4-21
ゴミとして捨てられる『廃棄肉』を『スジ肉』と呼び、それが食されている地。
――それがラウラ先輩の出身地たるハウトクヴェレであった。
この『スジ肉』は、「牛すじ」などで呼ばれている肉の部位とはまるで別物だ。……まあ、そりゃあいくら上等ではないお肉とは言え、『廃棄肉』という呼び名で売り出されたら食欲も落ちるよなあ。そういう意味では意外とネーミングって大事なのかもしれないね。
そんなことを考えながら、焼鳥に恐る恐る手を出す。……確か、鶏かしらと鶏つくね、それと馬肉だっけ。
うーん、馬肉かあ。正直前の世界含めても馬刺しの印象しかなくて、それ以外の調理法に馴染みは無いのだけれども。強いて言えば鍋とか?
でも目の前にあるのは串に刺されて焼かれた姿。見た目だけなら確かに焼鳥なんだけど。
そして、一口。
……うん。
廃棄肉たるスジ肉と比べれば食べられないことはない。……一応お肉の味はするし、噛み切れなかったりゼラチン質だったりもしない。
まあ、最大限オブラートに包み込めばそんな感想。普通に言ったら? ……お肉の味はするけど、肉々しすぎるというか、堅い上に噛めば噛むほど口の中で獣っぽさが広がる。
とはいえ焼鳥のタレで大分緩和されているのだろうから、スジ肉よりは辛くないのは事実。
「ふむ、馬肉はいけるのか。……何というか価値に率直な味覚してんなヴェレナ」
私の対面に座るラウラ先輩がこれまでの一部始終を見ながらそう呟く。
「価値と言いますと……スジ肉よりは馬肉のがランクが高いということですよね」
口に出してみて、それは当然かと納得もする。そりゃあ廃棄肉と比べてしまえば価値が上なのは当然だろう。
「まあな。高級食材の鶏肉やそれより一段劣る牛肉や豚肉があって、この3種類の肉から見たら馬肉なんて相当下級の肉ではあるが、それでも一応食肉として流通はする。
……けれど、スジ肉はここら一帯でしかあまり食べられないだろう」
先輩の言葉は、ここに来る前に強面の弁護士の先生が言っていた『ハウトクヴェレは皮革製品の街』という部分が大きく関係する。この地で皮革を取り扱えるということは周辺に家畜の集積市場があり、そこでは原材料への加工も行われている。となれば、本来の流通に乗らない非正規のお肉が出回るのも家畜集積地近郊ならではの地場食材と言うこともできる。
でも、私が先輩の言葉で気になったのは廃棄肉の流通ルートの方ではなかった。
「鶏肉って、牛肉よりも高級食材だったのですか……? 何故なのでしょう……」
私にとってこちらの方が驚きに値する情報であった。
私の中の価値基準で考えれば、単位重量あたりの価格でランク付けをすれば部位による差は当然あるが、一般的には牛肉、豚肉、鶏肉の順だと思っていた。
だが、先輩は今、鶏肉を高級食材と明言した。
――お肉の価値基準。
ここにきて、まさかの事実誤認が発覚したのである。
*
「おいおい、ヴェレナ……。鶏肉が一番高いことなんて市場での売値や飲食店でメニューを見れば一発で分かることだろうに……。
……ん? でも確かに鶏肉が高級なワケは私も分からねーな。
まあ、爺なら知っているか。おーい! アンセルム爺! 休憩止めて、こっちに来てくれないかー!?」
先輩はそうして人影の見えない厨房に呼びかける。それから一拍遅れて再び鍛えられた筋肉を持つ老人――アンセルムさんが私達の前に顔を出す。
「……どうしたお嬢、食い終わったか? ってまだまだ残ってるじゃねえか」
「飯は途中だが、爺に聞きたいことがあってだな」
そうして、先輩は鶏肉について尋ねる。
「……ほう、いや。これはお嬢の目の付け所ではないな。お連れさん、アンタのお名前は?」
私が鶏肉が高級品であることの理由を尋ねたことを一瞬で看破される。
「……えっ、あ、はい。ヴェレナ・フリサスフィスと申します」
テーブルの椅子から立ち上がり礼をすると「まあ、まずは飯を食え」と窘められる。そしてそのままアンセルムさんはラウラ先輩の方を向き返る。
