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「……あなたは、私の娘であるヴェレナ・フリサスフィスでは無いわよね」
世間話をするように飛び出した言葉はとんでもないものであった。瞬間思わず真意を問うように、お母さんの表情を伺ったが、真剣な表情でも無表情でもなく本当にごく自然に何でもないような顔で聞いてきている。
――確信があるのか。それとも、お母さんの中では当たり前のことなのか。
否定しなければならない。それを認めてしまっては、この先どうなるか全く分からない。冷遇や虐待などで済めばむしろ御の字であろう。この年齢で放逐などされた場合、どうやって生きていく糧を手に入れればよいか……。
そして何よりも、ここで上手いこと立ち回らないとお父さんとお母さんの関係にも傷がついてしまう。うまく説得してお母さんの意見を翻したところで、お父さんがどう思っているかは正直未知数だ。
お母さんに気のせいだと思わせてかつ、お父さんとの間ではこのことを口外しないように伝えなければならない。それをしなければ、お父さんがお母さんのように私を疑っていない場合私の関係だけでなく夫婦関係が確実にこじれる。
自分のことを考えるのであれば確実に否定しなければならないが、ただ否定しただけでは、お母さんが気狂い扱いされてしまう。
――次の返答からの言動で全てが変わるかもしれないのに、勝利条件が極めて狭いぞ。どうする、私。
とにかく、まずは否定だ。そして何としてでも言いくるめて今言い出したことを完全に無かったことにしなければならない。よし、そうと決まればまずは――
「……そんなに悲壮感溢れる顔で、真剣に私を説得しようと決意している時点で、認めているようなものじゃない。
本当に私のことを騙す気があるのであれば、そこは大泣きする所よ、……ねぇ、ヴェレナ」
あ……、ああ……確かに、そうだ、お母さんの言う通りじゃないか……でも、うん……あれ?
「……ぁ、えっと……どうして……」
――今まで呼ばなかったこの子の名前を、私に呼びかけるの?
私の呟きをお母さんはどうやら、何故私が別人だと思ったのか訊ねたと判断したのかこう答えた。
「あの子、ヴェレナちゃんは、前にグレープフルーツを食べさせたときにね、ものすごく嫌がったの。こんな酸っぱいもの食べ物じゃないってね」
……私と私の身体の子であるヴェレナは味覚が全然違うのか。
うん、それはバレるわ。誰だってそんな決定的なもの見せつけられたら別人だって疑うわ。
でも、今ここでそれを認めてしまってはいけないのだ。私が私でないことを認めるわけにはいかない!
「そ、それは味覚が幼い頃から変わっただけで……」
「……うん、まあ、そうね。そんなこともあるかもしれないわね」
私の苦し紛れの言い訳にお母さんは納得したような素振りを……いや、これは私の言い分に付き合ってくれているだけか。お母さんは苦笑いをしながら二の句を継いだ。
「じゃあ『ノスタルジック・クロック』の演劇を、昔見たことがあるのは覚えているかしら?
あの作品は今流行りとは言われているけど小説が書かれたのはもう5年も昔。とっくに様々な劇団が演劇化しているのよ。それこそ収穫祭のステージに出てくるような小さな劇団でさえもね。
幼いときだったから、見たってことを忘れちゃったのかもしれないわね、ヴェレナ」
――知らない。そんな、私が来る前のことなんて。
ただ、知らないとは言えない。言ってしまえば、別人であることを認めたのと同義になってしまう。私は無言で顔を伏せ頷く。
「そうねえ、他にはジャスミンティーも匂いが嫌いって一度も飲まなかったけれども、それも味覚が変わっただけかもしれないしね。
……じゃあ、ヴェレナ。あなたはいつもお店でメニューを読んで自分で注文していたけど、私たちは文字の読み書きなんて教えていないわよ。それなのに、あなたは平仮名片仮名だけではなく漢字の混ざった文章を普通に読んでいるわね。それは何故?」
……。
「それまで一度も気にしたことなんてないのに、あなたは妙にお金の支払いをするときに私に注目していたわね。お金の価値に気付いた? それとも数字の意味が分かっていたの?
