1-1
◇ ◇ ◇ ◇
新たな聖女として、あるいは聖女の国の代表としてアンジェリーカは森の民政府の下へ降伏交渉を行うこととなりました。
「……お久しぶりです。エルフワイン様」
「アンジェ……いえ、アンジェリーカ特命大使。……変わらぬようだな」
エルフワイン様の様子は最後にお会いした、あの官吏体験のときに偶然会いまみえた際の才気溢れるお姿はすっかりと息を潜め、謀略と陰謀にまみれたこの森の民の魔法使い過激派らに手を焼いていたことがありありと伝わってくるようでした。
私達の周囲は森の民の護衛は近衛兵らしき人影を除けば残るは我らの聖女の国の手の者のみです。森の民の魔法使い・錬金術師の類は徹底的にこの予備交渉の場からはたたき出しました。そしてそれを認めて下さったのはエルフワイン様だからこそとも考えられます。
しかし……
「いえ、全てはあの頃から変わってしまいました。私達の関係も……我が国と貴国の関係も……そして、私の故郷も」
如何に知己であり今でも恋い焦がれるエルフワイン様といえども、『森の民の代表者』の発言として無視できぬものがありました。私は他ならぬ彼らの占領政策によって故郷の街を破壊されたのです。……占領、それそのものは戦争の常なので致し方なかったと言えるでしょう。これに関しては我が国の国防の落ち度もございました。
しかし、あの魔石が採れ、多様な国籍を持つ商人に溢れ、活気のあった交易の中心地たるシフィフォラの地を何故焦土にする必要があったのでしょうか。森の民の立場で考えたとしてもそれはただ貴重な戦略資源たる魔石の収量を下げるだけの悪手だったのではないでしょうか。……我が国の上層部は、『現地指揮官の暴走』と、結論づけました。
いえ、そのような理屈は私も本音の中ではどうでもいいのです。ただ故郷の街の景色を奪った。ただそれだけです。ただ、それだけのために私は戦い続けました。聖女などと呼ばれてはおりますが、何てことのない――ただの、復讐心からくる行動だったのです。
「っ! ああ、そうであるな。失言であった。ではアンジェリーカ特命大使殿。本題に入りましょう」
私の故郷への想いは果たしてエルフワイン様に伝わったのでしょうか。――そして、私の恋心も。
――黒の魔王と白き聖女Ⅴ 森の民ルートエンディング前・最終イベントⅠ「思い出との交錯」――
◇ ◇ ◇ ◇
・
・
・
これで、終わりか。終わってしまった。
『黒の魔王と白き聖女Ⅴ』、なにかコア層に人気だからという安易な理由で碌に確かめもせずに買ってしまったけど、何とか初回プレイでエンディングまでたどりつけた。なるほどゲーム内での経過時間は長かった。だがその分だけキャラクターへの掘り下げもされ、それもあって思い入れのある故郷の街が焼かれた際の相手国に対する憎悪とその国の王子に対する恋心の対比が実に絶妙であった。
ランダム生成キャラでこれなのだ。もし自分でキャラメイクしたヒロインでプレイしたらと思うと、いや、まだまだ攻略対象は多いのだ。これから別主人公プレイをすればそれはよいだろう。ただひとつだけ私に言えることは……
「攻略掲示板でエルフワインルートを薦めたやつめ。どうして、初回プレイでこんなに重い物語をやらせたんだ……」
明らかに初回プレイの人におすすめするシナリオではない。「魔王の侵略に怯える他国の王子を救い聖女の国の2代目聖女を目指す恋愛ファンタジー」というお題目は、確かに間違ってはいない。だけど、やってたことほとんど人間同士の戦争じゃないか! 何が悲しくて攻略対象の国を降伏まで追い詰めなきゃいけないのか。いや、ヒロインが受けた仕打ちを考えればそれは妥当なのか?