「お連れさんの名前は覚えておこう。
……それでお二人さんや、先ほどの答えだが『鶏肉は足が早い』って言葉は聞いたことがあるか?」
それは聞いたことはある。
足が早い、スピードのことを言っているのではなく、痛みやすさ、すなわち『腐りやすい』ということを示していたはずだ。
つまり、鶏肉は他のお肉と比較した際に駄目になりやすいってわけか。
……あれ? ちょっと待って。
でもそれにしては前世のスーパーマーケットでタッパーに入れられて売られていたお肉は鶏肉か否かに関係なく消費期限は2日あればいい方と、どのお肉にもそんなに大きな差は無かった気がするのだけれども。
アンセルムさんの話す「鶏肉は痛みやすいから高級食材になる」というロジックは理解できるのだけれども、その一方で私の知識がこのご老体の論理に対応していない。『前世知識』という部分をぼかして聞いてみるか。
「つまり、鶏肉のが腐りやすいということですよね。
……ただ、売られているお肉ではあまり差を感じませんが……」
「肉は所詮生き物の死体だ。そして、命尽きた亡骸は筋肉が固まる。
とはいえ、固くなっているだけで肉は肉だから食べることはできる。
……だが、そこでフリサスフィスさんの周囲環境が影響する。
見た所それなりの良家の娘だろ、アンタ?
魔石を用いた冷蔵装置を用いるとしばらく、固くなった肉を柔らかくすることができるんだよ」
つまり『死後硬直』と『熟成』。
死後硬直によって固くなった肉は、低温条件下で熟成をすることで食べやすくなり旨味も増す。
問題はそれぞれのお肉でその熟成期間が違うこと。アンセルムさんは例として、牛や豚は数日は熟成に要するのに対して、鶏肉はわずか半日で熟成が完了すると教えてくれた。
ここに消費期限の問題を乗っけると面白いことになる。数日冷蔵装置で放置された牛肉と豚肉、そして冷やされながら運ばれ続ける鶏肉、お店で売られるタイミングでは残りの消費期限は正味同じくらいになるというわけだ。
牛や豚は熟成期間のためにすぐさま私達の前に届けられないが故に。
だから前世で私の手元にお肉が渡る頃には、牛も豚も鶏も似たり寄ったりな消費期限であったのだ。……『鶏肉は足が早い』のにも関わらず。
そして今。この世界では、単純に流通インフラが前世程には発達していない。そして冷蔵保存技術は魔石で可能ではあるものの、一家に一台というレベルで浸透はしていない。
私の家には冷蔵装置はあったが、ソーディスさんの家に行ったとき食品貯蔵のためにあったのは――蠅帳。蚊帳の掛けられた食器棚のようなものに食品を保存していたことも特筆すべきだろう。
勿論各家庭の水準と流通に携わる企業の設備を単純比較することはできないが、それでも最低限冷蔵技術は前世のが卓越しているのは疑いようがない。
……そりゃあ、腐りやすい鶏肉が高価になるわけだ。
そんな鶏肉に敬愛の念を抱きながら、卓上の目の前にあった焼鳥の鶏つくねを口に入れる。
――ガリッ。
つくねの中には歯が競り負けるほどに異常に固い物体が練り込まれていた。
その様子を見て、ラウラ先輩がしてやったりと、こう述べる。
「まあ、理由はウチも今知ったけど鶏肉は高価なのだから、そうおいそれとまともな部位が使われている訳ないじゃないか。
鶏の頬肉の削ぎ落としなどのクズ肉と、骨を砕いて粉末状にしたものにつなぎを入れて摺り合わせたのが、その鶏つくねってことさ」
……骨が混ざってるとか。
……そ、そういうことは食べる前に、言ってくれないと……。
*
「――ってことは、この焼鳥の鶏かしら、ってやつも、普通のかしらではないのですね。一体何なのか教えてもらっても良いですか?」
私が若干涙目になりがら少々語気を荒げながら問うと、ラウラ先輩は押し黙ったが、アンセルムさんがあっさりと明かした。
「……ああ、鶏かしらにはニワトリのトサカが入っている」
……トサカって、あの頭の赤いやつか。
あれこそ、食べられるのか?
