なぜ豊かになれないのか
プロレタリアートは、束縛の鎖以外失うものはない−マルクス
ゴミだめのような寝床に伏し、黒崎は倒れるように眠りについた。時計はすでに二時を回っている。また起きたら会社に行き、馬車馬のように働き、罵詈雑言を受け、深夜に帰ってきてただ眠る。豚箱のような満員電車にすし詰めにされ出勤し、上司には「お前のかわりなどいくらでもいる」と罵られ、世界の終わりのような終電で帰宅する。いや、帰宅できるのも最近ではめっきり少なくなってしまった。華の都、それは昼間や限られた場所では煌びやかな一面を見せるものの、世界はそんな一面だけではない。最終電車に向かう足取りのなかでは、泥酔したサラリーマンが当たり一面に吐瀉物をぶちまけているし、電車に乗れば得体のしれないようなにおいにむせ返るだけだ。昼間はそれなりに栄えているこの地域も、夜になれば否が応でも汚いものを見せられる。黒崎もそんな側面の構成員になってしまっていた。
この生活から抜け出したい、そう思ったことも数えきれない。しかし自分の実力への不安と、現状から抜け出せない人間の怠惰さもあり、行動に移すことは叶わなかった。もちろんそうさせない環境が拍車をかけていたのは言うまでもない。
このまま朝が来なければどれだけ楽か。しかし時は、時だけは貧富の隔てなく万人に公平に流れていく。なにかが起きなければ、ここから抜け出すことはできない。朝は来る、なにが起きようとも。
黒崎は目を覚ました。時計を見るとすでに八時を過ぎていた。しまった。黒崎は思った、始業時間に間に合わない。連日の終電帰りで疲れていたのだろうか。黒崎は自分の体を思うように動かせなかった。会社に行かねばならないのに動けない、その事実は黒崎の心に重くのし掛かった。黒崎は涙した。何回、何百回にもおよぶ罵詈雑言を受けた結果、黒崎の自尊心は壊れかかっていた。どれだけ会社が違法でも、お前はだめなやつだ、こんなこともできないのか、ゴミ、クズ、人間じゃねえ、そんな言葉を受け続けていれば自分の価値を客観的に見れず、自暴自棄に陥るはずである。
黒崎は自分の体が、心が落ち着くまで目を閉じた。その時間はたった五分であったが、それは彼にとっては経験したことのないような長い時間に感じた。
落ち着いた黒崎は、なんとか体を起き上がらせ出社へと向かった。どんな言葉を吐かれるのだろうか、そんな恐怖に怯えながらも駅へと着いた。通勤ラッシュを過ぎた電車は、空いているとまでは言わないものの、いつもよりゆとりがあった。彼が知っている世界は、ほんの一面なのかもしれない。
普段より空いた電車で会社最寄りの駅に着く。そこは彼が普段感じていたような殺伐とした雰囲気はなかった。高そうなスーツに身をつつんだ男性、高いヒールを履いたOL、彼には届きそうにないスーツ、手に入れられないような女であった。その瞬間、彼の中でなにかが吹っ切れた。なぜ俺はこんな激務に耐えなければいけないのだろう、なんでこんな薄給で我慢しなければいけないんだろう。そう思ったのだった。
ともあれ彼は会社に向かった。予想通り上司の厳しいお叱りを受けた。しかし彼は普段よりも穏やかな気持ちで聞くことができた。
「こんな会社やめてやろう」彼はそう強く思ったのであった。