しかもその王子は同国の魔法使い強硬派の『悪役令嬢』であるヴェレナとかいうやつと婚約し傀儡になってしまうとかいう寝取られ要素まで含まれている。いや正確には寝取られではないか、まだその時点では攻略対象キャラのひとりでしかないよな王子。
まあ、他プレイをすればおいおい明らかになるだろう。『森の民』とかいうあの王子以外の国もそれなりにあることは分かった。でもやはり、こうしてプレイした後だと敵国? たる森の民が一番気にはなっているけれども。うーん、隣国にあった商人の都市国家の集まりも面白そうだが……
「うわあ、もう朝だ、ゲームで徹夜してしまった……」
土曜日 AM 7:15。昨日の夜からぶっ通しでやってしまい疲労感がすごい。身体を伸ばしてみるとあちこちで骨が小気味いい音を鳴らす。飲み物取りに行ったり以外はほぼずっと座りっぱなしでプレイしていたので当然だ。
何が悲しくて金曜日の夜、折角の休みの前の夜中の時間をゲームに費やしてしまったのか、言いようのない後悔が私を襲う。世間一般の人たちはもっと煌びやかな生活を送っているのではないのか、それに比べて狭い部屋に閉じこもってPCの前でイケメン王子にぐへへってなってる私って一体、
「まあ、いいか。とりあえず朝ごはん食べるか……」
悲しき思考を空虚に部屋に響く独り言で遮断する。朝ごはんといっても疲労感から作る気力など湧かない。だがそれ相応に私の身体は空腹を訴えているから、とりあえずすぐ食べられるものに手を伸ばす。
そういえばコーンフレークがまだ残っていたなと、キッチンへ向かう。コーンフレークに牛乳では少々華がないので、フルーツグラノーラを半分ほど混ぜ、牛乳の代わりにバナナオレの紙パックを手に取り容器に注ぐ。私の皆無に近い女子力とほぼ無意味な女としてのプライドが共同戦線を張った結果がこれである。
はいそこ、フルーツグラノーラにもコーンフレーク入ってたよね、とか言わない。腹減ってんだよ私は、少しくらい量あってもいいだろ。
こうして手軽さと引き換えに糖分とカロリーが犠牲になった朝食を右手にスプーンを持ち、ぼやけた思考のまま何となしに空いた手でリモコンを操作しテレビをオンにする。長編ゲームをやり終えた後の独特の非現実感から日常に戻ってくるために、また無音でご飯を食べるのは少し寂しいのでここは文明の利器を頼る。
〈……先日野党議員から提出された『電子書籍閲覧税』について、有料の電子書籍に加えてインターネット小説投稿サイトなどの無料で閲覧できる文芸作品も課税対象にする法案が衆議院本会議を賛成多数で通過いたしました。なおそれに対して一部の有識者は強い反発を示している模様です。無料のインターネット小説投稿サイトと言うと一昨年、そのクラシックな中世ファンタジーの世界観から一世を風靡して世界文学賞を受賞した……〉
〈……世界的な時流に乗る形で実行された『VR教育事業』ではありますが、早くも一部の小・中学校の教育現場では大きな混乱が起こっている模様です。そもそもこれまで教員免許の取得条件にVR関連技術の習得が必須ではなかったことが問題となっており、児童・生徒のVR上での課題の履修状況を教員が確認できない、民間委託された教材の質・内容について学校上層部・式部科学省関係者も把握できていない、などの困惑の声が上がっております。政府としては「教育制度の効率化・流動化ためにも対象者には講座や技術指導を行うことも検討する」とのことで……〉
〈……未だに特効薬の見つかっていない、肉体と魂のバランスが崩れることで肉体の持つ質量が魂のエネルギーに変換され疾患者を魂が引き寄せた異世界へ強制的に転生・憑依させる『突発性異世界転生症候群』ですが、帝国製薬によって予防ワクチンが開発されました。国民生活省は本ワクチンの摂取を国民の義務とした上で、速やかに予防接種を実施するよう各自治体・企業・学校に通達した模様です。現時点での世界全体での発症者は208名と言われる一方、発症した場合の帰還例が一度もなく、肉体がエネルギー変換時に完全に消失してしまうことから本人確認も不可能であり、これまで疾患者同士で同一世界同一時間軸に跳躍しないこと程度しか分かっていなかったところでの今回のワクチンの発見は、本病の有効的な対策への大きな進歩だと……〉