言われて見直すと、焼鳥の状態となってもあのギザギザとした見た目はしっかりと残っていた。色味はタレがかかって焼かれているので分からない。
半ば諦めの境地で一口食べると、若干雑味を感じるもののコリコリとした食感で、正直今まで食べてきたなかではまだまともに噛み砕けることから食べやすくすら感じた。……でも、トサカなんだよなこれ。
「一応、これでもアンセルム爺の店は食い物に関しては嘘は付いていないんだぜ。ハウトクヴェレを離れて他の地域に行ってみろ。
得体も知れない獣肉を別の肉と偽って出すような食品偽装は序の口で、パンに漂白剤ぶち込まれたり、ひき肉に粘性の高い土混ぜたり、雑草を染料で着色したもので茶葉を水増ししたりなんか普通にあるからな。
……それも、駅や市場などの人が集まる場所の屋台でな」
――幼少期にお母さんに買い食いを禁じられたことがあったけど、これは命に係わる話だったんだ。今更ながらに異世界のカルチャーギャップを体感することとなる。
それに比べれば、鶏骨が混ざっていたとはいえ鶏つみれであることは間違いなく、確かにトサカは鶏の頭の部位だし、馬肉に至っては正直に馬であることを告げている。確かに食品偽造はしてないけれども釈然とはしない。
「それで、ヴェレナ。こうして普段食べられないものを食べた感想はどうだ?」
軽い口調とは裏腹にラウラ先輩の目は存外真剣なものであることが見て取れた。
まあ、そりゃあただの嫌がらせでこんなことをしてくる人ではないことは、まだ半年の関わりだけれども知っている。
私のリアクションが気になった、という理由は……多分あるだろうが、そちらもおそらく副次的要因に過ぎない。
意図があることはこれまでの言動で透けてくる。ただその意図が読めない。
となれば、ここは直球勝負。ラルゴフィーラへの旅行のときにオーディリア先輩の政治的な迂遠なやり口に嫌悪感を感じていたし、回りくどいやり方出ない方が良いだろう。
「……今回のお昼ご飯……いえ、翻って考えてみれば今日こうして私をこのハウトクヴェレの地に連れてきたのも、全て意図あってのことですよね?
残念ながら私にはその思惑までは掴みかねておりますが」
「……まあ、そこそこ露骨だったかもしれないな。オーディリアの恩寵を受けているなら違和感には気付くよなあ。
……ああ、そうさ。でもそれを語るには、この街とウチについてもう少し話さないとな。それでも付き合うか?」
私は、即座に頷いたのであった。
*
ガルフィンガング特例州ハウトクヴェレ。
この街は、皮革製品の加工の街である。――現在は。
「昔を辿ればこの街はただの小川の流れる寒村だったらしい。……転機は、そうだな。この地に教会が出来たことだ」
森の民が部族乱立時代から国家として統一する過程で、教会も統一への働きかけとして各地に伝道師を派遣して貧困層を中心に女神教の教えを更に広めていた。
この周辺に派遣された伝道師は貧しき民に職を与え産業を興すことで女神教の教義の1つ、『豊穣』を実現できると考えていたらしく、水利に加えて、寒村――すなわち異臭を発生させても問題にならないと考えて皮革の加工師を移住させた。……だから教会が中央広場のど真ん中にあるのか、街の創設者に関連するなら納得である。
職人らが働く環境が出来ると、雑用として周辺の貧しき民が雇われる。
民は気付く。それまでささやかに育てていた家畜の皮を職人は買い取ってくれることに。皮をそのまま渡すのではなく、皮革の『材料』の形で売れば更に高値で買い取ってくれることに。
周辺の村長は思い至る。各々の村の家畜を1つの場所に集めて処理すれば、より効率的に職人に売れることに。
職人らは驚く。気が付けば自分たちはひたすら製造に注力できる環境が、このハウトクヴェレには確立されていたことに。
