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005 みえない決意の裏側

 花のような甘い香りが鼻腔をくすぐり、腕の中には柔らかな感触がした。


 カーテンの隙間からは朝日が漏れ出し、カインを目覚めへといざなう。


 まどろむ思考の中、忘却された記憶が一つ一つ引き出され、カインの意識は次第に覚醒へと導かれた。


 目覚めは良い。


 久方振りの柔らかなベッドのお陰か、寝起きに身体が痛くなっていない。


 花のような甘い香りも、腕の中にある柔らかい感触もなんとも心地よかった。


 さすがは、一泊で大銀貨一枚を取る高級宿である。


 心地よさにベッドから抜け出すのが億劫になってしまう。


 そんなことを考えながら、カインがむにむにと程よく弾力のあるなにかを触っていると、急になまめかしい声が鳴った。


「っん」


 毛布の中から聞こえてくる吐息がカインの胸元をくすぐると、カインは瞬時に状況を理解した。


 首を傾け真隣りのベッドへ視線を向けると、当然のことながらそこには誰もいなかった。


 自身の体に絡みつくように感じる柔らかな感触が心地よく、状況を理解していながらも抗うことは出来そうもない。


 自然と抱き寄せ、押し当てられる感触をたっぷりと堪能した。


 しかし、その感触を味わえば味わうほど、カインの心は深い悲しみの底へと沈んでいった。


 そして、疑問を抱く。


 何故だ! と。


 ベッドの中に潜り込んでいるのは、おそらくマリアンなのだろう。そして、伝わる感触からして、マリアンは服を着ていない。


 絶世の美少女に抱き着かれて目を覚ます。男としてこれほど理想的な目覚めは、そうそう味わえるものではないだろう。


 長い間連れ添った相手ならまだしも、知り合って間もない少女にこんなことをされては、このまま行為に及んでしまうのが普通である。カインもこの状況下で自制する気は起きない。


 だが、しかし。


 誠に不本意ではあったが、起き上がらないのである。肝心の愚息が。


 いつもなら、目覚めと共におはようと元気に挨拶してくる愚息が、状態異常にかかったかの如くグッタリとしたまま、起き上がって来ないのだ。


 ……まさか。と、考えたくはなかったが、カインは一つの可能性を思い浮かべる。


 不能……だと。この若さで。いやそんなわけはない。


 己の中に浮かんだ疑念を振り払うように、カインはマリアンを強く抱きしめた。


 あ。という可愛らしい声を上げた直後、マリアンの悲鳴が木霊した。


 メキメキと音が鳴りそうなほど強く抱きしめられたマリアンが悲鳴を上げ、ギブギブとカインの肩を必死に叩く。


 カインが解放してやると、マリアンは猫のような素早い動きでカインから距離を取り、肩で息をしながらフーと威嚇するように睨みつけた。


「いや、悪かったよ」


 悲しみの所為で思わず力が入り、さすがにやり過ぎたかなと思ったカインが謝罪すると、マリアンは全裸のまま仁王立ちしてズビシと指を立てて言った。


「おかしい! カインはちょっと……いや、かなりおかしい!」


「はぁ? なにがだよ。つか、早く服を着ろ」


「それよ! なんなのその態度? カインわかってるの? 今あなたの目の前には、世界を魅了するほどの美少女が一糸まとわぬ姿で立っているのよ? 襲うでしょ! 普通! 獣のように! 貪るように!」


 マリアンの指摘は尤もである。マリアンほどの美少女に全裸で抱き着かれ、冷静に対処する男など、もはや紳士でもなんでもなくただのヘタレか同性愛者である。もしくは不能野郎であることは間違いない。


 その不能野郎の可能性が僅かだが、ほんの僅かではあるがあったが為に、カインは眉をヒクつかせながら懸命に平静を装った。


 ただし、それでもマリアンには自信があったのだ。


 自分ほどの美少女が誘えば、例え相手がどんなにヘタレであろうとも、例え同性愛者であったとしても、例え不能野郎であったとしても、本能の赴くままに襲わずにはいられないだろうと。


