092 英雄の領域
ヴィレイナから治癒を受けたあと、カインは性懲りもなく魔族の前に立っていた。
魔族の苛立たしげな雰囲気に周囲の空気がざわつき、蛇たちも落ち着かない様子で右へ左へ動き回る。
「話ぐらいさせろよ」
カインがそう言うと、魔族は地面に尾を打ち付けて怒りを露わにした。
金色の瞳がキツくカインを睨みつける。
「まあ、そう怒るなよ。実はお前を懐柔する為に色々持ってきたんだ」
馬鹿正直に告げながら、カインは腰袋から何かを取り出した。
厚手の紙に包まれた平たい物を手の上に乗せ、魔族に向かって掲げてみせる。
甘い香りを漂わせるそれは、まだ温かさを保ったリンゴのパイであった。それを手に持ち、カインが魔族に向かって歩み寄ろうとすると、ブンッという風を切る音が鳴りカインの手から包みを弾き飛ばす。
ベチャッという音がして、岩壁に激突した衝撃で紙包みを破りパイが飛び散らかった。
「なんてこった。焼きたてを持ってくるのは大変なんだがな」
「黙れ! 人間が持ち込んだ物など口にするわけがないだろうが!」
「毒を警戒してんのか? つか、お前に毒なんて効くのかよ!」
「……馬鹿が」
効くわけがない。魔族の瞳がそう語る。
カインはやれやれと肩を竦めてみせた。
「あーあ、もったいねえ」
カインはそう言って、魔族に背を向けて岩壁へと歩き出し、無惨な姿となったリンゴパイを拾い集めた。
無警戒に散らばったパイを拾い集めるカイン。そんなカインに、空気を切り裂く音が襲い掛かる。
魔族によって振られた尾による攻撃。その攻撃を、カインは背を向けたままの状態でヒラリと躱してみせた。
軽口を叩きながらも、カインは魔族に対して警戒を怠ってはいなかった。ファライヤより教わった探知の技術。未だ数本の魔力糸を伸ばすに留まってはいるが、不意打ち程度ならばなんとか躱せるぐらいにはモノにしている。
睨みつける魔族に対して、カインは真っ直ぐに視線をぶつけた。
暫し睨み合うように沈黙する二人。
すると、パイの香りが気になったのか、横穴から顔を出して警戒していた巨大ヘビがのそりと動き出し、カインの方へと寄って来た。
「なんだ? 気になるのか?」
そう言って、カインはチロチロと舌を出し入れする巨大ヘビに向かってリンゴパイの残骸を差し出してみる。
巨大ヘビは恐る恐るカインへ近づくと、その長い舌でリンゴパイを舐めとった。そして、どうやらお気に召したらしく、カインの腕ごと舐めとるようにしてパイを全て平らげてしまった。
「美味いだろ? 」
カインの言葉には反応しなかったが、巨大ヘビはカインへ攻撃する姿勢を見せずに、ノロノロと横穴の中へと戻って行く。
「俺の態度はアイツに伝わったのかな? それともお前が伝えてくれたのか?」
「…………」
魔族は何も言わない。
カインは首を振って再び魔族の前へと歩み寄る。
そして、少し離れた位置に腰を下ろし、腰袋から酒瓶を取り出して目の前に置いた。
「少し話しをしよう」
バリンッ。
そう言った矢先に魔族の尾が恐ろしい速度で動き出し、酒瓶を叩き割った。
カインはめげずに腰袋からもう一本の酒瓶を取り出して、再び目の前に置く。
バリンッ。
置いた瞬間に叩き割られる。
「実はまだある」
そう言って取り出した酒瓶は五回に渡って、即座に叩き割られてしまった。
「酒は嫌いか? なんだったら甘い飲み物もあるが?」
カインが平然とした態度で告げると、無言のままカインを睨み付けていた魔族の眉間に深い皺が刻まれた。
「……貴様は、魔族というものをわかっていないようだな。殺さずにいてやっている内に帰れ」
「当たりどころが悪ければ死ぬような攻撃を仕掛けておいて、今更それかよ。というか魔族のことがわかっていないって言葉は少し心外だな」