まあ、今であれば確かに習い事の中で数字の使い方とかは習っているのだろうけどねえ」
…………。
「『魔力感応水』を飲もうとしたときに、注意したこともあったわね。それまでは何度叱っても、面倒くさがって蛇口から『魔力感応水』を飲んで体調を崩したこともあったのにね。
なのに、ヴェレナ。……あなたは体内魔力の説明をしただけでその後ぴたりと飲まなくなったわね。そんなに分かりやすい説明だったかしら」
……ああ、これは、もう……。
「あなたはいつも街で畏まった対応をされると、不思議だと感じていたわよね。何故そういった扱いをされるのだろうといつも考えていたように見えた。
不思議よね。生まれてからずっと『魔法使いの娘』として当たり前にそうしたもてなされ方をされて生きてきたはずなのに、ある日突然いきなり疑問に思っているのだもの」
…………これは、無理だ。……説得なんて、できるわけがない。
「料理を食べるとき、確かにフォークとスプーンで食べさせるように私とお父さん、いえアデルバートと2人で教えた記憶はあるわ。
けれどもね、ナイフは危ないということでまだ使い方を教えるのは早いと、今まで触らせたことはなかったのよね。
そしたらいきなり大人顔負けで自然に使っているのだもの。驚いたわ」
……私はもう、何も答えることができない。
そして、決定的な一言が紡がれた。
「あの子……ヴェレナちゃんは左利きだったのよね」
「……ぁあ、っ……」
声にならない声が私の口から無意識的に漏れてしまう。
グラスやカップを掴むとき、スプーンを握るとき、何気ない動作で何かに触れるときは私はいつも右手から動かしていた。
そして私は特に何も疑問を抱いていなかった。それはそうだ、だって私は元から右利きだったのだから。
また、そんな利き手のことなどゲームに一度も出てきていない。『悪役令嬢』の利き手がどちらかなんて、そんなの知っているわけがない。
すると、ふとひとつ疑問が生まれた。
お母さんは一体いつから、このことを分かっていたのだろうか?
その疑問を感じた瞬間思わず顔を上げると、お母さんは涙を堪えたような笑顔でこう伝えてきた。
「……最初にあなたに会ったとき。あなたは『ヴェレナちゃん』と呼ばれたときに酷く怯えていたわね。そしてその名を聞いた直後から、この世の終わりのように怒りと恐怖に打ち震えていた。
……私はてっきり『ヴェレナ』という名前に問題があると思って、それから今までずっとあなたのことを名前で呼ぶのは避けてきたわ」
――最初からだった。お母さんは最初から気付いていた。
ずっと気付いていながら2年間もの間、私のことを隠し通し続け、守り抜いてきたんだ。
「最初から……気付いていたのに、今までずっと……?」
「……まあ、鏡台の椅子から落ちたあの時は違和感だけでしたけどね。
けれど、名前を呼んだだけであれだけ怯えた顔をした自分の子供が居たら、親としては違和感を感じていても娘を落ち着かせることを優先するのは当たり前のことよ。
その後、お父さんに電話したのも、お父さんが普段絶対使わない社用車で帰ってきたのもそういうことだったというだけ」
気が付いたら私は既に泣いていた。お母さんはそれでも気にせず続ける。
「次の日、病院にいったときにはもう既に違和感は確信に変わっていた。
だって隠すの下手すぎるもの、あなた。見るもの聞くもの全てに警戒している時点でもう何かありました、ってばればれよ、そんなのでは。
それでいて肝心なところは娘と全然違うのに、それをバレてないって思いながら行動するじゃない。正直笑ってしまいそうになった場面はいくつもあるわよ」
……そんな風に思われていたとは。ショックだ。あんなに真剣にバレないように細心の注意を払って行動していたつもりだったのに、それが思いっきり仇になっていた。
「それと、結構表情にも出るのよね。今も、はじめて自分の迂闊さを知って驚愕って顔をしているわよ」
「うぐっ……、そこまで言わなくても……」
そうか、そんなに表情分かりやすいか。いや、ちょっと悔しいね。
なんかもうここから誤魔化すのはもう無理だから何だか開き直ってきた。
「……だけどねえ、もしあなたが物事を隠すのが下手では無かったらぞっとするわ。ずっと気付かないで過ごし続ける方が怖いわよ」
確かに、何も知らずにいつの間にか赤の他人となっていたまま、それに気付かず生活している方が恐怖か。そういった意味では必ずしも完全に隠し通せるのも問題と言えば問題だったわけだ。