 しかし、カインの行動はマリアンの想定とは異なり、愚息を項垂れさせたまま手を出す素振りすら見せないのであった。


「お前は痴女かなんかだったのか?」


「ちがうわよ!」


「なら、早く服を着ろ。羞恥心ってもんがないのかお前には」


「あるわよ! けど、皆が喜ぶモノみせて何が恥ずかしいっていうの!」


 確かに。その通りである。


「そんなに堂々と見せつけられても何とも思わないんだよ! 恥じらう仕草があるから、その姿がそそるんだ!」


「むぅ。たしかにっ!」


 言われて納得したのか、マリアンは床に脱ぎ散らかしていた下着を着ると、向かいのベッドへ腰を下ろした。足を組み、頬を上気させて瞳を潤ませる。上目遣いで指を艶やかな唇へと当て、胸元を強調するように寄せる。薄手のキャミソールの紐が片口から垂れ下がり、赤みがさした肌がなんとも艶めかしい。


 カインは先ほどまで一切湧いてこなかった劣情が、ムラムラと高まるのを感じゴクリと唾を飲み込んだ。


「……ねぇ。……これで、いい?」


 囁くような吐息混じりの声音に、直立しそうな愚息。一瞬、このまま流されてしまってもいいかな? などと考えたが、カインは煩悩を振り払うように立ち上がった。


「大変結構! 素晴らしい! じゃあ、俺は汗を流してくるからな! 来るんじゃないぞ」


「なっ! ちょ、ちょっと!」


 マリアンがカインの腰に縋るように抱き着いて来たが、ベッドの上に投げ飛ばすとそそくさと備え付けの風呂場へと行ってしまった。


 不能を疑った自身の愚息を案じて、この際手を出してしまうのも構わないだろうと考えたカインであったが、マリアンが半ばぶっちゃけているように、カインを篭絡しようとしているのは明らかである。


 手を出したあとも、マリアンを制御することができるのであれば、問題ないわけなのだが、一度手を出したあと、女を売りにしようとするマリアンを、カインはうまく扱う自信がなかった。


 肝心の愚息が制御不能であることで躊躇しているわけでは決してない。ないったらない。


 結果、カインは所有者としてマリアンに魅了されない為にも、彼女と一線を置いた付き合いをしようと心に誓うのであった。


 そして、このあと風呂場へと乱入してきたマリアンと一騒動あったが、結局シーツで簀巻きにされたマリアンが喚いたり喘いだりしていたぐらいで、概ね何事もなかったといえるだろう。




「…………」


 朝食の席で、カインは白パンを齧り、鶏ガラで出汁をとったスープをすすった。


 マリアンはというと、先ほどからあまり食が進んでいないようで、白パンを握りしめたままジト目をカインに向けている。


 そんなマリアンの様子を無視して黙々と食事を続けるカインであったが、徐に口を開いた。


「なあ、マリアン」


 視線だけで返事をするマリアンをチラリとみて、カインは言葉を続けた。


「お前、その服はどうした?」


「貰ったの」


 ほう。と、感心した様子でカインが声を漏らす。


 みれば、マリアンは白を基調とした布地に金の刺繍をあしらったブラウスと、くるぶしまであるスリットの入った清潔なスカートを着ていた。


 壁に掛けたマントを羽織れば、それは正に教会の聖職者である。


 というよりも、マントに刺繍されたエラー教徒を表す紋章からして、神官の着る衣装であることは間違いない。


「怒らないから正直に言ってみなさい」


「そう言って怒らなかった人をわたしは知らないんですけど」


 ビキリと青筋を立てたカインは、マリアンの頭を鷲掴みにしてぐりぐりと力を込める。


「いだっ、いだだだ。ちょ、ちょっともう既に怒ってるんですけど!」


「いいから答えろ! お前のそれはエラー教の神官服だろうが! 一日二日で貰えるような安価なものじゃないんだよ! それになんだ! この朝食は!」


 バンとテーブルを叩くと、食器がガチャリと音を立てる。


 丸テーブルには一切シミのない、純白のクロスが敷かれ。色とりどりの野菜をふんだんに使ったサラダ。油ののった燻製とふんわりと焼き上げた卵。濁りのない、それでいて染みるような深い味わいのする黄金色のスープ。抵抗なく簡単に千切れるほど柔らかな白パン。等々、豪勢な料理の数々が並んでいた。


