あと、」
フィリップはふわりとシェリアを自分に引き寄せた。肩のあたりでシェリアが息を呑んだのが分かった。
「彼女は私の婚約者です。ルストゥンブルグの皇子ともあろうお方が、まさか先程の陛下と彼女の言葉が聞こえていなかった、とは仰いませんよね……?」
挑発ともとれるフィリップの台詞に、口を開こうとしたエーリヒだったが、笑っているだけのフィリップの笑顔に口を噤んだ。
しかし、流石に使節団の正使を務めているだけはあるのか、崩れかけていた笑顔を浮かべ直した。
「……これはこれは失礼しました。なにぶん、これ程にお美しい女性を拝見したのは初めてでしたので。『つい』引き寄せられてしまったのです。どうか、ご寛恕いただきたく」
ビシビシッ!!
……と、そんな幻聴がした。
一つも悪びれたところのない『謝罪』に表情だけは『王子様』のフィリップのこめかみの青筋が一層深くなったのを見て、その場にいた両国の面々の心は一つとなった。
((誰か助けて……))