流石にこの時間はニュース番組ばかりだ。適当にチャンネルを回していたがあんまり見たいと思う番組もない。背景音楽にするにはいささか趣に欠けるテレビのニュースキャスターの通る声をバッグに、黙々と朝食という名の糖分を摂取する。最早その姿を食事という色のある風景ではなくむしろ機械的な作業とも言ってもよいだろう。
ふと窓の外を見れば和やかな朝の光に包まれ、これから休日を満喫する人々を抱擁するかのような心地よさが感じられるように思える。
まあ、私は徹夜したんで日の光なんて目に毒でしかないのだけれども。そもそも朝日が平等に照らすのはやめて頂きたい、今の私には直射日光は本当に辛い。
今日はこれからどうしようか、と詮無きことをスプーンを進めながら考えるもやはり食欲が満たされつつある今、次に感じる感情は眠い! とにかく眠い! これに尽きる。
なんだか加えて頭痛だが目の疲れだか分からないぼやっとした痛みのような感覚もあるし、ひとまず寝た方がいいのだろう。
使った食器は洗うのもなんだか億劫になってきたのでとりあえず放置して、布団に潜ることにしよう。なけなしの女子力はグラノーラに変換されたのだ。
布団に入ると無意識的にスマートフォンに手が伸びるが、寝る前のスマホは睡眠の質を下げる大敵だと、心、いや魂までも鬼にしてスマホ欲に反抗して眠りにつくことにする。
今の時間が朝ということを除けば殊勝な心掛けと言えるだろう。
あっ、起きたら攻略掲示板であのシナリオ薦めてきたやつに文句書き込まなきゃ。こういう細かいことは忘れないタイプなのである。
・
・
・
*
〈……国際保健機関は全ての国家・地域における『突発性異世界転生症候群』の警報・注意報をこのまま推移すれば来月4日の段階で解除されると発表しました。各国政府の懸命な予防活動、ならびに帝国製薬が今回ワクチンの無償提供と技術に関する一切の権利を放棄したことで、異例の短期間での収束を迎えることとなりました。本件の犠牲者は世界全体で209名に上っておりますが、これ以上の感染拡大は無いと見込まれ我が国でも国民生活省が主導して設置した対策チームも解散することとなっております……〉
*
・
・
・
……んんっ、えっと、今何時だろうか。
ああ、アラームをかけるのを忘れていた、これは結構長い時間寝てしまっただろうか。長く寝すぎたせいか頭痛がするし身体もだるい。
寝たのが朝の8時前だったから、もう夕方とかなのだろうか。これだけ寝てしまうと起き上がるのも億劫になってしまう。寝不足は身体に毒だけど、寝すぎも毒だよね、本当に。
とりあえず、枕元にスマホを置いていたはずだから、それを手探りで探してっと、ん? ……あれ、おかしいな、無い。寝返りしたときに運悪く腕か何かで布団の外に飛んでいってしまったのだろうか。しょうがない、起きて探すしかないか。ああ、めんどくさい。
キリッとしない無気力な身体に鞭を入れるように上体を起こし、まだうつらうつらとしている重いまぶたに力を入れ目を開け……る……
――ここはどこだろう?
予想していた決して広いとは言えないマンションの一室である私の部屋の光景が、そこには広がっていなかった。瞬間脳が全力で警鐘を鳴らすように、急激に覚醒し目の前の景色に既視感がないか記憶を洗い出す。
朝に寝たときは、布団で、私の部屋で寝たはずだが、そもそもベッドだここ。真っ先に思い浮かんだ可能性は誘拐だが、そもそもマンションはオートロックだし、寝ている人間連れ出せば入口の監視カメラにがっつり写り込むはずだ。ベランダから出た? いや私の部屋は4階だぞ、無理がある。
それでも誘拐・連れ去りの類であれば一番可能性が高いのは知り合いの仕業だろう。
もっとも合鍵を持つ者などマンションの管理会社と両親くらいなもので、実現性には大いに疑問があるのだが。
ふと、そこまで考えて辺りを見渡すためにベッドから降りようとする。
ん? ベッド、なんか高くない?