 貴族や大店の商人であれば、さほど驚く内容でもないが、一介の冒険者であるカインには過分な内容である。


「それって、口を付けてからつっこむ内容なのかな?」


 カインは無言のまま、生意気にも反論しようとするマリアンに、再び力を込めて頭部を圧迫した。


「いだだだ。わかったわ。ちゃんと説明するから許して!」


 ようやく観念したのか、マリアンは貴族の馬車に乗り込み現在に至るまでの出来事を語り始めた。


 マリアンの話した内容はこうである。



 二日前、マリアンをボルドの街まで送り届けてくれた貴族の名は、ロードル・バレス子爵。プーリエの街を統治している貴族だが、ちょうどボルドの街へ私用で向かっている途中だった為、マリアンの搭乗を許可してくれたようだ。


 これだけ聞けば気の良い人物なのかと思い違いをしてしまいそうになるが、当然そんなことはない。マリアンの容姿を一目で気に入ったバレス子爵は、下心満載で搭乗を許可したのだ。

   

 マリアンを馬車に乗せたあと、執拗に自分の妾にならないかと迫ったようである。


 マリアンほどの容姿であれば、そうなることは必然。だが、彼女にとっても別段珍しいことではなかった為、爽やかにあしらったら、渋々ながらも諦めてくれたとマリアンの談。


 実際どのようなやり取りがあったのかは、要領を得ないマリアンの言葉からは推察することは出来なかった。


 しかし、この時、話題を反らす為に、エラー教について話をしたのが失敗だったらしい。


 バレス子爵は生粋のエラー教徒であり、彼は、ボルドの街にある教会の神官長に用事があるそうだった。


 是非とも一度、神官長に紹介したいと熱弁されたマリアンは、若干興味があったこともあるが、路銀をまるで持っていないことに思い当たり、取り敢えず成り行きに任せてみようと二つ返事で了承したらしい。


 そして、バレス子爵の計らいで、容易に街へと入ったマリアンは、その足でエラー教会まで連れていかれ、神官長と顔を合わせることになったそうだ。


 ゼリオス神官長は恰幅の良い初老の男で、彼はマリアンを一目見た瞬間に、眼を剥いて驚き涙したらしい。


 マリアンはバレス子爵同様、ゼリオス神官長からも熱烈な勧誘を受ける。


 どうやら、教典には『銀髪美少女こそ至高』と、よくわからない言葉が残っているらしく、マリアンの容姿はエラー教の聖女を正に体現しているとのこと。


 エラー教へ入信して欲しいと執拗な勧誘を受けるが、旨味を感じなかった為、マリアンはそれもやんわりと断ったようだ。


 しかし、マリアンの様子を察してかゼリオス神官長もただでは引かず、聖女として入信してくれれば、必要なものは全て取り揃え、最高級の待遇を約束すると言ったそうだ。傍にいた、バレス子爵も援助は惜しまないと熱弁を振るっていたようで、マリアンは数秒だけ迷った振りをして、神官長の申し入れを受け入れたようだった。


 そして、上級の神官服を与えられ、教会に私室まで用意されたが、連れがいるからといって、街の高級宿を取ってもらい、教会の経費で夜は酒場で宴会をしていたらしい。


 酒宴の席で、神官服を着た男が数名混じっていたのはそういうことらしい。


「……つまり。今のお前の肩書は、エラー教の聖女で、その肩書を利用してこの宿に宿泊していると」


「そうよ。凄いでしょう」


「お前は! 所有者である俺の許可もなく、なにを勝手なことをしてるんだ! しかも、僅か二日でどれだけ問題を起こせば気が済む!」


「えー。だってお金持ってなかったし。カインがダメだっていうなら、直ぐに断ってくるけど?」


「馬鹿。簡単に断れるようなことなら、文句なんて言ってない……まったく」


 カインは頭を抱えたくなった。


 エラー教徒として入信した場合、正式な教徒となる為には、洗礼式を受けなくてはならない。


 洗礼式が行われるのは年二回。洗礼式を受けていない信者は見習いとして扱われ、教徒を名乗ること許されていないのだ。その間に入信を辞退することは、世間体があるものの比較的容易い。