「そうしたところでウチの爺さんがこの地に訪れる。そこに居るアンセルム爺を筆頭に荒くれ者の戦闘馬鹿ばかりを連れた――傭兵団の長として」
ラウラ先輩――ラウラ・ワルデブルグの祖父は森の民統一期の傭兵であった。
「いや、懐かしいですな。隊長ともに各地の戦場を駆け巡った日々は、陽に照らされる朝露のように輝かしいものであった。
まあ文字通り泥をすすることもあったがの。そんな隊長が受けた依頼の中でも、儂を含めた傭兵団そのものの行く末をガラリと変えたのが、この地の用心棒の依頼じゃった」
皮革の加工の街として急速に拡大したが、それ故にまともな自警組織が無かったハウトクヴェレ。一応それまで暫定的に街の顔として動いていた教会の依頼で用心棒となったラウラ先輩の祖父の傭兵団。
当時から悪臭が酷かったことから、騎士や貴族の私兵がこの周囲に立ち寄ることが無かった。まあ教会の紐付きでもあったので無理に介入する旨味も少ないという事情もあったらしいが。
ただ、新しい街だからこそ刺激が多かった。
発展し産業を持つ街だからこそ金払いは良かった。
そして、傭兵は戦場を行き来する生き物だから何日もお風呂に入らないなどザラにあったが、それは『自他の匂いが気にならない』ということでハウトクヴェレではむしろ利点に働いた。
傭兵団にとってハウトクヴェレが本拠になるのは、必然であったのである。
更に武力を持った者が、街の顔となるのもある種当然だろう。
そして傭兵団にとって最大の転機となるのは、森の民の国家統一。
それまで小競り合いをしていた部族の消失と、魔法使い・錬金術師という国軍の創設が傭兵の存在意義すらも揺るがすこととなる。
「結果、傭兵団は解体し隊長も隠居。名目で残そうとも考えたが『私兵』ということで税を取られるのを嫌がったというわけじゃな」
「ただ……傭兵団としての名声は政府側にも届いていたようで、何人か魔法使いや錬金術師として取り立てられることとなった。
……ウチの父親もその1人だったというわけさ」
そこに繋がるのか。
そして先輩の父親は祖父が率いた傭兵団からの叩き上げの魔法使いということもあり、部族乱立時代に領主に仕えていた『旧来の魔法使い』から見れば野蛮な外様に見え、学閥からは『旧来の魔法使い』として一括りにされるという有様。
……権力闘争に絡めるわけもなく早々に前線勤務へと転属されるわけだが、それは傭兵時代からの稼業である『戦闘』に専念できる環境に骨を埋めることができたというわけで。
そこから瘴気の森から断続的に湧き出る魔物を退治する治安維持業務を続けることになった、というわけであった。
権力闘争から全く無縁の魔法使い。
立場も経緯も全く違えど、ラウラ先輩もまた魔法使いを父に持つ子であった。
そして紆余曲折あって街道の民――昨日まで滞在していたラルゴフィーラの目と鼻の先の国家で治安維持活動をしていた際に魔物の襲撃で亡くなる、というわけか。
「……ウチの父はその仕事の特性上、魔物によって壊滅した村の生き残りなどを発見することも度々あった。時折、そうした身寄りの無い者をハウトクヴェレに連れてくることもあったな」
感慨深く語る先輩。その顔は、3年前に亡くなった父を思い返す娘の姿と、今ハウトクヴェレを率いる代表者としての顔が両立しているように感じた。
そしてこの街には先輩の祖父、あるいは父親に助けられた人が多く住んでいる。だからこそ先輩の父親が亡くなっても手のひらを返したりせず、ラウラ先輩を恩人の娘として扱われ、先輩側も彼らに感謝をしながら持ちつ持たれつで――いつしか認められ『お嬢』と呼ばれるようになったのである。
「成程。……1つだけ伺ってもよろしいでしょうか?」
ラウラ先輩は私の問いかけに頷き返す。
「ありがとうございます。
……先輩は何故、魔法使いを志すことを決めたのでしょう?
