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085 騎士の決意

 朝日が昇り始めた頃。

 薄手の上着を羽織り、すねの辺りまでしか長さのない短めのズボンを穿いて、木剣を片手に宿から出る人影があった。


 栗色の長い髪を後ろで結び、翡翠ひすいのような瞳を真っ直ぐに前へ向けて背筋を伸ばして歩く姿は、それなりに様になっている。


 その人物は宿の隣にある空き地に足を向け、その中央で立ち止まると小さく息を吐く。そして、姿勢良く木剣を構えて振り上げると一息に振り下ろした。


 風を鳴らして振り下ろされたその一太刀は、凛としたたたずまいと反して弱々しい。


 しかし、そんなことは気に留める様子もなく、彼女―――ヴィレイナは一心不乱に木剣を振るった。


 ある時は槍を。ある時は杖を。またある時は長い棒を。得物を代えて毎朝行われるそれは、綺麗な手にマメを作るほどに繰り返されていた。


 強く握った手の中で、マメが潰れる痛みが走る。


 それを治癒の力で癒して、再び木剣を振るう。


 ただひたすらに、ヴィレイナは日課のようにそれを繰り返す。


 役に立ちたい。自分が傾倒する男の力になりたい。愚かな自分に無償で与えられた恩に報いたい。


 その想いが、元々我慢強く生真面目な彼女を突き動かす。


 ヴィレイナの瞳は揺らぐことなく、ただ真っ直ぐ前だけを向いていた。


 そんなヴィレイナの姿を、木陰の端から眺めている者が居た。


 紫掛かった髪色。セミロングの髪を横に流し、切れ長な瞳が凛々しい青年のような顔立ち。薄っすらと目を細め、唇を結ぶ彼女―――トリティはヴィレイナに声を掛けず、ただ一心不乱に木剣を振るう姿を見つめていた。


 何事にもひたむきな彼女。強く、優しく、時に頑固で真っ直ぐな心。祭り上げられたとはいえ、聖女という立場におごることのない謙虚な姿勢。長い付き合いではないが、ヴィレイナのみせた行動は、トリティが理想とする聖女そのものであった。


 しかし、女性という立場でありながら、剣を磨き聖騎士にまで上り詰めたトリティには、それなりの矜持きょうじがあった。


 だから最初、女性という理由だけで、形ばかりの聖女のお付きにさせられることに強い抵抗感があった。


 何故自分が。


 何度もそう思い、時にはその苛立ちを表に出してしまったこともあっただろう。


 だが、英雄に付き添い、その傍で花のように笑うヴィレイナの姿が、ひたむきに前だけを見つめるその姿が、次第にトリティの気持ちを揺れ動かしていった。


 彼女のことを守るのが自分の仕事だ。だから、彼女が危険に晒されることがあれば、己が矢面に立たなくてはならない。


 その考えは、聖騎士の職務としてトリティの中に最初からあったものである。


 だが、あの時は違った。


 先日出会った自分では到底敵わないであろう敵。英雄、もしくは闘千クラスの強敵。


 そんな敵を前にして、正直足がすくんだ。逃げ出したいとさえ思った。


 けれど、敵の魔術が己とヴィレイナに向かって放たれた時、気が付けば彼女を抱き締め、己を盾にしていた。


 そうしようと思ったわけではなかった。


 だが、体が勝手に動いていた。あの場で取るべき行動を、己の心が理解していたのだ。


 そんな思いも寄らぬ行動の末、気が付いてしまった。


 自分の心はヴィレイナを聖女として認め、心の底から敬愛しているのだということを。


 今もなお真剣な表情で木剣を振るうその姿を見て、トリティは唇を噛んだ。


 彼女は強い。心が。生き方が。


 だからきっと、神の恩恵が与える知識により、もっと強くなる。


 自分が守る必要がない程に。


 その時自分は彼女の隣に居る資格はあるのだろうか。


 自身の気持ちに気が付いてしまったが故に、そんな考えが頭をよぎり胸の内が苦しくなる。


 自分は本当にこのままでいいのか? 神ミリアムを信奉するだけの存在で良いのだろうか?


 ここ数日、何度も自身に向けてきた問い。


 問い掛ける度に心の底が揺らぎ、例えようのない感情が沸き立つのを感じた。


 不意にトリティの脳裏に、先日の争いが思い起こされた。


 悪魔のような敵が放った言葉。


 『残念なことにあいつらは気まぐれだからね。努力したところで、救っちゃくれないのさ』


 その通りだとトリティも思った。


 神が存在していることは知っている。だが、その姿を目にしたことは一度としてない。


 そして、理不尽な死に目に合った者たちを、その目で何度も見てきている。その時神は、手を差し伸べてくれたことがあっただろうか?