 ところが、入信した初日に上級神官が着る正装を与えられたマリアンは事情が違う。


 神官の正装は、一般の信者――ましてや見習いが着て良いものではないのだ。


 着ているだけで、エラー教の教徒、それも上級の神官であることが見て取れる正装を与えられた理由。


 それは、教会側が洗礼式より前に外堀を埋め、周囲に認知させることにより、マリアンを確実に取り込もうとしている意思の表れだろう。


 本人の口から語られなくとも、着ている服装が雄弁に物語る。正に教義の裏をとるようなやり方でなくもないのだが、教会はそれをよしとしたのだろう。


 既に手遅れかもしれないが、完全に外堀を埋められてからでは動き難くなってしまう。


 直ぐに対策を練らなくてはならないが、相手は貴族に神官長という中々に厄介な相手である。仲間と早々に合流を果たし、穏便にこの街を出たいとカインは考えていた。


「カインはさ。なにが目的なの?」


「どういう意味だ?」


 マリアンの唐突な問い掛けに、カインは首を傾げた。


「んー。今後の方針というか。最終的な着地点がなにかあるんでしょう? それってさ、私が聖女になるとなにか不都合なことでもあるの?」


「…………」


「私が聖女になれば、良いお給料も貰えるし、所有者であるカインは、ヒモ男として楽な人生が送れると思うんだけど?」


「俺はそんな人生を望んではいない」


「でしょうね。だから聞いているの。ミリアム大聖堂で世界最強を願ったアナタは、その力を得てなにがしたかったの?」


「……俺は、…………英雄になりたい」


「なんで、英雄になりたいの?」


 その問い掛けで、カインの脳裏に一人の少女の姿が浮かんだ。


 黒く真っ直ぐな髪をなびかせ、凛と佇む姿。


 その少女が振り返り、カインに向かって不器用に笑いかける姿。


 そして、その少女に突き刺さる一本の剣。


 その様子を嘲るように笑う英雄の姿。


 ギリッと音を立ててカインが奥歯を噛み締めた。


 しかし、直ぐに眉間に寄せた皺を弛緩させ、落ち着いた声音で言葉を紡ぐ。


「……わがままを通したいだけだ。俺のやることに誰にも文句を言わせたくない。貴族だろうと誰だろう。それが出来るのが英雄だ」


「権力が手に入れば英雄じゃなくても――」


「英雄だ!」


 突然強い口調で言われ、マリアンは言い掛けた言葉を飲み込んだ。


 カインの瞳には頑なな決意の色が宿っていた。


 その瞳をマリアンは覗き込むようにジッと見つめる。


「どちらにせよ。ずっとこの街にいるわけにはいかない。聖女なんてモノをやらせて、行動が制限されることは望ましくない」


「んー。なんとなくわかったかも……。要するにわたしはカインを英雄に祭り上げればいいのね!」


「ぜんぜん違う! お前は問題を起こさず、俺の言うことをしっかり聞いていればいいんだ!」


 ぶー。と口を尖らせてマリアンが抗議する。


「とりあえず、エラー教についてどうするかは考えておく。今日は一旦、買い出しに行ってくる。色々補充したい物もあるしな」


「お買い物に行くのね!」


 嬉しそうに目を輝かせるマリアン。


 お前も行くのか? と、カインは一瞬眉をヒクつかせたが、放置するよりはましかと思い直し、マリアンを連れて行くことにした。

読んで頂き、ありがとう御座います。

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