あっちゃった
「会っちゃった」
私の友達が、窓の外を見ながら残念そうにそう呟く。校舎の三階廊下、窓から見える景色は、風にゆらめく木々と、赤と黒に紫が混じった混沌の空だった。
「会っちゃったって、何がです?」
「ん~?歪みと清潔が、かな?」
さざめは、中二病のような台詞を吐いて、ずっと外を見ている。窓枠に頬杖をついて、両手を顎の下に添えて。
私も、さざめの後ろで外を眺めてみる。何とも不気味で奇妙な空であった。それをさざめは、楽しそうに眺めているのだ。
「逃げなくていいんですか」
「いいんだよ。……君は、逃げる?」
さざめがやっとこちらを振り返った。景色のせいか心の錯覚か、さざめの瞳が赤黒く見える。きらりと光った眼差しに耐えられず、私は即答した。
「もちろん、さざめちゃんと一緒におりますよ」
「うん、よかった」
すぐに元の姿勢に戻り、相変わらず真っ白な雲の異常に早いスピードを観察しているさざめの背中を、私はじっと見つめる。
私は、さざめの友達だ。さざめの、一人だけの友達だ。私の、一人だけの友達が、さざめでもある。
さざめは強かった。嫌われることも見下されることも変な目で見られることも、何も厭わない。私も、いつしかそうなってしまった。さざめといると、強くなっていくようだった。
さざめはいつも笑顔だ。私には、いつも笑みを見せる。他人にも、凝り固まった笑顔を見せる。私もきっとまだ、さざめの本当の笑みを見たことがないはずだ。
「ねぇ、綺麗だよ」
「……正直、そこには納得致しかねます。何と気味の悪い空でしょう」
「そっか……そっか、君は、綺麗だと思わないかー」
残念そうにさざめが言う。でも、私は強くなった。寂しい顔を見ても動じない強靭さを得た。さざめの悲しそうな声音を聞いても、顔色一つ変えずにいられる。
「でもね、わたしは綺麗だと思うんだよ。嗚呼、奇妙な空だね。……わたしの好みと君の好みは、ちょっぴり違うのかもしれない」
「そうですね。でも、さざめちゃんの好きなものが私も好きな時だって、ちゃんとございますよ」
「うん、分かってるよ。だから、わたしは君が好きなんだもの」
そしてさざめは、強くなったね、と私の頭をそっと撫でてくれた。頬が赤らむ。ずっと憧れてきて、ずっと大好きだった人に、ふんわりと撫でられたのだ。
耳にかけていた髪の毛が落ちるのも構わず、私は自分より背の小さいさざめの隣に立った。
「あれ、いつも後ろで控えてくれてるのに、珍しい」
「何だか、少し隣にいたくなりました」
「ふぅん……。うん、いいよ。好きなだけいて」
さざめは少し嬉しそうに笑って窓の外を眺める。さざめは、とても不気味な子であった。最初の頃は、私も忌避していた。危ない少女だと思っていたからだ。
でも、近づいてみてよく分かった。さざめは、正しい。そして綺麗で可愛くて格好良くて、とても怖い。さざめは、良い子だった。
「君は、知ってる?分かる?善悪」
「善悪……ですか」
思いを馳せていると、隣からさざめが私の肘を引っ張ってきた。私はふっとさざめの方を見て、にこりと笑う赤黒い色の友達を不可思議な目で見まわした。
「さざめちゃんは、ご存じなんですか?」
「うん、これが、わたしの答え。正しいと思えた答えは見つかったよ。君の善悪は、ある?」
「私の善悪……」
さざめは、こういう子であった。禍々しい何かを見ながら、純粋で歪な問いを繰り返す。まさに、人類の基本なのだ。
私も、さざめの哲学的な質問にも慣れて来て、あらゆる答えを必死で導き出して来た。だが、この問いだけは答えられない。私には、善も悪もないからだ。
「私の善いことはさざめちゃんで、悪いことはさざめちゃんです」
「あれ、全部わたしだ。あまり嬉しくないなぁ」
「私を変えられたのがさざめちゃんですので、責任は取って下さると嬉しく存じます」
「はいはい、分かったよ。じゃあ、君の善悪は両方ともわたしかな?」
さざめは、いつの間にか隣の教室に移動していた。私も急ぎ足でさざめを追いかける。机の端をちょんちょんとつつきながら、さざめは乾いた笑みを漏らした。
さざめのついた部分が、黄ばんで脆くなった気がした。
「そうですね。私は、さざめちゃんを中心に生きているようなものですから」
「それはもう、友達の枠を超えてない?」
「ですがさざめちゃんは、私の友達でしょう?」
「……質問に質問で返すのは良くないよ。……まぁ、そうだね。君はわたしの友達だ。それも、唯一のね」