ベッドの不自然な大きさに違和を感じると、部屋の天井までの高さが妙に遠いことにも気付く。というか、部屋に備え付けられたドアやクローゼットの扉も収納棚や鏡台にエアコンなども、そして窓などとにかく家具や建具が大きい。巨人でも住んでるのかこれ。
いや、とにかくそれは後だ。窓がある。ここからなら外の様子が伺えるだろう。ベッドから半ば飛び降りる形で窓へと移動する。1枚ガラスではなく木枠で複数枚のガラスを分割している。というかガラスも無色透明ではなく、少しくすんだというか曇った感じだ。窓は案の定妙に高い位置にあるが外の景色が見えないほど高いわけではないので、背伸びをしつつ外を覗く。
どうやら2階もしくは3階くらいのようで、外の景色が一望できる。
道路が無舗装で砂利道だ。
その割には家は密集している。
木造建築の家が地味に多いな。普通の家っぽいのもそこそこある。なんだか屋根の形が若干教会みたいな形だったり外壁も何だか木にペンキ塗っていたりするのもある。あんまりそういった家都会じゃあ見ないけどね。田舎の古い家にある感じ。
そして、街に電柱が見当たらない。なんだか全体的に街の印象がレトロな感じと言えばレトロだしもしかして美観地区的なやつで地中に埋めてあるのかな。
とにかく、まったくもって見覚えのない景色ではあるものの一応ここから出れば助けを呼ぶなり交番を探すなりはできるだろう。人里離れた山小屋とか、何かヤバそうな施設の中みたいな場所ではなくてよかった。
叫んで助けを呼ぼうかと思ったが辺りを歩いている人は見当たらず、なによりこの家にまだ人が居るのか居ないのか分かっていない。
下手に大きな声をあげるよりかは、まだ寝ていると思わせてまずは現状を把握、そしてあわよくばそのまま音を立てずに脱出することもできれば最上だ。
そうだ。現状把握。まずは自分の状態を確認せねば。
ここでようやく自分に意識が向いた。真っ先に目に入ったのは服装。肩がティアードフリルで覆われた白色のフリル袖の半袖ブラウス。
私、こんな服持ってねえぞ。ボトムズを見ればピンクの膝上タックキュロット。
これじゃあまるで子供じゃないか、と思い立ちはじめて気が付いた。
背、縮んでない、私?
確かにずっとおかしかった。家具や建具が大きくなったのではなく、私が縮んだと思えばそれらのサイズは極めて自然だ。
いやいやいや、いくら何でも数十センチメートルも身長が縮むことなんて、ありえないでしょ! そんな超技術があってたまるか。
ふと、部屋にある白い鏡台が目に入った。顔に傷とかついてないか確認する必要はあるよね。
心臓の鼓動はうるさいくらいに高まっていて、手にはひどい汗の感触を感じるものの、私の身体はじっくりと、それでも確実に、鏡に引き寄せられるにじわりじわりと鏡台に詰め寄っていく。
高さが足りなかったので備え付けられた椅子によじ登る。そして鏡の中を恐る恐る覗き込む。
――そこには、私ではない幼児の顔が写っていた。
かつて実家でアルバムで見た私の幼い頃の写真とも全く違う。そもそも色白過ぎないこの子……。うわ、目の色が青い、カラコン入れてないよね。というか全体的に彫りが深い。鼻筋通ってんな、幼児の癖にこんな整った顔してんのかこいつ。って今は私の身体なのか? これ? え?