……父の意志を継ぎ、ハウトクヴェレを守り抜くためでしょうか?」
「まあ強いて挙げればそんな理由になるかもしれないが、別に手段は魔法使いでなくても良いとは考えている。
……どちらかと言えば性分に合った、という方が近いかもな。
だから私が魔法使いになった最大の理由は、正直父の話云々は関係ない。
『森の民金融恐慌』で失業した銀行員の1人がハウトクヴェレまで職を求めて来てさ。一応会計知識はあるからと適当に経理として雇ったら、そいつが存外公務員に関する知識に詳しく、初めて知ったんだ。
……魔法青少年学院が女の身にも開かれることを」
ああ、そういえば魔法教育の女性門戸開放は、私にとっては既定路線だったけれども、そうでなければ突然決まったかのように見えるのか。
そして、その知識を得たのがまさかの『森の民金融恐慌』でリストラされた銀行員から。
……私、あのとき。ルシアの家で、リベオール総合商会の関係者であるルシアの父ベック・ラグニフラスさんの前で何を言ったっけ。えっと、確か……
――『銀行の、統廃合……』。
私は確かにそう言った。そして今のこの国の銀行の数が多すぎるとも。
そしてベックさんはそれをリベオール総合商会の上層部、そして『経済産業連盟』へ持っていくと話していたはずだ。
そして、当時の経済対策を担った財務大臣で、今の宰相はその『経済産業連盟』の関係者……。
あれ? 私の言動でラウラ先輩の人生が変わっていないか?
滝のように湧き出る汗と悪寒を、先輩らに悟られないように細心の注意を払いながら、私は必死に自身の推理を否定するのであった。
*
「あっ、あの、えっと……。ラウラ先輩やハウトクヴェレの過去から現在までは分かったのですが。
……結局、私を此処に連れてきた意図って何だったのでしょうか?」
少々動揺でどもりながらも、何とか話題を反らそうと試みる。
「ああ、そうだったな。
何、簡単な話だ。ヴェレナ、お前にお金持ち以外の暮らしを知ってもらいたかっただけなんだ」
「それは、どういう……」
「ウチに対して魔法使いとこのハウトクヴェレをどちらかを選べ、と言われたら間違いなく後者を選ぶ。そんなことは今までの話から分かるだろう?」
それは確かに。
3代に渡りこの地を守り抜いているという点、そして魔法使いは先輩自身の父親の職業であった以上の思い入れは無いという点、この両者を鑑みれば先輩にとってのハウトクヴェレの重要性は明らかだ。
私は納得の意を示し、先輩に話の続きを促す。
「ここで問題になるのは旅行中にオーディリアも言っていたが、ウチらは女性初の魔法使いになることだ。
ウチらが望む望まないに関わらず権力闘争に巻き込まれかねないってのも理解している。
……けどさ、ウチにとっての優先順位はあくまでもハウトクヴェレなんだ。
だから、ヴェレナ。ウチは、お前らとハウトクヴェレのどちらかを選べ、と言われても……この土地を選ぶのさ。裏切ってでもな」
……これが伝えたかったことか。
魔法使いよりも大事なものがあるということは、私達と何者かが利害で対立した場合にラウラ先輩は敵に回る可能性がある。けれど、こうして私に告げるということは選択肢は無いが葛藤もあるということで。
「だから……ラウラ先輩は政治的な動きを嫌うのですね」
「ああ、そうさ。
ウチ自身が下手に権力を握ってしまえば、オーディリアやビルギット、お前と対立しかねない。
であれば、私は魔法使いとして派閥抗争に関わることの無く作戦を立てたり前線で指揮することを望む」
ラウラ先輩は政治的な動きや思考が出来ない訳でも、才覚が無い訳でもないのだろう。ただその先に待つのが私達同士の対立である可能性を見越して、中学生である現時点で権力闘争から身を引いて魔法使い……いや、『純然たる軍人』としての本分を果たそうとしている。