「知ったような口をきくな!」
「いや、知ってるさ。魔族も人間も変わらないってことを俺は知ってる」
「―――っ! 貴様ごときに私たちの何がわかる!」
「わかるさ! 俺の愛した女は魔族だった! 俺より少し長く生きていて、俺たちより少し強かっただけで、それ以外は普通の女の子だった。だから俺は知っている。お前たちと分かり合えることを」
「間抜けが。弄ばれていたと知らずに、理解した気になっているだけだ。私たちは人間にとっての悪だ。そして、お前たちは魔族の敵だ!」
「なら何故手加減している? 見逃そうとしている? 俺のことを本当に敵だと考えるなら、本気でかかって来いメドゥーサ!」
カインの言葉に魔族は目を見開いた。
「―――! その名を何処で知ったのか……いや、そんなことはどうでもいいか」
そう言うと、魔族の纏っている魔力の質が変わった。
体から立ち込める禍々しいほどの魔力。弱っているとはとても思えないほどに力強い。
今まで片膝を立てた姿勢のまま、動こうとすらしなかった魔族はゆっくりと立ち上がった。
背はそれほど高くはなく、鱗のような鎧を身に纏った姿は一見すると華奢な少女のようにも見える。
だが、腰まで伸びた薄い紫色の髪が畝り、その先端が蛇の形に変わった。腰と尻の間から生えた腕よりも太く長い尾が力強く地を叩く。何よりも、獣のように縦に裂けた瞳孔と金色に輝く鋭い瞳が人のそれとは違った。
その姿を見て、カインは立ち上がりながら感嘆の声を上げた。
「魔族ってのは、瞳の色が綺麗だな」
人とは明らかに違う容姿には触れずにそんなことを告げると、立ち上がった魔族は明らかな苛立ちを表情に出した。
「……一つだけ確認しておこう。貴様はマークレウスの血縁か?」
「……いいや、違う。その名は俺の連れが勝手に名付けただけだ。血の繋がりは全くない」
「……そうか。それを聞いて安心した。これで心置きなく貴様を殺せる」
静かにそう告げた瞬間。
魔族の魔力が揺らめき、その姿が掻き消えた。まるで空間に溶けてしまったのではないか、そう錯覚するほどの動き。捉えることも難しい速度。
その動きに対して、カインは意外にも直ぐに対応してみせた。
相手の魔力の動きを目で追い、魔力糸の探知を用いて行う予測。これがなければ、カインはその動きを捉えることはできなかっただろう。
だが、今は出来る。
通常では知り得ることのない知識。スキル、ステータス、魔法。それらの知識を元に鬼のような女にしごかれ、ようやく辿り着いた英雄の領域。常人の枠を超えた強さの世界。
拙いながらも足を踏み入れることに成功し、その瞳に映る世界は一転した。
この世界にはまだ先がある。ファライヤや目の前の魔族は、そんなカインを凌駕した遥か高みにいる筈だ。
それでも、同じ世界を見つめているからこそ、対応は出来る。凌ぐことは出来る。
魔族の拳がカインの心臓を狙って放たれた。
閃光のような一撃を、カインは半歩下がるだけで躱す。
そのまま距離を取ろうと一歩下がると、魔族の尾が追撃として放たれた。
その攻撃もギリギリまで引き付け躱したが、かすった肩の衣類が削ぎ落とされた。龍皮を用いて作られた軽鎧を下に着ていなければ、肉を削ぎ落とされていただろう。
あまり距離を取るのもよくない。
カインはそう考え、鞭のようにしなる尾を掻い潜って、魔族の懐へと入り込む。
合わせるように出された蹴りもなんとか躱し、魔族の背後を取って抱き着くようにして押さえ込む。
この体勢ならば、尾の攻撃は出来ない。あとは力比べで勝てるかどうかだが……。
そう思っていると、蛇となって畝っていた魔族の髪がカインに噛み付いて来た。