けれど、気付いていたなら何故今になってそれを指摘したのだろうか。お母さんの立場から考えるとそのまま見て見ぬふりをするという選択も、あるいはもっと早期の段階でこうやって私に伝える選択肢もあったはず。
「でも……、どうして今になって私に伝えたの? もっと早い段階でもよかったはず……」
「それは、今日が『青苧の儀』だからよ。
子供の意識が変わる病気なんて聞いたことが無いわ。だからそうしたことがあり得るのであれば、まず真っ先に疑うのは魔物の仕業ってことよ。
でもあなたは、大聖堂に行っても特に何も起こらなかった。
勿論、2年間のこれまでにあったことを踏まえると、魔物が憑いている可能性はほとんどないとは思っていたわ。
それに加えて、大聖堂の神官方があなたの変化に気付いていなかった、ということは魔物の手口ではないってこと。教会の方々は魔や瘴気の気配には極めて敏感だから迂闊なあなたが彼らを手玉に取るだなんて無理、でしょう?」
お母さんの手際の良さに思わず絶句した。
私の変化に初日で気付きながら、私のことを信じており、でも疑うべきところはしっかり疑っている。
そして2年の月日で無害と判断して、大聖堂で儀式を行うことでかえってお墨付きを得たというわけになる。
つまり、今後仮に私に対して違和感を持った人が居ても『大聖堂で青苧の儀を行った』という事実そのものが、私を魔物だと誹謗中傷することを難しくしている。
私を疑うことが、そのまま大聖堂の手腕を疑うことに繋がるからだ。
お母さん、多分お父さんも共謀なのだろう、もしこの2人の思惑が外れて私が魔物、あるいは教会に脅威ある者と判断された場合、この両親は子供を失うかもしれないのに、私の今までの言動に全賭けをしていた。
それは、唯1つ、私が魔物ではない、ということを確信していたからこそ出来る行動だ。
ここまで考えて、ふと気が付いた。
私の両親は、ヴェレナではない私の身分保障の為に動いているではないか。
「え……それは、つまり……」
お母さんはやっとそのことに気付いたかという顔で、こう答えた。
「あなたは知らないと思うけどね、ヴェレナちゃんは3月生まれで遅生まれな子だったのよ。だから、ヴェレナちゃんとの想い出は3年と半分くらい。
一方で、あなたとの想い出ももう2年になるわね。
……当然、どちらが良いかなんて優劣をつけるつもりなんか無いし、あなたが魔物なんかではないと分かった時点であなたのことも私達の子だと思ってずっと接してきた。だからね、もし仮にもっと早い段階でこういうことになったとしても私達はあなたのことを護る、と言ったことでしょう。
けれど改めて言わせてちょうだい。
2年間、娘として、ヴェレナとして見てきたお母さん、そしてお父さんにとっては、あなたはもう私達の娘なのよ」
そうだった。お母さんははじめからそういう人だった。
であれば、私から言う言葉はこうだろう。ニヤリとやり返しも兼ねてこう言い放つ。
「私が1人だったなんて、そんなことは絶対にありえないことだったってことね、お母さん」
「あら? 今回は疲れて寝てしまうまで泣き続けなくていいのかしら?」
……まあ、お母さんのが一枚上手ということで。
*
話すべきことはまだ沢山あったが、そろそろ夕ご飯を作らないとお父さんが帰ってくるまでに間に合わない、ということで夕食の準備に取り掛かろうとのこと。
「今日このことを話すことは、お父さんも知っているわ。だから、話し合いが上手く言ったら、あなたの好きな食べ物を作って良いと言われているのよね」
好きな食べ物ね……。
もちろん元の世界で好きだった食べ物はあるし、それを希望すればお母さんがおそらく作ってくれるだろう、という気持ちはある。
料理の腕については疑いようのないプロフェッショナルだし、食材の方も多少の高級品でも事情が事情だから何としてでも買ってきそうだ。
けれど、どうしても頭の中に浮かんできて消えない食べ物が1つだけ存在した。
「……グラノーラ。……ドライフルーツのグラノーラが食べたい」
転生前に最期に食べたのがフルーツグラノーラであった。こちらの世界にもグラノーラは存在し、朝食で食べられることもあった。
……けれども、私はどうしてもグラノーラを見ると、元の世界のことを、転生する瞬間のこと、転生した直後のことを思い出してしまい、一度出されたときに一口も食べられなかったことがあった。以来グラノーラは一度も食卓には上がっていない。
お母さんが間食で食べたりはしていたので家にある、ということは知っているが。