 無い。ただの一度も。


 今回、自分やヴィレイナの命が助かったのも、敵より強い者が味方に居た。ただそれだけのことだった。


 神は関係ない。


 なら、強い味方が居なかったら?

 力の無い自分に何が出来た?


 答えは決まっている。


 それを考えると、今でも体が震える。


 己が死に至る想像をしたからではない。何も出来ずにヴィレイナが倒れゆく姿を思い浮かべて。


 守りたい。守れるようになりたい。


 トリティの心に強い感情が渦巻いた。


 今、トリティの前には糸が垂れ下がっている。


 信仰してきた教会を裏切る悪魔の糸。


 だがその糸を引けば、力が手に入る。


 祈りではなく、努力を重ねた先にヴィレイナを守るだけの力が、かたわらに立つに相応しい力が手に入るのだ。


 それを手に入れる為に必要なことはただ一つ。


 秘密を漏らさないという約束。例え相手が誰であっても、信仰する神であったとしても口を割らないという程の信頼を示すこと。


 ただ一言、心の底から誓いの言葉述べれば良いだけだ。


 そうすれば、あの銀色の髪をした少女はトリティの心を見透かし、頷いてくれるだろう。


 トリティは眉をしかめて思い悩む。


 選ぶべきは信仰か、それとも信愛か。


 嘘は通用しない。


 それがわかっているが故に、覚悟が決まらない。


 不意にブンッと風を切る音が鳴った。


 トリティがハッとしてうつむいた顔を上げると、ヴィレイナが額に汗をにじませ、変わらず木剣を振り続ける姿が目に入る。


 けれど、先ほどよりもほんの少し、鋭く滑らかになった太刀筋。


 懸命な努力が一つ実りを結び、一歩先へと進んだ瞬間であった。


 それでも、ヴィレイナはそれに満足することなく木剣を振るう。


 悩まず、前を見て、一歩ずつ行動する。


 トリティが思い悩んで立ち止まっている間もずっと、小さな一歩を積み上げていく。


「……迷わないのだな。あの方は」


 気が付けばそんな呟きが漏れていた。


 努力を続けるヴィレイナの背中を見て、何故だか少し気持ちが軽くなったような気がした。


 ひたすらに努力をすれば実を結ぶ。そのことはトリティも知っている。そうやって努力して積み上げた結果が、聖騎士となった今の自分であるのだから。


 努力して前に進んだ分、得るものは多くあった。


 そう、自分は勘違いをしていた。信仰心故に努力を重ねたわけでは無かった。


 ただ自分は、騎士というものに憧れただけであった。


 それはなんと不純な動機だったのだろう。


 だが、その不純な動機が自分を伸し上げ、そして信仰を得るに至らせたのだ。


 信仰を得てから自分は変わったのだろうか。祈りを捧げ続けて何を得たのだろうか?


 何も変わらない。変わっていない。


 信仰は儚くも弱い己の為にあっただけだ。


 聖騎士となった先に、何も見出せなかった自分を隠す隠れみのに過ぎなかった。


 そんなものを抱えているだけでは、あの背中は守れない。追い付くこともできない。


 そう考えた時、トリティの中で弾けるような何かがあった。


 踏み出すことは怖い。変わっていくことは不安になる。


 けれど、勇気を出して踏み出した先にしかないものがある。努力を重ねなければ届かない場所がある。


 そこに至る為に、信仰などというもので、身を隠している場合ではなかった。


 努力して、少しでも早く積み上げなくてはいけないのだ。


 自分はミリアム教徒である。


 その自分が聖女である彼女を信じることがいけないことだろうか。


 聖女の為に口を結ぶことが、おかしなことであろうか?


 いや、それは言い訳だ。本当はただ力になりたいだけだ。自身の認めた主人の為に、騎士としての忠義を捧げたいだけだ。


 だがそれは、悪いことなのだろうか。


 己が憧れてなった騎士たちはみな、神ではなく人の為に戦ったのではなかっただろうか。


 培った信仰心は、容易に消せるものではない。


 だが、それと同時に自分が騎士であることを思い出す。


 誰かの為に。信頼する主人の為に。


 騎士はきっと剣を振るう。


 今はまだ頼りないあの背中。


 その背中を支える為に、力を付けよう。


 彼女を真の主と定め、このつるぎを捧げよう。


 騎士である為に。己の為に。そして、彼女の力となる為に。


 トリティはそう思い、強い決意を胸に秘めるのだった。

読んで頂きありがとう御座います。

予約投稿しようとしたら間違えて投稿してまった……。

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