before the final 1
リビングの窓には白いレースのカーテンがかかっている。やわらかな秋の朝日が、部屋全体に広がっていた。
テレビでは、アナウンサーが一生懸命ニュースを伝えている。が、その前のソファーには誰もいない。
ガラス戸のついた飾り棚には、装飾のほどこした置物と写真。結婚式の時のもの。赤ちゃん、そして小さな姉妹。家族の写真もある。
奥には、大きめのダイニングテーブル。淡い黄色のテーブルクラスがかけられている。その真ん中に、紙でできた花―おそらく花だろう。クレヨンでぐちゃぐちゃに塗られている。それを、これまたぐちゃぐちゃクレヨンの紙コップに入れられていた。
テーブルの端の席には、ネクタイ姿の男性。もう、朝食は終えている。コーヒーカップだけが置かれていた。その横にスマートフォン。ニュース画面が開かれている。男性は時々、指でなぞるだけ。もっぱら新聞を読んでいた。
対面式のキッチンには、エプロン姿の女性。洗い物をしながら、それを見ていた。
ニュースなら、スマホやテレビで十分なのに。なぜか夫は今時珍しく、新聞なのだ。置くのもかさばるし、ゴミに出すのも大変。そう思いながらも「仕方がない」とどこかで許していた。
女性は時計を見て、キッチンを出る。
「理良! 起きなさい。理良」
と言いながら、2階へと上がっていった。
「はい、幼稚園だよ」
「制服だからね」
なにやら話す声がして、階段を下りる音。女性は赤ちゃんを抱っこして、リビングに入ってきた。男性のそばにおろすと、また、2階へと上がっていく。
赤ちゃんは2、3歩ちょこちょこと歩いて、座っている男性の膝にしがみついた。
「おっ」
今まであんなに真剣に新聞を読んでいたのに、目を細めて笑う。
「おはよ〜」
両手で赤ちゃんの頬をクニクニと回す。
「アー」
赤ちゃんは嬉しそうに両手を上げる。男性は立ち上がると、抱っこして、赤ちゃん用のイスに座らせた。大きいヨダレかけをして、落ちないようにベルトを締める。
キッチンに行き、小さなプラスチック製の食器を出した。キッチンストッカーから離乳食のビンを手に取り、そこへ流し込む。食器には流行りのキャラクターが描かれていた。
会社に行く前に、下の子のご飯の用意は日課になっていた。
2人で「いただきます」をした時、女性がキッチンに戻っていた。
「あなた、ありがとう」
そう言うと、また用事をし始める。
「ああ」
妻は何かすると必ず、「ありがとう」と言う。お互い様なんだし別に言わなくても……だが、どこかで心待ちにしていた。
赤ちゃんはスプーンを握りしめ、不器用ながらもすくい、口の中に入れる。それを微笑ましく見ながら、男性はスーツの上着を羽織り始めた。
「……しゃん、まって。おかーしゃん、まって」
女の子がリズムをつけながら、階段を下りてきた。幼稚園の制服を着て、手にはピンクのうさぎのぬいぐるみ。下に着くと、勢いよく走り出した。
「おとーしゃーん!」
と飛びつく。男性は脇を持ち、高く上げた。
「また、大きくなったな」
そう言いながら、ゆっくりとおろす。
「へへへ」
笑いながら、今度は赤ちゃんの所へ。
「ハイ、うしゃぎしゃん」
とテーブルの上に置いた。そして、隣のイスによじ登るように座る。
「でゅらもたべる〜。おかーしゃん! りゅりぁのごはん!」
「はい、はい」
女性はご飯をのせたお盆を運んできた。
「じゃ、行ってくるよ」
男性はカバンを持ち、玄関へと向かった。靴を履き終えたところで、忙しそうな足音が近づいてきた。
「いってらっしゃい」
軽くハグをして、お互いの頬にキスをする。
「どうしたの?」
男性の問いに、不安そうな表情。
「心配なのか?」
女性は俯いた。
「大丈夫だよ。今すぐどうのってわけじゃないし、長い計画だ。しかも、始まったばかりだ。希望者は全員行けるって言ってし、ちゃんと登録もした。現に、脱出機の打ち上げは何回も成功しているよ」
ともう一度、抱きしめる。
「大丈夫だよ」
男性は繰り返した。
「だから、元気出して」
「うん、そうね。あなたの言う通りね。ありがとう」
明るく笑うと、手を振って見送った。
リビングに戻ると、テレビの音が耳に入ってきた。世界で起きている異常気象や、一昨日の地震などの事を話していた。
理良は赤ちゃんの世話を焼きながら、ご飯を食べている。
テーブルには、置きっ放しの新聞。
"23回目の宇宙へ
米での成功は18例目"
大きな見出しが目に入る。
本当に宇宙に行けるのだろうか。いや、行かなければならないのだろうか。
表向きは希望のあることしか言わない。だが、ネットでは「脱出機の数が足りない」だの「どのそこの国はもう終わってる」だの。様々な情報が飛び交っている。
この子たちはどうなるんだろう。
そう思うと、不安が広がっていくのだ。
「おかーしゃん」
ハッとして、顔を上げる。
「ぜぇーんぶ、たべたよー。こちしょーさま!」
お皿を持ち上げ、自慢げにニコニコしている。
「偉いわね」
と理良の口の周りを拭いた。
夫の言う通り、今すぐ何かしなければならない訳ではない。生活するのに、さほど不便もない。それよりも、この子の滑舌の悪さも気になる。そうそう、幼稚園へ行く用意もしなければ。
「バスが来ちゃうわよ。歯磨き。歯磨き」
理良は、
「わぁーーーー」
と叫びながら、イスから飛び降りる。足音をたてながら、洗面室へと走り出した。
こうやって、日常に逃げているのではないか。本当はもっと真剣に考えるべきではないか。しかし、今は、漠然とした不安を見たくはなかった。