痛い。だが、直接攻撃を食らうよりはましだ。そう思った矢先に、蛇となった髪に噛まれた部分が徐々に石化し始めた。
「チッ、そんなことも出来るのか!」
声を上げ、慌てて魔族から手を離して距離を取ると、すぐさま強烈な尾の攻撃を放たれ胸を打たれる。
強い衝撃によってカインの体が大きく飛んだ。
岩壁にぶつかった衝撃で、一瞬呼吸が止まる。
思わず咳き込みそうになるのを必死で堪え、カインは前を向いた。
目線を上げた時には、既に尾の追撃が放たれていた。
カインは転がりながらその攻撃をギリギリのところで躱す。躱す。躱す。
攻撃が止み、ぜいぜいと息を切らしながらも立ち上がり、ようやく息が付けたカインは視線を魔族へと向けた。
金色の瞳をカインに向けて、腕を組んで立つ魔族。その魔族が纏う魔力の動きが僅かに変わったように見えた。
その様子で、カインは魔族が何をしようとしているのかがわかった。
慌てて腰を屈め、瞳に魔力を集中させる。
その瞬間。
魔族の金色の瞳に術式のような文様が浮かび上がった。
石化の魔眼。
その魔力の動きを初めてその目にしたカインは驚愕した。
魔族の瞳から放たれた魔力は、それこそ蛇のように畝りながら周囲を侵食し始めたのだ。
魔力の流れが見えれば躱せないモノは何もない。そんなことをファライヤやミズシゲは言っていた。だが、この動きにどう対処すればいい? 周囲を侵食するように広がる魔力に対して、触れないようにするにはどうしたらいいというのだ。
カインは広がる魔力に触れないようにと移動するが、魔族の放つ魔力は部屋全体を侵食しようとしていた。
どうする?
カインの視界に巨大ヘビが出入りする横穴が映った。
幸いにも魔族が臨戦態勢に入ってから、室内の蛇はみんな横穴へと逃げていった。巨大ヘビも例に漏れず、今は横穴から顔を出してはいない。
すぐさま決断し、ギリギリのところで横穴に飛び込んで避難をするカイン。そのカインの下に魔眼の効果は届かなかった。
どうやら視界に映る範囲にしか影響を及ぼさないようである。
カインは横穴の中でホッと胸を撫で下ろした。
すると、すぐ隣でシュルシュルと音を立てる巨大ヘビと目が合った。
「邪魔してるぞ」
カインがそう言うと、巨大ヘビは嫌そうにカインをグイグイと押して横穴から追い出そうとする。
「だ、待て。もうちょっとだけ見逃してくれ」
カインの叫びも虚しく、巨大ヘビは無慈悲に頭突きをすると、カインは横穴から転がるように追い出されてしまった。
「いってえ」
カインが広間へと投げ出されて、打ち付けた肩をさする。すると。
バンッと地を叩く音がすぐ真横で響いた。
気が付けば、カインのすぐ真横には魔族が立っていた。今の音は尾で地面を叩く音だったのだろう。
さすがにカインの顔も引き攣る。
「ちょ、待て。今のは無しだろ!」
「だまれ」
低い声音で発せられた言葉に慈悲はなかった。
魔族はカインを容赦なく蹴り上げ、浮いた体に手加減無しの一撃を放った。
なりふりかまっていられず、『半魔法』を使用して両腕を交差するようにして守りを固めるカイン。
だが、魔族の拳はそのガードの上から、関係ないとばかりに叩きつけられる。
有りっ丈の魔力を注いで、守りを固めた筈だったが、吹き飛ばされたカインは硬質な岩壁を突き破って広間の外へと弾き出された。
ダンジョンが地響きを起こして揺れ動き、天井から土や岩壁の欠片がパラパラと降って来た。
魔族はフンッと鼻を鳴らすと、カインを追うことはせず広間の端へと歩き出す。端に到着すると壁にもたれて腰を下ろし、今までのように片膝を立てて瞑目した。
揺れ動いていたダンジョン内には、再び静寂が満ちたのであった。