オーディリア先輩とはまた違った形の化け物じゃないか……。
「……それを何故、私に伝えたので? 正直オーディリア先輩やビルギット先輩のが適当なのではないでしょうか」
「オーディリアは駄目だ。あいつは、こういう貧民の現状を理解した上でなお自身の目指すものを優先している。あれは最早信念だろ。
ビルギットは生まれからして違うからこうした問題にはほぼ無関心なんだよな。あいつの立場を考えればまさしく他人事なのだから当然と言えば当然なのだが」
「それを言ったら、私だって従士階級の出。……ビルギット先輩と同じなのではないでしょうか」
「それがウチも不思議なんだが。お前、知らなかっただけだろ? 旅行を通じてそれが分かったのは収穫だった。
――教会の幼稚園に行ったとき、お前は幼稚園の教育制度を細かく聞いていたな?
――教会併設の小学校に行ったとき、そこの子のノートに着目したのは。
それはヴェレナ自身が無知であっただけとも言えるが、だがそれが却って1つの可能性を思い至らせた」
ラウラ先輩が、魔法使いひいては国家公務員の権力闘争の場に出ることを放棄している現状、オーディリア先輩とビルギット先輩のいずれかが今後の女性魔法使いの指導者的な立ち位置になることが推測されるが、そういう立場はまず間違いなくオーディリア先輩の独擅場だろう。
そしてそうなったときに、オーディリア先輩を補佐するのは私であるとラウラ先輩は睨んでいたらしい。
だからこそ私をオーディリア先輩の操り人形とならないように、お金持ちの世界以外を見せる必要があった、と。
「最もオーディリアに近しいヴェレナが無知であることは、それ自体が罪だ。
別に今回の出来事で貧しい者の全てを知ったと思われても困るが、それでも全く知らないのとでは考え方が変わるだろう、と思いハウトクヴェレを見せるだけ見せたってわけさ」
――それは、まさしく彼女が政治的に動くことが出来ることの証左であった。
ただ、その意志が無いだけだ、ということの。
「ああ、そうだ。一応ヴェレナに紹介しておこう。ドラスタン! こっちに来い!」
話が一区切りになった後、ラウラ先輩は大きな声を出し、誰かを呼びかける。
すると店の後方で黙々と食事を取っていた男の子が立ち上がり、先輩の前までやってきた。
「はい、お嬢。どうか致しましたか?」
「こいつはハウトクヴェレの未来を恐らく担う者だ。ヴェレナにも紹介しておこうと思ってな。先ほど父親が身寄りの無い者をこの街で引き取ったって言っていただろ? その中の1人でしかも逸材だ。ウチの5歳年下だから今は小学3年生か。剣の才があってだな。この歳で元傭兵共を唸らせる程の実力があるんだ。
ほら、ドラスタン、自己紹介しなさい」
「……ドラスタン・オーガンです。……あの、お嬢? こちらのお連れの方はどちら様で? まさか攫ってきたのですか?」
「ドラスタン……お前も攫ってきたっていうのか……。魔法青少年学院の後輩だ後輩!」
「へえ……お嬢以外にも魔法使いになれる方が居るんですね……。ああ、すみません。よろしくお願いいたします」
はえー、礼儀正しい子だなあ。
そんな子供でもやっぱり私は誘拐されてきたようにしか見えないのね、若干ショックだわ。
*
その日の夕方、途中のオーティローンまでラウラ先輩とドラスタン少年に見送られて、予定通り夕方には家へと戻ることとなった。
オーティローンから路面列車に揺られてロッシュヴェル。そこから鉄道で数駅のヘルバウィリダー。市内バスに乗れば両親の待つ実家だ。
「……新聞は確認した。1日早かったがよく帰ってきたな、ヴェレナ」
家に入るや否やお父さんに激励の言葉をかけられる。