まあ食卓に上がらなかったのは十中八九お母さんが配慮してくれていたからなんだろうけどね。この辺も確かに私が隠し事が下手であることを示す証拠ではあったのかも。
でも今であればグラノーラが食べられるかもしれない。過去との決別の為のグラノーラ、というわけだ。
「あなたが、グラノーラの名前を出すとはねえ……。ただ、そうね、夕食にグラノーラは少し軽すぎないかしら?」
完全に思いつきで言ったから、夕食メニューということを失念してしまっていた。確かに夕食グラノーラはおかしいな、そりゃ。
「いや、でも折角ヴェレナが食べたいと言ったのだもの。お母さんに考えがあるわ。グラノーラでいきましょう!」
何やら秘策があるようだ。ここはお母さんの料理の腕に全権を委任して私はお手伝いの方に回りたいと思う。
「いえ、お手伝いは必要ないわ。それよりも、分かっているわよね?」
「えっと……?」
お母さんが何やら詰め寄ってくるが、私には全く心当たりがない。なんだろう。
「あなたが普通の子供でないことは分かっているのよ! ヴェレナちゃんの中に入る前に何をしていたのか根掘り葉掘り聞かせなさいっ!」
その後お父さんが帰ってくるまで私はお母さんに自分の半生を語り続ける羽目になったのだ。
*
「いやあ、それは大変だっただろう、ヴェレナ。ディエダは真新しい話には興味津々でな。正直、こうなることは薄々予想していた」
お母さんの質問攻めについての苦情を帰宅してきた父に告げ口したら半分笑われながらこう言われた、ひでえ。
まあ転生者であることから前世の家族構成までほとんど話してしまったが、唯一『この世界がゲームの世界と非常に似ていて、ヴェレナは悪役令嬢でゆくゆくはこの国を敗戦へと導き失脚する可能性がある』という部分は意図的にぼかした。
あのお母さん相手に完全に隠せたのかは疑わしいが、それでも今この場でも話せないことがあるという雰囲気は逆に察してもらえたかもしれない。特にこの部分について追及が来ることは無かった。
というかゲームとかコンピューターとか、この世界で今のところ見たことのない技術についても関わってくる話なので、事情を抜きにしても単純に説明しづらいので話しにくかったという面もある。
「まあ、いいじゃない。色々ヴェレナからの話には収穫もあったのだから、許してちょうだいあなた、ヴェレナ。そもそも私から切り出すように言ったのはあなたじゃない。これくらいの役得はむしろ当然だと思うけれど?」
あ、そうですか……。私の事情は……、はい、隠していた方が悪い、ですか。確かにそうですね、はい……その節は本当すいません。
お父さんと私が食卓の席につくと、お母さんが何やら耐熱手袋を両手につけて、オーブンから鉄板を取り出した。オーブン、とはいっても電子レンジのような見た目ではなく、洋画や業務用キッチンなどにあるガスコンロの下の部分が丸々焼く場所になっているものだ。これも魔石や魔力動力のハイブリット装置だね。
「今日は、グラノーラを少しアレンジしてみたわ。はじめて作ったけれども中々上手くいったと思うわ」
あんなに自信満々に言い放っておきながらはじめてつくる料理だったのか。お母さんの声にお父さんが若干心配そうな声でこう答える。
「おいおい、グラノーラって大丈夫なのか。……ああ、今日のメニューはヴェレナが言い出したものにするって話だったな。ヴェレナ、グラノーラは本当に食べられるのか」
お父さんも私のグラノーラ敬遠には気付いていたようだ。やっぱりバレていたか。
「嫌いというわけではないから……、ただ色々と思い出すことがあっただけ」
私がこう答えると、オーブンから出てきたものが食卓上に置かれた。
それは大き目のタルトの上にフルーツグラノーラが散りばめられたケーキだった。よく見るとフルーツグラノーラに乗っている小さなドライフルーツの他にもカットされたフルーツが乗っている。
その色とりどりの果実が乗ったタルトはまるで宝石箱のようで、その香りはまさに焼きたてであることを示すような食欲を誘うものであった。
大皿に乗ったタルトはお母さんの手によってナイフで切り分けられ小皿に盛られる。よくタルトを綺麗に切り分けられるなあ、と思ったが何やらコツがあるらしい。後で教えてもらおう。
そのフルーツグラノーラのタルトを目の前にして我慢なんてできない。全員の切り分けが終わったと同時に、私は銀色のスプーンを右手に持ち準備万端だ。
「いただきます」
その言葉と同時に、グラノーラのタルトが乗った銀の匙は、食卓の明かりに照らされて優しく光った、ような気がした。