「はい。私の友達は、さざめちゃんしかおりません。故、例え地獄でも、どこまでも付いて参りましょう」
さざめは再び、ハハッとうわべだけの笑顔を見せた。案外これが、さざめの本当の笑いなのかもしれない。やっぱり、怖い子だ。
「君、わたしのことが好きでしょ?」
途端、さざめが眉尻を下げながら悲しそうに問うてくる。そんなことを今更聞いてくるさざめが信じられず、私の方がさざめより不思議そうな顔で答えてしまった。
「?はい、好きですが?」
「あれ、即答だ。ん、いいんだよ。好きでいてくれるなら、それに越したことは無いからね」
「そう、ですか」
驚いたように笑ったさざめの笑い方は、乾いた笑いではなく「くふっ」といういつもの笑い方に戻っていた。
さざめは、疲れているのだろうか。いつもの覇気がない。気が付けば、先程の問いから、廊下へと移っていた。後ろで手を組んでぽってんぽってんと軽く歩いて行くさざめをゆっくり追いかけつつ、私は逆に問うてみた。
「ではさざめちゃんは、私のことがお好きですか」
「え?わたし?ん~、あっはは、わたしねぇ。うん、わたしはね、君が好きで好きで堪らない。……くふっ、あっはは、やめようか。こんなかったるい話、こんな幻想的な空間ですべきじゃないよ」
作り笑いを浮かべたさざめが、再びあの場所で頬杖をついた。
瞬間、空がめまぐるしく変化した。眼球が速度に追いつかない。酔ったような吐き気が、私を襲う。
「あれ、大丈夫?」
「は、い。私は平気ですので……」
「うん。それならいいんだけどね。ほら、早く立ち上がって空を見た方がいいよ。綺麗になってきた。って君は、この空があんまり好きじゃないんだったね」
思わずしゃがみ込んでしまった私を、きっとさざめは上の方から見下ろしているのだろう。堪らないと言ったような悦びと愉しみ、そして快感の満ち溢れた声が降ってくる。
私は、やっとのことで立ち上がった。窓の外の空を、しかめ面で見る。
驚いた。空は、左右にバッと別れていたのだ。右は、雲だらけの空。後ろには、今にも襲い掛かりそうな赤黒い空がある。左は、雲が存在していない空。まっかっかで、まるで血のようだ。
「ねぇねぇ、君はさ、どっちが善でどっちが悪だと思うかな」
「……」
「これで、さざめちゃんとは言わせない状況を作ることが出来た。さぁ、答えてよ」
にっこぉっという効果音が付きそうなほど、さざめが口元を歪める。口角の上がり方が尋常ではない。怖さも、今までも比ではないほどに恐ろしかった。目も猫のように細められ、上目遣いかどうかも見極められない。真っ白に磨き上げられた歯が、太陽に当てられて光ることは無かった。
あれほど強く屈強で耐え忍ぶことが得意な私が、さざめに出会ってから初めて、心臓が止まるほどの怖さを体感した。目からぶわぶわと涙がせりあがってきて、背中からぞわぞわと這うような何かが盛り上がってくる。吐き気はないのに、嫌悪感と恐怖がただただ存在する。
「ね、ね、ね」
さざめが迫ってくる。魔物のさざめが、私に近づいて来る。
「ね、ね、ね、ね」
腰を屈めて、もう少しで顔がくっつきそうなほど距離を縮めたさざめは、笑顔を変えずに、首だけを器用に曲げ始めた。
「ね、君の名前、わたしは知ってるんだよ」
「……はい?」
「君はね、良子ちゃんって言うの。嗚呼、いかにも良い人そうな名前だね」
「は……」
「さぁ、良い子ちゃん。善と悪を選んで。そして、わたしはどっちかも選んでみせてよ」
何を言っているのか、と言う暇もなかった。私は胸ぐらを掴まれて、軽々と宙に浮かされた。答えて、とさざめの目が訴えてくる。
「……ぁ」
分かってしまった。善も、悪も、善悪も、空も、雲も。さざめが伝えたいこと、全部が分かってしまった。想定通り、さざめの左手は空だ。
さざめは、悪い子だ。そして私は、さざめが嫌いだ。
「さざめちゃん……。分かりました。私の善悪を、お教えしましょう」
「うん。なぁに?」
さざめの瞳が、更に細められる。眼球が見えない。でも私は、恐れなかった。校舎が悪に飲み込まれようとも、私は培った強さを今ここで、発揮する。
「善は○○こと。悪は●●●こと。そして貴女は――」
「うん」
私は、思いっきりにやりと笑って見せた。
「貴女は今から、悪いことをしようとしていますね」
あーあ、と、さざめが言ったのだけ聞こえた。
「あっちゃった」