いや、単なる旅行のつもりだったけど、色々なことがありすぎた。
そして最後の最後にラウラ先輩の家に行ったことで、あの外交官の不審死事件すらも頭から抜け落ちるほどの衝撃を受けた。
「まずは着ている服を全部洗濯に回して、すぐお風呂に入ってきなさい」
玄関先をお母さんから言われた指示は、おそらく長らくハウトクヴェレに居たために身体と洋服に臭いが移ってしまったのだろう。
まあ両親に無理に不快な想いをさせるつもりは全く無いので、大人しくお風呂へと直行する。
ああ、そうだ。何だかんだでお昼ご飯はゆっくり食べた上に結構量もあったからお母さんに少な目にするように言っておかないと。
そして魔石装置のシャワーで身体を流し、粉末シャンプーで頭を洗い石鹸で身体の汚れを流しながら思慮にふける。
旅行も。その後のラウラ先輩の街も。
今回の出来事は驚かされることばかりであった。
もう後少しで9年近くこの異世界に居ることになるが、それでもまだまだこの世界について知らないことばかりだと判明する旅行であった。
今まで触れてきた世界の全ては、ラウラ先輩曰く『お金持ちの世界』でしか無かったこと。
平民の中にも差があることは朧気ながらも分かっていたが、その差は想像以上に歴然としていたこと。
寄宿舎で果物を食べることに全力を注いでいたラウラ先輩の実家が、こんな状況であるなんて考えもしなかった。
けれど例えば私が食べ物を施したり、もっと住みやすい街を用意したり、みたいな考えは間違っているんだろうなあ。
ハウトクヴェレには今を生きる生活があった。過去から脈々と受け継がれる意志があった。そして、未来を背負う覚悟を持った子供の姿もあった。
これらに易々と私が手を出してはいけないだろう。やっぱりまだまだ何も知らないという結論に尽きる。
……ただ、それでもあの臭いについてはどうにかした方が良いとは思うが。
――ともかく。
今まで色々と経験し、多少ながらも分かってきたこの世界、というものがまた分からなくなった。
積み上げてきた価値観の崩壊。こんなことは考えもしなかった。
自分の知る世界の狭さ。そして目に見える世界を知らず知らずのうちに都合の良い世界――前世に似ている――などと解釈していた部分。
まだまだ前世知識に囚われてしまっていた部分が多かった。
前にもこんなことはあったよな、製紙事業のとき。
失念。ではない。ずっと前世知識の傀儡にならないように、あくまで判断基準の1つとして自身の知識を活かしてきたつもりだった。
それでも、やっぱり都合の良いように解釈してしまっている部分が無意識下であったのだ。……いっそのこと前世知識ごと、絶念してしまおうか。
そんなことを考えながらお風呂を上がると、両親が2人とも待っていた。
「随分と風呂場で考え事をしていたんだな」
「おかげで簡単だけれども、ちょっとした食前のデザートが出来てしまったわ」
小さなカップに入った白くてぶつぶつとしたチアシードのプティング。
その上には一口大に切られたバナナと、グラノーラが乗っていた。
「ねえ、お母さん。食べてもいい?」
お母さんは何も返答をせず、銀の匙を手渡した。
「……食べながら、何があったか聞かせてもらおうか。
この旅行で色々と得るものがあったのだろう。話してみなさい」
ダイニングテーブルに座り、匙を使ってグラノーラを一口。
ぷちぷちとした食感とさくさくとしたグラノーラ。そしてそれらを包み込むかのような優しいバナナの味。
それらがアーモンドミルクの芳香に包まれて3つの食感を1つのデザートして集約している。
「美味しい……。美味しいよ……」
――私はグラノーラを使ったこのお菓子の美味しさで、前世も含めた全人生で、生まれて初めて料理の美味しさで号泣した。