明らかに別人だ。私ではない。でも私の意志でこの身体は動いている。訳が分からない。一体どうなっているのか、許容範囲を逸脱した出来事の連続にとりとめない思考が巡り、身体が硬直したようにパニック状態になる。身体が命令を受け付けずバランスが崩れていく。
その瞬間、身体がぐらっと傾いた感覚に襲われた。
何てことはない、椅子の上に居ながらバランスを崩したのだから、必然的に椅子が倒れる。
鈍く大きく響く転倒音と同時に床に強く打ちつけた部分から鋭い痛みを感じた。おおよそ乙女らしからぬ色気のない音が口から洩れる。大きな音出してしまったな、と強い痛みの中考える。
一拍子遅れて、慌ただしい足音が聞こえ、その音がこの部屋に段々と近づいてきている。これはやってしまったなあ、と極限状態なのに乾いた笑いが零れてしまう。焦り過ぎてしまい思考が完全に働かなくなってしまい、先ほどまであれほど誘拐だと考え、人との接触を避けようとしていたにも関わらず最早自分をどう守ろうかとすら考える気にもならない。
そして何も対策を講じないまま、無常にも部屋のドアは叩きつけるかのように開かれた。
「ヴェレナちゃん、凄い音がしたけど大丈夫!?」
先ほど鏡の中で見た顔を成長させたような顔が現れた。
もしかして、母親かな。
いや、それよりもヴェレナという名前は聞き覚えがあった。
寝る前にずっとやってた『黒の魔王と白き聖女Ⅴ』の『悪役令嬢』キャラクターの名前だ。
普通に考えれば偶然だろう。
ただ、起きてから初めて記憶にある単語が出てきたのだ。因果を感じざるを得ない。
しかし、ゲームの世界に入るなんてことはあるはずはない。仮にあったとしても発売からそれなりに期間が経ったPCゲームなんだから即刻発売中止にでもなっているだろう。まるで、心当たりが……な……
『突発性異世界転生症候群』のせいか!?
まさか、これか?
最近話題になっていたが、確か世界でも感染者は200人くらいだったはず。確率的によりによって私に?
いや、ありえない。でも……
確か、『肉体と魂のバランスが崩れる』病気だったな。『肉体が完全消失』『強制的に異世界転移・憑依』……心当たりがありすぎる。えっと、本当にこの病気のせい?
確かに、寝る前このゲームが気になる、とか別キャラプレイしたいとかは考えていた。
それを『魂が』引き寄せた?
突拍子もない、とんでもない話だ。
だが、誘拐・拉致よりは今の状況に馴染んでしまう。納得はいかないし理解もしたくない話だが。
ただ、もしも、仮に万が一にも、そうだとしたら。
私は元の世界に帰れない?
元の世界に居た人と会うことすらできない?
ニュースを信じる限り、そうなってしまうのか。それは嫌だ、認めたくない。帰りたい。戻りたい。
私には恋人は居なかったかもしれないが、家族も友達も居るのだ。いきなり何の前触れも別れの挨拶もなく離れるなんて嫌だ。でも帰る手段はない。
割り切ってこの世界で生きるしかない? そんなの部外者だから言えることだろ、この世界に知り合いなんて居ないんだぞ、どうやって生きろと?
ふざけるな。世界が変わっただけ? そもそももう元の世界には肉体がないんだから諦めろ? この世界でまた新しく友人なり恋人なりをつくるしかない?
そんなに人間関係というのは単純で替えの効くものでは、ない、でしょう……
まだまだ、やっていないことだってたくさんある。行っていない場所だって。
あるいは食べたことのないもの、見たかった映画、発売されたのにまだ聴いてない曲、読みたくても買えなかった漫画や本もある、時間がなくてやってない、それでもやりたかったことだってそれこそ無数にある!
それを、全て、諦めろ、と?
何故、私、なの……?
私で、ある必要は、何故? 私は元の世界など決して憎んではいなかった! 確かに、退屈で億劫な日もあったかもしれない、でも、それくらい誰もが感じていることでしょう!
私が、ここまで、される理由は何? 私がそうまでしても異世界に行かなければいかない理由は何?
カミサマと呼ばれる存在が居るのであれば、応えなさいっ!
「――っ、もうやめて!!」
ふと、全身に暖かさを感じていたことに気付く。
……いつの間にか、抱きしめられていた。
顔を上げると、その抱きしめている女性は、涙を流している。それが私のぼやけた視界の中で唯一くっきりと写っていた。
「――あなたは、1人、なんか、じゃないっ! そんなことは、絶対に、ありえないっ!」
その日、私は気が付かぬうちに寝てしまうまで、暖かさを感じながら泣き続けた。